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歴史的ヌビア地域略史

歴史的ヌビア地域略史 暫定版

記事内容追加調査中の暫定版です

PCが予め知ってていい情報

 「歴史的ヌビア地域」は、アフリカ北東部のナイル水系?流域で、現スーダン領中北部から、エジプト領の南縁にかけてを指す歴史的地域名。古代の地域概念に基づくもので、現在も使われる地名で言うと、概ねスーダンのハルトゥーム?一縁から、エジプトのアスワン?地域のあたりまでにあたる。

(古代エジプトの伝統的な意識では、アスワンがエジプト本来の領域の北限とイメージされていた)

 イスラム化したヌビア人の末裔は、現在多くが、エジプト側ではアスワン?地方に、スーダン側ではヌビア沙漠の南部に居住。アラブ化しているスーダンでは、「ヌビアとはエジプト領の一地方と言う意識」が主流になっている。現在のスーダンでは、古代ヌビアの痕跡は古代遺跡ヌビア沙漠の地名に見られる程度になっている。

 現在のヌビア沙漠は、古代のヌビア地域の内では辺境部の1つにすぎない。また、エジプト領北部のナセル湖湖畔に存在する世界遺産が「ヌビア遺跡」と呼ばれているなどの事情が重なり、古代ヌビア(歴史的ヌビア)の領域を誤解している人は少なくない。

追加情報

 「歴史的ヌビア地域」の項を参照のこと。⇒ 歴史的ヌビア地域

GM向け参考情報

歴史的ヌビア地域略史

注記

 以下の略史の時代区分は、この場限りの便宜的なものです。

古代エジプトの先王朝時代

紀元前5千年紀
 後の上エジプトにあたる地域からの出土遺物には、ナイル水系?上流のかなり遠方からもたらされた素材が使用された物品も見られる。おそらく、この時期のヌビアには、すでに中継交易に従事する集団があっただろうことが推測されている。
紀元前4千年紀
 歴史的ヌビア地域で、ヒトの集住痕跡が見えはじめる。考古学でAグループと呼ばれる半農半遊牧の文化に属すもので、墓地の埋葬品から古代エジプト(上エジプト)製の陶器や銅製品が出土。エジプト地域との交易関係があったことが知られる。

古代エジプトの古王国時代

第1王朝期
 第1王朝?は、アハの頃にヌビアに侵出。王朝直属の交易担当官が兵団に護衛され第2急湍〔きゅうたん〕を定期的に訪れるようになった。王朝は、ヌビア地域の鉱物採掘や、南方との交易への影響力を強めていった。

 古王国時代のエジプト王朝がヌビアに侵出した頃、ヌビア地域でAグループの人口が減少に向かった。「エジプト勢の侵出が原因で人口減少が起きた」のか、逆に「地域の人口減がエジプト勢侵出の呼び水になった」のか、因果関係は定かに解明されていない

 Aグループの集団は、エジプト勢に同化吸収された可能性が高く、地域から姿を消していく。(奴隷化された、兵士として徴発された、などの意見もある

 古王国時代のエジプト王朝は、ヌビアやその周辺地域から採掘した黄金を資材として、古代オリエントでの優位を築いていった。

第4王朝期
 第4王朝?第4代ファラオ?であるカフラー?の代に、第2急湍のすぐ下流に位置したブヘンに交易用のエジプト植民市が築かれた。
第5王朝期
 考古学でCグループと呼ばれる新たな集団がヌビアに現れる。彼らは、遊牧民的な文化を持っていたが、定住化し中継交易にも従事していった。
 Cグループの進出で、下ヌビア(ヌビア地域北部)の人口が増加。エジプト勢はブヘンの植民市を撤収した。
 ヌビアに現れた頃のCグループは、身分や貧富の差など社会階層の分化がほとんど見られない集団だっただろうことが、出土遺物から推定されている。

 その後、Cグループは、ヌビア地域各地で、それぞれのテリトリーで遊牧集団複数の地域連合を形成。社会分化も進み、地域ごとに部族国家(首長国)のような社会形態に移行していった。

 エジプト側では、エレファンティネ島のノマスケス(ノモスの知事)が、ヌビアの族長たちとの折衝を担当するようになった。交易や採掘事業を円滑に進めるための折衝が任で、エレファンティネのノマスケスは、ヌビアに対する大使のような役割を担った。例えば、第6王朝時代には、Cグループの遊牧民がエジプトの傭兵として、交易隊の警護にあたったりするようなる。

第6王朝期
 エレファンティネの知事だったペピナクトが、ヌビアの部族集団に「懲罰」の軍勢を差し向けたことが伝えられている。「懲罰」に至った背景はよくわからないが、ヌビアの部族集団が、エジプトに対する独立を守ろうとしていただろうことは察せられる。

(後に、ペピナクトはシナイ半島に派遣され武功をあげた。ペピナクトは、死後にヘカイブ神という名で祀られたが、ヌビアに派遣される役人や武将が、着任前にヘカイブ神に詣でる風習が生まれた(この風習は中王国時代末まで続いた))

古代エジプトの第1中間期〜中王国時代

古代エジプトの第1中間期
 古代エジプトの第1中間期?にエジプトの人口が減少すると、ヌビアに対するエジプトの支配力も喪われていった。
 第1中間期末のB.C.1993年頃、テーベ?の支配者だったメンチュヘテプ2世(第11王朝?の第5代ファラオ?と数えられている)が、下ヌビアに出兵。ワワト地域を制圧すると、第2急湍のあたりに防衛用の砦を築かせた。
中王国時代
 メンチュヘテプ2世は、エジプトの再統一事業を完成した後、ヌビアでブヘンを再興。周辺の遊牧部族に朝貢を強いた。
 第11王朝を継承したテーベ?出自の王朝、第12王朝?では、第2代ファラオ?センウセレト1世の代に、ワワトに対する軍事行動がおこなわれた。B.C.1913年頃から、エジプト側の出兵により一連の戦役が起こされ、10年ほどかけて、ワワトが完全にエジプトに併合された。
 第12王朝第5代のセンウセルト3世?の代には、エジプト側からヌビア南部のクシュに対する軍事行動が起こされた。B.C.1829年頃からB.C.1818年頃にかけ、数次に渡る侵略がなされ、第2急湍の上流にいくつもの砦が築かれた。
 第12王朝を継承した第13王朝は、100年以上続いたが、統治力を徐々に弱め段階的に分裂していった。第13王朝の間に、中王国時代?は第2中間期?に移行した。この移行の第1段階が、ヌビアでの反乱と考えられている。
 紀元前17世紀に、エジプト側の分裂は確定的になったが、それより前にヌビアの部族連合が反乱を起こしたらしく、ブヘンが放棄された。しばらくは、エジプト側の砦に守備隊が駐屯していたが、結局、駐屯部隊の多くはヌビアに取り残されてしまう。彼らは、交易や婚姻によって、ヌビアの部族国家との関係を深め、徐々にヌビアに同化していった。内には、部族長の臣下になる者も出たらしい。

クシュ王国時代

B.C.1560年頃
 ヌビアの部族連合に属す部族国家は、恒常的な宗主権をケマル(第4急湍の上流側に位置)の部族長に認めた。政治的統合は緩いものだったと思われるが、ヌビアの在地勢力がはじめてヌビア全域に渡る国家をなしたものになる。

 クシュ王国は、テーベ?(第17王朝?)、アヴァリス?(第15王朝?)と並ぶナイル川流域の有力国家になった。第2中間期の後半には、これら3国の統治者が対等の立場で交易と外交とをおこなう時期がしばらく続いた。この頃がクシュ王国の最盛期と言える。

B.C.1541年頃
 テーベの王カメス?は、下エジプトのヒクソス?系王朝だった第15王朝?との戦端を開く前に、後顧の憂いを絶つように下ヌビアに出兵、ワワトの北部を征服。カメスは、ワワトにヌビア総督府を開設した。

 ブヘンに建立された石碑によれば、カメスは軍勢を率いてヌビアに侵攻しワワト全域を制圧したかに記されている。実際は、ワワト地域の南限である第3急湍よりも北、第2急湍がエジプトとクシュとの事実上の境界となった。

 第2急湍以北はエジプトに併合されたに等しい状態になったわけだが、クシュ王国は第4急湍上流側のケマルを拠点にしていた。エジプト側の記録にも関わらず、上ヌビアはエジプト王朝に対し守勢に回った、と言ったところがこの時期のクシュ王国の実情だったようだ。

 クシュ王国がエジプトに対して劣勢に追い込まれていくのは、第17王朝を後継した第18王朝?が、ヒクソス政権をエジプトから一掃し新王国時代?に入った後と思われる。

B.C.1514年頃〜B.C.1493年頃
 第18王朝第2代ファラオ?のアメンヘテプ1世?は、数次に渡りヌビアに遠征、第2急湍と第3急湍との中間あたりに位置したシャートに砦を兼ねた都市を建造させた。
(アメンヘテプ1世は、B.C.1514年頃〜B.C.1493年頃と比較的長く在位したが、ヌビア?やシリア・パレスティナ?への遠征を繰り返し、統治の記録はほとんど遺されていない)
B.C.1493年頃
 アメンヘテプ1世の息子で軍人だったトトメス1世?は、即位すると直ちにヌビアへの遠征を敢行。ヌビア沙漠東部のワディ(涸谷)経由のルートで上ヌビア(ヌビア南部)まで侵攻。多大な戦果をあげて帰還した。
B.C.1481年頃〜B.C.1479年頃
 トトメス1世の息子トトメス2世?は病弱で2年間の在位で死没したが、ファラオに即位すると父同様に、ヌビアへ遠征軍を派兵した。

 この頃ヌビアでは、第5急湍北方にあった草原地帯カロイが乾燥化をはじめ、ヌビアの遊牧部族は動揺していたようだ(「カロイ」は、現在のヌビア沙漠の南東部にあたる)。

B.C.1450年頃
 この頃までに、トトメス3世?の命で、第4急湍下流のナパタ?に砦を兼ねた都市が建てられ、クシュ王国は滅ぼされた。

クシュ王国滅亡後

 トトメス3世は、クシュ王国滅亡後にナパタ近くのジュベル・バルカル?にアメン神?を祀る大神殿を建造させた。

 その後、ヌビアのエジプト支配地域で部族長たちは、王朝から地域当地の高官に任じられエジプト文化に同化していった。クシュ地域の部族長の子弟はエジプトの宮廷に送られ、エジプト風の教育を授けられた。また、エジプトに征服されなかった土地をテリトリーにしていた部族も、エジプト王朝に服属しつつ交易などに従事することを承諾せざるを得なくなった。

B.C.1392年頃〜B.C.1382年頃
 トトメス4世?の治世、第18王朝はヌビア全域で金鉱などの採掘を組織的に進めた。第5急湍の南方で、未だ王朝に対して完全に服従していなかった部族に対しては、威嚇的な遠征軍が派兵された。
B.C.1382年頃〜B.C.1344年頃
 アメンヘテプ3世?の治世、ヌビアでの金鉱などの採掘は順調に進められた。第5急湍より南方でも王朝に対する反抗は終息していった。

 この後、エジプト王朝から派遣された総督によるヌビア支配は3世紀ほど続く。

B.C.1087年頃
 第20王朝?最後のファラオであるラメセス11世の治世12年目、ヌビア総督パネヘシが軍勢を率いてテーベを占領。
 この頃、上エジプトでは内紛が断続していたが、パネヘシはアメン大神官だったアメンヘテプをテーベから追った、とも、アメンヘテプがテーベを追放されたのを機にパネヘシが侵攻したとも言われる。
B.C.1080年頃
 エジプト軍の司令官だったヘリホルが新たに、テーベのアメン大神官となり、パネヘシはヘリホルの息子ピアンキによってテーベから駆逐される。
 パネヘシはヌビアに戻ると、エジプト王朝から独立した政権を建てた。

 第20王朝の末期のことは、記録が少なくあまりよくわかっていない。しかし、代々のファラオがおこなっていた各地の神殿への巡行が、まれになったことが知られている。

 上エジプトの内紛もパネヘシによるヌビア独立も、おそらくは、ファラオの巡行がまれになったことを背景として成り立ったものと考えられる。

 パネヘシのヌビア政権は、短期間で分解したらしい。この後しばらく、ヌビアでは歴史記録が途絶えて実情がわからなくなっている。考古学的には、ヌビアの各地に複数の勢力が分立したらしい、と推定されている。

ナパタ朝時代

B.C.900年頃
 ヌビアのナパタ出自の勢力が、地域を再統一していく(ナパタ朝?)。ナパタ朝は、南方とエジプトとの交易を管理し繁栄していった。

 ナパタ朝が成立する以前から、ヌビアの地域支配者たちは、いずれもエジプト王朝の継承者として振舞っていたらしい。紀元前10世紀前後のヌビアからのあまり多くない出土物の内には、地域の支配者がファラオの称号をカルトゥーシュ?に刻ませていた遺物が知られている。

 ナパタ朝は、特にトトメス3世の建立させたジュベル・バルカルのアメン大神殿と親密な関係を築き、重要な政治的決定に際しては、王が大神殿に詣でて神託を受けることを慣わしとした。

B.C.780年頃〜B.C.656年頃
 ナパタの王朝で「イルル」として知られる人物が支配者になったらしい。
 イルルをナパタ朝の開祖と認めるか、つまり、イルルの代にナパタの勢力がヌビア統一を達成したかについては定かに解明されておらず諸説ある
B.C.760年頃
 ナパタ朝第2代のカシュタが即位、ファラオを称した。(カシュタをナパタ朝初代と見る説もある

 おそらく、カシュタが即位した後さほどたたない頃、彼の娘アメンイルディス1世?が、どういう経緯か、アメン神の神聖花嫁位の後継者としてテーベのアメン大神殿に迎え入れられたようだ。

(アメンイルディス1世が神聖花嫁後継者になったのは、ピイの代のこと、との異説もある

B.C.755年頃
 この頃、にナパタ朝は、政治的影響力を上エジプトに及ぼし、テーベの南までを勢力圏とした。
 おそらくは、アメンイルディス1世がテーベに受け入れられたことと関係するはずだが、詳細な経緯は不明
B.C.747年頃
 カシュタが死没し、息子のピイ(ピエ)がナパタ朝を継承。

 ピイは、その統治の初期に、ナパタ朝の勢力圏を北に広げ、ヘルモポリス・マグナ?にまで影響下に治めた。これに対し、当時サイス(第24王朝?)の支配者だったテフナクト?は、タニス(第22王朝?のオソルコン4世?)、及び、レオントポリスと連合した。

B.C.728年頃
 ピイは正式のファラオとしてアメン神の伝統祭儀オペト祭を執り行うべく、軍勢を率いてテーベに入ると、祭儀を主催した。
 おそらく、ピイの振る舞いが下エジプト各地の支配者を刺激し、下エジプト連合軍がヘルモポリス・マグナに侵攻。当時のヘルモポリスの支配者を屈服させた。ピイはヘルモポリスまでナパタ朝軍を進めて交戦。北部連合は分裂しテフナクトとオソルコン4世は北に逃れた。
 ピイは、ヘルモポリスで降伏した下エジプトの支配者たちを臣従させると、彼らを許したが、逃走したテフナクト、オソルコン4世に対しては軍を進めた。テフナクトらは、[[ヘリオポリス]までナパタ朝軍に追撃され、降伏した。
 この後、ピイが、ヘリポリスとメンフィスに詣でると、下エジプト各地の支配者、有力者が集まり臣従の礼をとったと言う。
 こうして、ピイは名実ともに古代エジプト第25王朝?のファラオとなった。
B.C.716年頃
 ピイ死没。弟のシャバカが王朝を継承。
〜B.C.702年頃
 シャバカは大過なくヌビアとエジプトを統治。

 シャバカの代、内政は安定しており、エジプト各地で宗教建築が改修、増築、新造された。

B.C.702年頃
 シャバカのファラオ位を継承したシャバタカは、即位に前後して、当時アメン神の神聖花嫁になっていた叔母アメインイルディス1世と婚姻。おそらくは、婚姻によってアメン神の化身としての宗教的権威を強めることが目的だったと思われるので、婚姻は即位と同時か、その前(直前?)と思われる。
B.C.701年
 シャバタカの代のエジプト軍が、ヒゼキア王のユダ王国の友軍として、シリア・パレスティナ地域を南進しつつあったアッシリシア軍と交戦。当時のユダ王国領沿岸部、エルテカの地で会戦し惨敗した。(このとき、シャバカの弟タハルカが後衛軍に従軍していた)

 この後、アッシリアはシリア・パレスティナ地域で優勢になっていく。諸都市も抵抗したが、徐々に服属していった。この間、シャバタカは何かと、対アッシリア反抗を支援。場合によっては都市国家の同盟を仲介したりもしたようだ。同時に、「エジプト王朝は、シリア・パレスティナの諸都市に宗主権を持つ」との主張が前面に押し出されていった。

B.C.690年
 シャバタカ死没。後継は、弟のタハルカ。(タハルカをピイの息子とする異説もある
B.C.685年
 アッシリア軍がヒゼキア王のユダ王国を攻囲後撤収。おそらく、ヒゼキアは領土を割譲し、アッシリアに服属したのだろうと推定されている(この間の事情はユダヤ教聖典(『旧約』)では曖昧化されつつ別の事情であったかに記されている)。シリア・パレスティナ情勢でエジプトはますます劣位にたったことになる。
B.C.673年
 タハルカは、アシュケロンと同盟し、アッシリア軍をエジプト国境部で撃退。
B.C.671年
 アッシリア軍、エジプトに侵攻し、メンフィスまでを制圧。タハルカは、一旦ヌビアに退いた。
B.C.669年
 下エジプトで、アッシリアに従属していた各地の実力者が反乱。この間、タハルカはメンフィスに帰還。
B.C.667年
 アッシリア軍、再侵攻。反乱を鎮圧すると、メンフィスを再占領し下エジプトの支配権を回復。タハルカはヌビアに退いた。
B.C.665年
 タハルカ、ヌビアにて従兄弟のタヌトアメンを共治王に任命。これは慣例的にファラオ位後継者の確定を意味した。
B.C.664年
 タハルカ死没。タヌトアメンがファラオ位を継承。
 タヌトアメンはタハルカの葬儀を終えると、直ちに軍団を組織し、北へ進撃。アッシリアの傀儡となったナイル・デルタの支配者たちと交戦しつつ、メンフィスまでを奪回。ナイル・デルタまで侵攻するとネコ1世を陣没させ、ナイル・デルタも制圧。
B.C.663年
 アッシリア軍がエジプトに再進攻。タヌトアメンの軍勢は惨敗し南へ撤退。
 タヌトアメン軍は、中エジプトから、上エジプトにかけ、アッシリア軍と衝突を繰り返していったが、結局はヌビアまで撤退した。以降、ナパタ朝がエジプトに直接介入することはなくなった。

 アッシリア軍は、追撃戦の過程でテーベに侵攻し再支配。当時、テーベ知事の地位にあったメンチュエムハト?は、アッシリア軍の神殿掠奪を容認する屈辱を代償に、市域の居住区を護った。しかし、テーベのアメン大神殿の高位神官だったメンチュエムハトは、その後もタヌトアメンが死没するまで、第25王朝の宗主権に服した。アッシリア、及び、第26王朝?に両属したことになる。

 第26王朝が、ヌビアをエジプト領とみなしていたかどうかについては定かではない。少なくともプサメティコス2世?が、テーベのメンチュエムハトのナパタ朝服属をとがめようとした事実は知られていない。

 第26王朝では、ヌビア総督が任命されたが、この総督が実際にヌビアに足を踏み入れられたとは思われていない。ヌビア総督の代官に任命された人物が、「ナパタと連合した反徒を打ち倒した」と主張している記録は伝わっているが、この「反徒」がどの地域の勢力だったかも定かではない。この記録が誇大広告のようなものだったかもしれない、との可能性すら疑われている。おそらくは、第26王朝は、オリエント政策に忙殺されていた、というあたりが実情だったことだろう。

B.C.656年頃
 タヌトアメン、ヌビアで死没。この年で第25王朝は終焉したとされている。しかしナパタ朝はヌビアでなお存続した。
紀元前6世紀初め
 ナパタ朝の支配者アンマラニなる人物(在位、B.C.623年頃〜B.C.593年頃)が、ヌビアのワワトに軍勢を結集。エジプト側の第26王朝ではこれを敵対行動とみなしたようだ。
B.C.593年頃
 アンマラニ死没。後継は、アスペルタ。
 第26王朝のプサメティコス2世は、アンマラニからアスペルタへの王位継承に付け込むかのように軍勢をヌビアに侵攻させた。
 軍勢には、ユダヤ系、ギリシア系の傭兵が含まれていたことが知られている。軍事行動の詳細は解明されていないが、ナパタのあたりか、その南方まで攻め入ったと思われる。ヌビア勢は、現在のハルトゥーム近傍にあったメロエ?まで逃れた。この年がナパタ朝の滅亡の年と目される。

 その後、エジプトの末期王朝は、ますますオリエント情勢に忙殺されるようになり、上ヌビアにエジプト王朝の恒常的な支配が再建されることはなかった。希せずして、上ヌビア地域はメロエの勢力とエジプトとの干渉地帯となった。

メロエ王国時代

紀元前6世紀初頭の前後
 メロエに逃れたヌビア勢は、新たな王国(メロエ王国)を建国。

 メロエ王国の王朝は、ナパタ朝の系統だろうと推測されている。メロエ王国は、エジプト、ブラック・アフリカ、アラビア、ペルシアの間の中継交易センターとして栄え、1千年ほど続いた。

紀元後4世紀前半
 メロエ王国は、エチオピア高原?に新たに勃興したアクスム王国?に滅ぼされた。メロエ崩壊後、ヌビアには、ノバティア王国、マクリア王国、アルワ王国のヌビア人による3王国が分立した。

キリスト教時代

5世紀頃
 エジプトとの交易を介して、ヌビア地域にもキリスト教が伝わる。
543年
 エジプトのコプト教会から派遣された伝道団がヌビア入り。この後、キリスト教が本格的にヌビアに広まっていく。
641年
 アラブ人イスラム軍、エジプト方面からヌビアに遠征。ヌビア勢反抗。
652年
 ヌビアのマクリア王国、アラブ・イスラム勢力と停戦協定調印。

 ヌビアのキリスト教王国は、エジプトのイスラム王朝から供給される穀物と、南方で捕らえた黒人奴隷との交換を主な貿易手段とし、交易で栄えた。特に、ファーティマ朝?との関係は密接で、「ファーティマ朝の統治は、ヌビアから供給された黒人の奴隷兵に依存していた」とも言われる。

 地域に、イスラム教徒が移住しその人口を徐々に増やしていった。

12世紀
 エジプトのアイユーブ朝?と、ヌビアのキリスト教王国との間で、度々戦闘がおこなわれるようになる。アイユーブ朝が反ファーティマ朝だったことと関係すると思われる。

イスラム化の時代

13世紀
 ヌビアのマクリア王国が、アイユーブ朝を後継したエジプトのマムルーク朝?に敗れ、その宗主権に服属。
1317年
 エジプトのイスラム王朝の後ろ盾で、イスラム教徒がマクリア王位に就く。マクリア王都のキリスト教会がモスクに作り代えられた。
15世紀
 アルワ王国がイスラム教徒に滅ぼされる。
1505年
 ヌビア北部で、黒人イスラム教徒の王国、フンジ王国が建国される。

 フンジ王国は、アラブ化しながら、ヌビア地域で勢力と領土を拡大。アラブ化しなかったヌビア人は、地域で少数派になっていった。

1821年
 フンジ王国が、ムハンマド・アリー朝?のエジプトに攻め滅ぼされる。

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活用や検討

活用


検討

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更新日時:2006/03/06 13:15:20
キーワード:
参照:[ヌビア人] [クシュ王国] [歴史的ヌビア地域]
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