エドム人
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エドム人は、セム系の古代民族で、概ね、シリア・パレスティナ地域の南部内陸を生活圏にしていた。
ユダヤ教聖典(『旧約』)にも名が記されている。
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エドム人は、セム系の古代遊牧民だったが、紀元前9世紀頃〜紀元前8世紀頃には、死海の南方を勢力圏に素朴な王国を営んでいたと思われる。
近年の考古学的な調査によれば、あるいはエドム人国家が紀元前11世紀頃まで遡る可能性も指摘されている。この件は、古代ユダヤ民族の形成と関連して議論が多い。
エドム人国家の勢力圏は、最盛期にはアラバ渓谷を中心にしたネゲブ沙漠?の一帯で、現在の領域区分で言うと、イスラエル領の南部からヨルダン領南西部に渡っていた。
ユダヤ教聖典は、エドム人の故地はカデシュ?だったとし、シナイ半島の北縁までを勢力圏にしていたと記している。聖典の記述に依れば、エジオン・ゲベル(テル・エル・ケフェーレ?)や、エイラトなどアカバ湾に面した港町も幾つか支配した。
エドム人が用いていた言語は、西セム語系統の北西セム語派に分類されている。より細かく言えば、カナン系諸語の一方言にあたる。
ユダヤ教聖典では、ヤコブの兄エサウの別名がエドムで、その子孫がエドム人になったとされた。エドム人は、モアブ王国?の南を勢力圏に、古代イスラエルと敵対したと記されている。ダビデ王の時代にイスラエル王国に朝貢し、属国になったとも記されている。
古代エジプト王朝では、パレスティナ地域との境界部設けられた砦から王朝に送られた報告書に「エドムのシャシュ族(Shasu)による断続的な侵入」について記したものが知られている。
新アッシリア時代の楔形文字文書には、「ウドム(Udumu)」または「ウドミ(Udumi)」と記された。概ね紀元前8世紀半ば〜紀元前7世紀前半の事例が知られている。
あるいは古代ヘブライ語で「赤味がかった」を意味した「アダミ」が、「エドム」の語源かもしれない。と言うのは、アラバ渓谷周辺の沙漠地帯は、主に赤味がかった砂岩で占められているからだ。
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エドム人たちは、沙漠内のキャラバン・ルートを活用した長距離交易の中継にたずわさって勢力を伸ばしたようだ。アカバ湾沿岸の港湾もとりしきり、アラビア半島沿岸部からインド方面にかけてを往来した交易船の積荷も扱った、と思われる。
古代エジプトとメソポタミア地域、アラビア半島?と地中海東岸の交易を中継し、主に塩や香料、香木などを取り扱った。
死海で産出される塩を特産品に、アラビア半島など南方からもたらされる香料や香木を取引したようだ。
エドム人たちは、新バビロニア?が古代イスラエルを征服した後、バビロニア帝国からヘブロン?南方への入植を認められた。この頃、かつてのエドム人の勢力圏では、概ねナバテア人が支配的になっていた。
エドム人の入植地は、ヘレネス?や古代ローマ人から「イドメア(Idumaea)」と呼ばれた地で、しばらく自治国のように営まれた。その後、マカベア朝?のユダヤ王国がセレウコス朝に反乱を起した頃、イドメアはユダヤ王国に属領化され代官(総督)が派遣された。さらに、マカベアは紀元前163年にイドメアを征服、併合した。マカベア朝の対ローマ反乱(マカベアの乱?)の後、エドム人の国家が再興されることはなかった。
エドム人たちは、幾つかの集団に別れて、古代パレスティナ人やナバテア人、ユダヤ人やアラブ人に同化されていったと思われる。
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