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オスロエネ王国

オスロエネ王国 
オスロエネおうこく
(Kingdom of Osroene,Osrhoene) 
暫定版

記事内容追加調査中の暫定版です

PCが予め知ってていい情報

 「オスロエネ王国」は、普通は、紀元前1世紀の後半頃から紀元後3世紀の初頭にかけて、平地メソポタミアの北西部で営まれた地方政権を指す。セレウコス朝シリア?の崩壊過程から生まれた小国の1つとみなされる。

 現在のシリア=アラブ共和国領北東部から、トルコ共和国領南東部にかけての一帯で支配的だった。ただし、「王国」とは言っても、パルティア帝国?、アルメニア王国?、ローマ帝国?、ササン朝ペルシア?などの間で帰属が揺れ動く地方政権で、大国の従属国でなかったことはほとんど無い。

 中心都市の名にちなんで、エデッサ王国と呼ばれることもある。ただし、十字軍時代のエデッサ侯国?と紛らわしいので、「古代エデッサ王国」とでも呼んだ方がいいだろう。

 欧米諸国では、むしろ「最初のキリスト教王」と言われることもあるアブガル9世?の王国として有名。あるいは、聖書外伝説を通じ「イエスの72人の弟子の1人、タダイ(アッダイ)によってキリスト教を受容したアブガル王(アブガル5世)の王国」とイメージされがち。

【参照イメージ】

  • Image:Osroene
    (ローマ帝国最大版図における、属領オスロエネの領域,WIKIPEDIA The Free Encyclopedeia(英文版)
    おそらく、212年〜214年の単独属領時代の領域表示。
    アブガル王朝の支配圏は、概ねこの範囲だったと思って遠くない。

追加情報

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 オスロエネ王国の中心都市エデッサ?は、B.C.303年にセレウコス朝開祖のセレウコス1世が、創建した。当時すでに廃れていた古代都市の遺跡に、マケドニア兵やヘレネスの兵を入植させ、東方勢力へ備えた軍営都市にした、と伝えられている。都市名は、普通は、マケドニア?の古都エデッサ?にちなんで付けられた、と言われる。
 紀元前1世紀の半ば頃、パルティア帝国との交戦を直接のきっかけとして、セレウコス朝が滅亡した。しかしそれ以前に、セレウコス朝の支配力が弱まった頃から、エデッサを拠点にした勢力は周辺の統治をはじめていたようだ。伝えられるアブガル王朝の王統譜では、王朝は紀元前2世紀の後半からとされる。
 当初、エデッサは、パルティア帝国の保護領のような位置から出発したが、古代アルメニア王国がティグラネス王の代だった時に同王国に従属。さらに、ポンペイウス?らの古代ローマ第1次3頭政治の頃には、ローマの影響も及んだ。
 このように、いわゆるオスロエネ王国は、大国に服属し、帰属もしばしば変わったので、歴史的には「アブガル王朝」として理解した方が分かり易いだろう。
 アブガル朝は、しばしば、独自の貨幣を鋳造し、古代シリア語文語(シリアック,Siriac)で独自の王号を宣した刻印を刻んでいる。これらの貨幣は、地域通貨とは言え、地中海側とメソポタミア側との間の交易を仲介して、かなり盛んに流通した。
 政治的には大国に従属的だったが、地域の経済に隠然たる影響力を持つ王朝が4世紀に渡って続いたことが、歴史学でも「王国」と呼ばれる理由だろう。アブガル朝の王統は、28代続いたことが記録されている。
小辞典版推奨判定
「言語+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 「アブガル朝は、ナバテア人の一派か、ナバテア人に近い集団だったと考えられています。おそらく、セレウコス朝の崩壊よりも前にエデッサ周辺一帯に進出して、地盤を築いていた集団があったのでしょう。
 オスロエネ王国では、文語には古代シリア語の文語(シリアック)が用いられました。口語は、主にアラム語が用いられていた、とされます。もっとも、東西交易の中継で栄えた都市国家ですから、実際は、雑多な言語が使われていたことでしょう。当時の、国際通商語だったアラム語が事実上の共通語に近い地位を占めたのだろう、と推測されます。
 アブガル王朝が成立すると、エデッサのギリシア風文物?もほどなく圧倒されたようです。
 あまり数の多くない出土遺物に楔形文字で刻まれている、より古い都市名をなんと読むかについては諸説あって定かではありません。おそらくフルリ語系統の言語だろう、という説が、一応、現状の有力説とは言えるでしょう。
 より古い地名が古代アルメニア語で訛化した形が、『オスロエ』だったと考えられています。ヘレネス?が伝えた初期のギリシア語文献には、『オッファ』とか『オッフォア』と記された地名が見られます。あるいは、これがより古い都市の都市名だったかもしれません」―― フィールドの言語学者
小辞典版推奨判定
「表現+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 「エデッサのアブガル王(アブガル5世)の聖書外伝説は、聖画像(イコン)が奇跡的な力を振るう物語で、しかも、磔刑にかかる前のイエスと結び付けられた物語です。
 この聖書外伝説を記録した現存最古の文書は、カイサリアのエウセビウスが著した『教会史』です。4世紀頃の記録になります。
 エデッサのあたりは、後代、聖像破壊運動の中心地の1つなるので、不思議な気もしますが。エウセビオスは、『教会史』に『エデッサの文書館でアブガル王とイエスとの往復書簡を実見した』と記しています。
 多くのクリスチャンは、聖画像のパワーで病が癒された後、アブガル5世が王国をキリスト教化したようにイメージしています。
 このイメージは、2世紀の末から3世紀初頭のエデッサ王で、キリスト教を受容したアブガル9世?とアブガル5世とが、混同された結果だろうと思われます」―― 考古学にかぶれた民間伝承研究家
小辞典版推奨判定
「魔術+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 「エウセビオスも利用したエデッサの文書庫は、アレクサンドリアで学んだセクトゥス・ユリウス・アフリカヌスも、『年代記?』執筆に際して参考にしたらしい。おそらく、かなり独特な文書が集められていたのであろう。散逸してしまったことが惜しまれる」―― 結社をはぐれた魔術師

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 パルティア帝国、古代アルメニア王国と、宗主国的な国が変転したオスロエネ王国は、ローマ帝国の属州シリアに1種の自治領として編入された。ハドリアヌス帝が統治した、A.D.114年頃のことだ。
 114年に、アルメニア王がローマのトラヤヌス帝に臣従し、アルメニアがローマの保護国になったのがきっかけだった。後、トラヤヌスは、パルティアを叩くためメソポタミアにまで侵攻。この間、116年〜118年の間、オスロエネもローマ軍団の進駐を受けた。当時は、親パルティア的、あるいは、反ローマ的な勢力も多かったらしく、ローマのルキウス・ウェルス帝の命で略奪を被ったこともある。しかし、属州シリアの北東部では、アブガル朝による地域支配は続いた。
 195年には、セウェルス帝?の大使として、セクトゥス・ユリウス・アフリカヌスがオスロエネに派遣されたらしい。おそらくは、ローマの内乱平定に際して、オスロエネ王国がパルティアと通じぬように、といった交渉だったかと想像される。
 ユリウス・アフリカヌスは、あるいは面識があったかもしれないアブガル朝のアブガル8世を『聖なる人物』と評している。
 ともあれ、ローマ帝国でセウェルス朝が営まれた間、オスロエネ王国は帝室との結びつきを強めていった。一方、セウェルス帝の息子カラカラ帝?の代、212年〜214年には、単独で正式にローマの属領とされた。アブガルの王統は244年まで続いたが、その後は単なるローマ帝国の1地方として扱われた。
小辞典版推奨判定
「表現+知性 目標値12〜14」
詳しい情報 「その後、オスロエネは、廃れていきました。
 一時、パルミラ王国に併合されましたが。ローマ帝国、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの間でシリアの地の争奪が繰り返された時代、中継交易で栄えていた国が衰退していったのは必然でしょう。
 7世紀、ビザンツ帝国のユスティヌス帝の代に再興されたエデッサは、ユスティノポリスと呼ばれました。すぐにササン朝に奪われ、ビザンツのヘラクリオス帝が奪回。しかし、638年にアラブ人のイスラム勢に奪われました。
 この後も、ビザンツ帝室はユスティノポリス(エデッサ)の奪回を試みたようです。944年にコンスタンティノープルに移送された「キリストの聖画像」は、エデッサで保管されていたマンディリオンだった、と、伝えられております」―― 趣味の古美術商

GM向け参考情報

 オスロエネ王国と古代エデッサは、長い間、ローマの属州シリアの境界とされたユーフラテス川の対岸で、平地メソポタミアの北西端に位置しました。

 古代アルメニア、パルティア帝国、ローマ帝国、ササン朝が、歴史的シリア地域で入り乱れた時代に、東西交易の中継で栄えた国です。同じような国に、ナバテア王国やパルミュラ王国?があります。

 東西、あるいは南北のオーパーツを中継したり、埋蔵したりする設定には、使いやすいでしょう。

 また、ややトンデモっぽい歴史異説では、セレウコス1世以前の古代都市は、アッシリア帝国滅亡後のアッシリア遺民が拠点にした、との説もあります。あまりまじめに相手にされる説でもないのですが、「ブルーローズ」のシナリオ・ネタとしてはおもしろいと思います。

オスロエネが、アッシリア遺民の拠点、との説
 基本的に、この説の論拠は2つであるようです。
  • ハランから出土したナボニドス?の王碑文によれば、アッシリア最後の支配者アッシュル・ウバリト2世は帝国の残存兵を集めて、ハラン近傍に位置した古代都市を拠点にした。
  • 「オスロエネ」の地名は、語呂合わせ的にアッシリア語で解釈することができる。
 アッシリア語「エスロ・アエネ(10の長)」が「オスロエネ」に訛ったとして、「アッシリア帝国第10軍団の宿営地だったのが、帝国滅亡後も続いた」とか、「ニネヴェが滅びたときに、10人の隊長に率いられた遺民たちが移住した」とか言われます。
 こうした語呂合わせ語源論を基にした説では、往々にして「エデッサ以前のオスロエネ地方で営まれていた仮定のアッシリア系小国」のことも「(本来の)オスロエネ王国」と呼ぶので、たいへんに紛らわしいです。混乱しないように、注意してください。
 公式歴史で、紀元前1世紀初頭からとされているオスロエネ王国について、それ以前のことが記されていたら、アッシリア遺民説であることを疑ってチェックすることをお勧めします。
 また、アッシリア説には、「セレウコス1世が命名したエデッサの都市名も、マケドニアの古都の名にちなんだのではなく、アッシリア語で『新しい』を意味した『エデッス』が語源、と唱える説もあります。
 いずれも、語源解釈としてはなりたつかもしれませんが、なぜ、地名や都市名をアッシリア語で解釈しなくてはならないかの必然性が乏しいのが難点でしょう。
 「ハラン近傍に位置した古代都市に拠った、アッシュル・ウバリト2世がアッシリア残存兵を再編した」これは史実と目されています。しかし、この出来事について記した碑文は、新バビロニアの王、ナボニドスが「アッシリアが滅んだ後」に記録として、ハランに建立させた物です。
 新バビロニアがハランに碑文を建立した頃、アッシリア遺民は何をしていたのか? アッシリア系説で、この点が考察されることは、マレであるようです。
 都市の歴史はともかく、オスロエネ王国が支配的だった地域の歴史は、B.C.8000年頃から大筋は整理されています。地域で支配的な民族だけでも、エブラ人、アッカド人、アムル人、バビロニア人、ヒッタイト人、フルリ人、ウラルトゥ人、アッシリア人、キンメリア人、スキタイ人、メディア人、ペルシア人、アルメニア人と入り乱れて、マケドニア人がやって来ました。
 これだけ、諸文化が入り乱れているのに、なぜ、地名や、都市名をアッシリア語で解釈するのか?
 はっきり書くと、「あの大帝国を築いたアッシリア人はどこにいったのだ?」という疑問に答えようとして、無理に組み立てられた説が多いように思われます。アッシリア人の行く末は、普通は、アッシュル神?の権威が失われて民族的まとまりを失ったアッシリア人は、数世代の間に、各都市ごとの集団に分かれてアッシリア人としての民族意識を忘れていった、と考える説が主流になっています。
 エデッサ以前の古い都市の都市名については、楔形文字で刻まれた、何と読むのか定かではない文字(フルリ語系統の言語か?)が伝わっているのですが。アッシリア系説では、なぜかこの碑文について言及されるこもマレなようです。
 しばしば、古いオスロエネをアッシリア系とする説では、アブガル王朝を建てたアラブ系民族の勢力が地域で盛んになったに連れ、アッシリア遺民はアナトリアの山地に移住、後にアッシリア正教会を営むようになった、と説くこともあります。アッシリア正教会は、アラム語を使い、教義や儀式もカルデア正教会に近いのですが、その辺のことが考察されることもマレであるようです。

別称類

 「オスロエネ」の語源は「オスロエ」で、紀元2世紀頃の地元名とされる。

 「オスロエ」は、より古い地名が、古代アルメニア語で訛化した音と考えられている。紀元前2世紀頃、古い都市の伝説上の創建者名にちなんだ、と伝えられていたようだ。「オスロエ」の王名を名乗ったパルティアの帝王が、何人か知られている。

 セレウコス朝のアンティオキヤ(現トルコ領)からの移住者は「カリロホエ」という地名も伝えている。セレウコス朝のアンティオコス4世の代に、エデッサが、「カリロホエのアンティオキヤ」と呼んだ例が記されている。

活用や検討

活用

  • このページの記事を踏まえた、アイディア・フック?、使ってみたシナリオ、セッション・レポ、などなど
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