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メソポタミア地域

メソポタミア地域 メソポタミアちいき

英語名
Mesopotamia(メスォポティミァ)
アラビア語名の音
Beth Nahrain(ベスッ・ナァフライン)

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 「メソポタミア(メスォポティミァ)」は、現在、普通は、西アジア(西南アジア)の、ティグリス川ユーフラテス川流域平野部を指す。幾多の古代文明が盛衰した地域。

【参照地図】

追加情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」、「情報+知性 目標値12〜14」
やや詳しい情報 南部で、大規模な都市文明としては、人類最古と言えるものの1つ、シュメール・アッカド文明?が生まれた。メソポタミア南部をバビロニア?地方と呼び、北部をアッシリア地方と呼ぶ。ただし、古い時代については、それぞれ別の地名で呼ばれる。
小辞典版推奨判定
「言語+知性 目標値10〜12」、「歴史+知性 目標値12〜14」
やや詳しい情報 英語他の欧米語で、広く用いられる「メソポタミア」の語は、古典ギリシア語で「川の間の土地」を意味した言葉に由来する。初期は、今ほど広い地域は指したわけではなかったようだ。
 アラビア語の「ベスッ・ナァフライン」は、古代シリア系の文語であるシリアック?に由来する。古典ギリシア語の「川の間の土地」と同じ意味のシリアックだ。(しばしば、「古典ギリシア語からシリアックに訳された」と、言われるが異論もある
 ただし、アラビア語の「ベスッ・ナァフライン」は、英語などで通例「メソポタミア」が指す範囲を含みつつ、より広い範囲を指す。現在のシリア領や、レバノン領も含まれる。「メソポタミア地域の平地部に、肥沃な三日月地帯?を併せた範囲」が、概ね「ベスッ・ナァフライン」が指す地域になる。

  • 「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
さらに詳しい情報 近年の研究動向では、両大河上流の山岳地帯を「上部メソポタミア」と呼び、平地部メソポタミアとの影響関係を、古代史研究に取り込む努力がなされている。

GM向け参考情報

  • GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど

補足情報

注記
 以下には、メソポタミア関連の古代史ネタを、参考図書などから拾おうとする人を想定。ネタ捜しの便宜のため、メソポタミア地域の地域区分に限った話題を整理、説明します。古代史や遺跡の具体的話題には、触れていません。

 メソポタミア地域の古代史は、諸文明の盛衰が多く、いくつかの地域が相互に影響しあって歴史が営まれました。それだけに、地域の位置関係を把握しないと、資料本を読んでも混乱し易いです。

メソポタミア(平地メソポタミア)の領域

 以下では、「上部メソポタミア」との対比で、普通言われるメソポタミアを「平地メソポタミア」と呼ぶことにします。

 この呼び方は、研究者の間でもあまり用いられません。あくまで、以下の説明の便宜のために用います。


 平地メソポタミアは、概ね現在のイラク共和国領にシリア=アラブ共和国領の北東部を加えた領域。

 南のバビロニア?地方と北のアッシリア地方とに2大別され、それぞれは、さらに細かな地方に細別される。

 平地メソポタミアの領域は、北はアルメニア山地の南麓に縁取られ、東は、狭義のクルディスタン山地?と、ザクロス山脈?の西麓に縁取られている。

 東は、シリア沙漠に接すが、ユーフラテス川の流域で、同川に向かってワディ(涸谷)が幾筋も残っている傾斜面までをメソポタミアの領域とイメージするといい。南はペルシア湾に面す。

【参照地図】

バビロニア地方とその細別

 現在のイラク首都バグダードの一帯以南をバビロニア地方?、とイメージすると概ね正しい。

 バビロニア地方の北寄りがアッカド地方、南寄りがシュメール地方となる。

 現在の都市で言うと、ナジャフ?、ディワニーヤ?、クート?を包むような領域の南縁あたりまでがアッカド地方?、それよりさらに南で、バスラ?のあたりまでがシューメール地方?とイメージすると概ね正しい。

 バスラ以南は、古代バビロニア地方の辺境部だった。古代の言葉で「海の国?」と呼ばれた領域だったと考えられている。

 かつては、「古代はペルシア湾の海岸線は今より北にあり、バスラのあたりまで海岸線が迫っていた」と、する説が優勢だったが、現在は、この説に反対する説が勢いを盛り返している。一応、両説併存状態としていいだろう。

 なお、バビロニア地方の地域名が確立したのは、B.C.2000年前後の古バビロニア時代?以降。それ以前の同地方は、シュメール・アッカド地方?と呼ぶのが相応しい。

広義のアッシリア地方とその細別

 アッシリア地方の細別を把握するためには、まず、現在のイラク-シリア国境線を脳裏から消去しなくてはならない。「アッシリア地方の東部」と、言ったときは、現在のイラク北東部より広い領域になるからだ。

 実は、平地メソポタミアの北部をアッシリア地方と呼ぶのは、広義の用法。

 メソポタミア地方の北東部が、アッシリア文明の発祥の地域であり、本来のアッシリア地方である。平地メソポタミアの北部全域が「アッシリア(地方)」と呼ばれるようになったのは、アッシリア帝国?の勢いが盛んになった紀元前9世紀の後半、シャルマネセル3世が、ユーフラテス中流域を帝国版図に組み込んだ後のこと。

 広義のアッシリア地方と、狭義のアッシリア地方との区別は煩雑だが、アッシリアについての現代人の研究が、新しい時代からより古い時代の解明に向かった研究史を反映した結果なので、我慢して欲しい。

 ここでは、メソポタミア北東部を「アッシリア地方」、北部全域を「広義のアッシリア地方」と呼ぶことにする。

 シナリオ用のネタ本に「アッシリア地方」とあったとき、どちらの意味で使われているかは、前後の文脈と、いつの時代の話題か、から判断するといい。

 アッシリア帝国の時代の話なら、たいてい「アッシリア地方」は、ここで言う「広義のアッシリア」を意味する。

 本来のアッシリアの中核部は、古代都市アッシュル?市を中心とした地域だった。現在の地名で言うと、ザーバル・サギール川(小ザブー川)がティグリス川に合流するあたりから、ザーバル・カビール川(大ザブー川)とティグリスとの合流点の手前(南方)までのティグリス流域とイメージするとほぼ近い。

 アッシュル市は、アッシリア発祥の地なので、この地域を「アッシリア故地」と呼ぶこともある。

 本来のアッシリア地方は、このアッシリア故地を中核にした平地メソポタミア北東部を指す。シュメール・アッカド時代には、シュメール側から「スバルトゥ?(スバル人の地)」と呼ばれていた。

 では、メソポタミア地方の北西部は何と呼ばれたか。古い時代の呼び名は定かにはわからない。紀元前2千年紀にはミタンニ(地方)と呼ばれた。紀元前1千年紀はじめには、ビート・アディニと呼ばれている。どちらも、当時、地域で有力だった国家の名である。

 この地域は、メソポタミア地方と現在のシリア地方を繋ぐルートにあったので、国家の盛衰も激しかったのだ。そのため、時代によって地名も変動も多い。

 紀元前9世紀後半に、アッシリアが、ビート・アディニを倒し、その領域を併合して広義のアッシリア地方が成立したことになる。

地域関係の整理

メソポタミア地方(平地メソポタミア)=ティグリス、ユーフラテス流域の平地部。

上部メソポタミア=ティグリス、ユーフラテス流域の山間部。

メソポタミア(平地メソポタミア)
北部=広義のアッシリア地方(紀元前9世紀後半以降)
北東部=本来のアッシリア地方(古称はスバルトゥ)
北西部=ミタンニ(紀元前2千年紀)、ビート・アディニ(紀元前1千年紀はじめ)、他
南部=バビロニア地方(古称はシュメール・アッカド地方)
中南部=アッカド地方
南部=シュメール地方
最南部=海の国

トピック:メソポタミア地方の歴史的異同

 このトピックは、かなり古代史に突っ込んだ内容です。古代史関係に拘ったシナリオ・メイクの参考にしてください。

 「メソポタミア」の地名は、古代ギリシア語で、「川の三角地帯(三角州?)」つまりは「ティグリス、ユーフラテスの間」を意味した。

 元は、アケメス朝ペルシアの行政州(サトラッピ)の1つに、古代のペルシアで「川の三角地帯」と名づけられた州があったそうだ。ギリシア人は、この地名を借用して、自分たちの言語で呼んだらしい。ペルシアでは、どの辺を指していたか、明記された資料本はまだ探し当てていません。

 ただ、平地メソポタミアの北部で、「両川の間」だったことは、複数の資料本で一致してました(このページのコンテンツ同様に、孫引きの類である可能性もありますが)。だから、古代ギリシア人が言っていたメソポタミアは、現代人が言う地域よりずっと狭い地域を意味していたことになる。

 古代ローマ人は、ギリシア人から、メソポタミアの地域名を受け継いだが、彼らは平地部のユーフラテス川上流域で、ユーフラテス以東に属州メソポタミアを創建した。

 この属州メソポタミアの領域も、ティグリス側の流域部にも至っていない狭い地域だった。今の都市名では、せいぜいバーディーのあたりまでだったと思われる。(案外とこの領域が、「メソポタミア」にあたるアケメス朝の行政州だったのかもしれないが、未確認)

 ただし、古代ローマ時代には、すでに現在のメソポタミア地方(平地メソポタミア)を指して「メソポタミア」と呼ぶ用法も用いられるようになっていた。

 例えば、狭義の(古い)用法は、ストラボン?に見られ、現在と同様の広義の用法は大プリニウス?に見られる。大筋としては、現在と同様の用法が広まるに連れ、古い狭義の用法が廃れていった、とみなしていいようだ。

 ローマ人は、シリア沙漠にパルミラ?など隊商都市が点在していた地域を「川のこちら側(ユーフラテス川の西側の意)のメソポタミア」と呼んでいた。この地域名、細かく考えると奇妙な呼び名だが、現在と同様の広義の用法を前提としてみると、納得できなくはない。「メソポタミア」から「川の間」という原義が薄れ、「両河川流域」とのイメージが優勢になったからではないだろうか(?)。

 地域にササン朝ペルシア?が成り立ち、イスラム国家が成り立つと、「メソポタミア」の地域名は古代記録の中に埋もれ、現実社会では用いられなくなっていった。

 アラビア人たちは、今の我々が言うメソポタミア北部を「ジャジーラ」と呼び、メソポタミア南部を「イラク・アラビー」と呼んでいた。

 メソポタミアの地域名が、再度脚光を浴びるようになったのは、19世紀になって同地の考古学的発掘がはじまった後の事だ。

 第1次大戦後、概ね現在のイラク共和国領にあたる地域は、オスマン・トルコ領から、U.K.(連合王国)の保護領に移管された。この時期、地域は「英領メソポタミア」と呼ばれた。

 1920年、英領メソポタミアで現地人の蜂起が発生。スンニ派?シーア派とが共闘した蜂起は、全土をゆるがせた。

 1921年、イラク王国?として独立。このときに現在のイラク国境が確定された。しかし、オスマン時代のアラブ人は、「イラク・アラビー」と「ジャジーラ」とを一体の地域として考えていたと言う意見もある。つまり、当時のアラブ人にしてみれば、現シリア領のユーフラテス流域部が、イラク領から「切り離された」とする意見が、当時は多かった、と言う意見だ。

活用や検討

活用

  • このページの記事を踏まえた、アイデア・フック、使ってみたシナリオ、セッション・レポ、などなど
  • 2011-01-03 (Mon) 21:55:55 urrhmc : vlBZimlet
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更新日時:2011/01/03 21:55:55
キーワード:
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