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モスル市

モスル市 モスルし (簡易版)

簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。

アラビア語名の音
al-Maw?il(アル・マウシル)
英語名
Mosul(モウスル)

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 モスル市(アル・マウシル)は、イラク共和国北部で最大の都市。ティグリス川中流域で、中心市街は西岸に立地。

 ティグリス川を挟んだモスル市の対岸には、ニネヴェの遺跡が位置。

【参照地図】

やや詳しい情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。

 モスル市(アル・マウシル)は、イラク北部のニナワ県県都。県域北東部に立地している。ちなみに「ニナワ県」の県名は、「ニネヴェ」がアラビア語で訛ったもの。首都バグダードの北北西342kmにあたる。

 石油精製拠点で、製糖、ナイロン、セメントの工業があり、地域の1次産品の集散地でもある。

 1987年の人口統計は、およそ66万4千人。2002年の人口調査では、推計およそ174万人。イラク戦争以前は、バグダードに次いで2番目に人口の多い都市、だった。


 モスル市の住民は、ほとんどがアラブ人スンニ派と目されている。ただし、これは、フセイン統治下のバース党政権時代に、市内へのアラブ人移入が強く推奨、誘導された結果だ、との見方が強い。

 モスル市の周辺は、伝統的には、南方を除く3方が、クルド系居住者が多数派だった地域だった。

 モスル市内で用いられる主流の言語は、アラビア語だが、アラム語、シリア語系統の言語の影響を色濃く残した、独特の方言が伝統的だ、と言われている。

 イラク戦争開戦前、モスル市内にも、クルド系住民、トルクメン人住民、現代アッシリア人、アルメニア系住民の居住はあり、地域的なエスニック・コミュニティーも営まれていた。

 ただし、これら少数派居住者の人口は、イラク戦争以降の多国籍軍統治下での宗派対立他の激化に応じ、大きく変動している可能性が高い。詳細は不明だが、例えば、イラクからの海外難民に含まれる現代アッシリア人の、母集団に対する比率の高さ、などが報道で指摘されることもある。


 時として、「モスルは、歴史的にはクルディスタンの都市だ」との主張がなされる事もある。この主張は、概ねは政治的な主張である事が多いので、注意を要する。「クルディスタン地域内の都市」という意味では、否定は困難だが、「クルド人の土地(クルディスタン)の都市」という含意の歴史的な妥当性は、疑わしいからだ。

 地域でのヒトの集住は、古代にまで遡る。普通は、現在のモスル市の直接のルーツは、地域がオスマン=トルコ帝国の支配に服した時期にまでしか遡らない、とみなされている。モンゴル征西軍によって破壊された都市の跡に、オスマン=トルコの支配する都市が再建されたのは、16世紀頃からの事になる。

 オスマン帝国によるモスル支配は、1918年まで続いた。この時期、モスルは、現在のイラク北部からシリアの北西部に及ぶ地域にあたるオスマン帝国の1州の中心都市として、バグダード、バスラに次ぐ都市だった。

 1918年に、当時オスマン帝国と交戦していたU.K.(連合王国)軍がモスルを占領。10月の事だった。

(ただし、オスマン帝国によるモスルの支配は、16世紀前半の一時期、サファヴィー朝ペルシャのアッバース1世によって中断された事もある)

さらに詳しい情報

  • 「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。

 モスル市周辺でのヒトの集住痕跡は、少なくとも8,000年前からのものが確認されている。

 その後、古代アッシリアの勢力が、平地メソポタミアの北部で盛んになり、ニネヴェもアッシリア都市として大きくなった。この頃、現在のモスル市のあたりに、ニネヴェの出城のような砦が創建されていた。

 アッシリア帝国?の滅亡後、ニネヴェが再建される事はなかったが、かつてのニネヴェの砦(出城)を中心にした集落が都市化していった。この古代モスル市は、アケメネス朝ペルシアの時代には、ペルシア湾奥から、シリア方面、アナトリア方面に到るルートの中継点として栄えた。

 遅くとも、紀元前6世紀頃には、重要な交易拠点都市になっていて、短期間ローマ帝国に支配された後、ササン朝ペルシアの支配下に移った。この都市が、アラブ人イスラム勢力の支配下に移ったのは、紀元後7世紀の前半頃。

 ウマイヤ朝の時代には、モスルは、平地メソポタミア北部地域の首都とされた。アッバース朝時代、ハムダーン朝時代、ブワイフ朝時代、セルジューク朝時代と、モスルの支配権は移っていったが、交易拠点としての地位は続いた。

 12世紀、西欧十字軍が、地中海東岸地帯に十字軍国家を建国。これは、イスラム王朝の勢力争いの隙に、たまたま十字軍が付け入る余地があったようなものだ。ただ、物流ルートを分断されたモスルの支配圏は縮退。11世紀後半、セルジューク朝に服属した地方政権の間で変転していたが、十字軍の侵出の余波で、モスルは、概ねザンギー朝の拠点都市として続いた。

 ザンギー朝の宰相だったサラディンは、1182年にモスルを攻めたが、陥とせなかった。都市が、モンゴル征西軍に攻め落とされた後、破壊されたのは13世紀の事。太守だったマリク・サーリフが、フレグ汗の軍勢に対し、籠城戦を戦った、と伝えられている。

GM向け参考情報

参照地図

補足情報

 モスル市(アル・マゥシル)のあたりは、肥沃な三日月地帯?に近く、降水量も南部より多めです。モスル近辺では、ティグリス川流域を中心に植生が豊かですし、やはり流域を中心に農耕も営まれます。

 北に向い、山地が近づくに連れ、植生の茂る地域が広がります。

 2005年現在、ニナワ県一帯の治安担当は、米軍。モスルでは、今のところ、メディアで抵抗勢力と呼ばれる勢力の活動が活発。

交通ルート

 バグダードより基幹鉄道が通じている。この基幹鉄路は、シリア領東部を経由し、トルコ領へと繋がっている。

 西北西30kmほどに国内線専用空港があり、前記の国際鉄路が通じている。

 モスルには、他に3本の基幹自動車道と2本の主要地方道が通じている。

基幹自動車道
 南方に伸びる基幹道は、バグダードから諸都市を経由し、ティグリス西岸を通ってきている。
 ティグリス川を東方向に渡河し、クルド自治区?の首府でアルビール県県都、アルビール?に至る基幹道。この基幹道はアルビールから2方向に分岐、1本はイランへ通じ、もう1本はキルクーク油田地帯の中心都市、キルクーク?へ通じる。
 北北西へ延び、クルド自治区のダフーク県を縦断する基幹道。この基幹道は、アルメニア山地トルコ共和国領内へ続いていく。
主要地方道
 バグダードから通じる基幹道のバイパス道。基幹道の方は、アッシュルの遺跡のあたりから、ティグリス川の川岸をやや離れるが、バイパス道は川沿いを走り南南東からモスルに至る。
 西北西方向へ伸びる地方道は、鉄路とほぼ並走。国内線空港を過ぎた先で、西南西への地方道が分岐。それぞれの道は、シリア領へと通じていく。

活用や検討

活用

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重要な改訂の情報

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検討

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更新日時:2007/12/19 20:03:31
キーワード:
参照:[ドゥール・シャルルキンの遺跡]
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