シン・シュム・リシル
- シン・シュム・リシル (Sin-shumu-lishir) 簡易版
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シン・シュム・リシルは、アッシリア帝国?の末期、アッシュル・バニパル死後の混乱期に、バビロニア地方?の支配者を僭称したと思われる人物。上級の宮廷宦官だった、と言われている。
「短期間、アッシリアの支配者だった」と言われることもあるが、これは疑わしい。もし、アッシリアの支配者を称すことがあったとしても、こちらは確実に僭称だっただろう。
細かな事跡はほとんどわかっていないが、アッシュル・バニパルの息子アッシュル・エティル・イラニの、政治的後ろ盾(宮廷での相談役?)だったのが、エティル・イラニを殺害してバビロニアの支配権を簒奪した、と言われることが多い。
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アッシュル・バニパルの死の前後のアッシリア帝国の出来事は、記録が乏しい。知られている記録は、断片的なものばかりだ。特に、シン・シュム・リシルが関わったと思われる出来事の再構成は、ほとんど不可能とも言われている。
ウルク?から出土した王名表?を信じるならば、シン・シュム・リシルは、シン・シャル・イシュクンがアッシリア王位に就く前、1年に満たない期間、支配者の地位にあったことになっている。
これはB.C.626年頃の出来事と思われ、アッシュル・バニパルの死がB.C.627なら、その翌年にあたる。アッシュル・バニパルの死がB.C.631年なら、死の5年前にバビロニア地方で支配権を執ったことになる。
『ナボポラッサル年代記』によれば、シン・シュム・リシルがアッシュル・エティル・イラニを殺害したのは、B.C.623年頃、と思われる。
あるいは、シン・シュム・リシルは、少なくともバビロニア地方の1部を数年間支配した、との解釈も唱えられている。こちらの意見では、その支配の期間は、B.C.632年頃からB.C.626年頃かのいずれかの期間とされる。6年間に渡ったとは考えづらいが、1年に満たない期間という短さでもなかった、と言われる。
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参照:[新アッシリア時代] [アッシュル・エティル・イラニ] [シン・シャル・イシュクン] [歴史上の実在人物]