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マスタバ墓

マスタバ墓 
マスタバぼ
(Mastaba,Tomb in Mastaba style) 
暫定版

記事内容追加調査中の暫定版です

PCが予め知ってていい情報

  • 「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。

 「マスタバ墓」あるいは、単に「マスタバ」は、古代エジプト?研究では、古代エジプト時代の早い時期に、多数建造された墓廟建造物のタイプを指す総称。

 このタイプの墓廟は、平屋根で概ね直方体の建造物。多くの作例では側面がやや傾斜し、重量感のある外見を演出している。

 「マスタバ」は、アラビア語で、ベンチのような長椅子の類を意味する。マスタバ墓を遠くから見ると、その外見が長椅子のように見えるため「マスタバ(墓)」の呼称が用いられている。おそらくは、現地人が用いていた通称が、初期の研究者に採用されたのだろう。

【参照イメージ】

  • 石造マスタバ墓の事例
    (石造マスタバ墓の事例,壁龕のように奥まった参拝所が見える,m3mary.com
  • 外側から崩壊したマスタバ墓の遺構
    (外側から崩壊したマスタバ墓の遺構,Egypten

追加情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」
やや詳しい情報 マスタバ墓の代表的な遺構は、ギザ台地やサッカラの遺跡地帯に見られるが、他にも多くの場所で建造された。
 石造りの作例も知られるが、より多くは、日干しレンガで築かれたと思われる。日干しレンガの構造物は、風化によって崩壊するが、小さな遺丘のようになって遺っている遺跡や、基台部の痕跡、周辺から発掘された断片遺物から、かつてマスタバ墓があったと推定されるスポットなどは多い。
 初期に日干しレンガで築かれ始め、ギザ台地やサッカラでは、貴族のために石造りのマスタバ墓も建造された、ということのようだ。
 おそらく、マスタバ墓の起原は、先王朝時代?まで遡り、古王国時代?には各地で多数作られた。古王国時代にサッカラ、ギザ台地で作られたマスタバ墓には石造りの物の方が多かったかもしれない。しかし同時期の地方では、日干しレンガのマスタバ墓が作られ続けた。
 マスタバ墓は第1中間期?には、徐々に造られなくなり、造りも簡素化していった。中王国時代?には、このスタイルの墓廟の作例は見られなくなる。

  • 「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値12〜14」
さらに詳しい情報 マスタバ墓は墓廟だが、埋葬用の墓所は、通例、マスタバ墓の地下に設けられた。墓室に遺体や棺、副葬品などを搬入した通路は、砕石などを詰めて封印された。
(中には、地下の墓所の場所をわからなくするかのように、「偽マスタバ」を多数設けた例外も知られている)
 多くのマスタバ墓は、地上構造の内部に“部屋”が設けられている。これは墓室ではない。来世に転生した死者の再訪に備えて設けられはじめたもの、と考えられている。初期の作例では内部に通じる開口部も設けられていないにも関わらず、浮き彫りや壁画で飾られたりした。副葬品の収蔵庫として機能した。
 この内部空間は、開口部が設けられるようになった後、参拝室に発展した。

小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値14以上」
専門的知識 マスタバ墓の最も初期の作例は、タルハンの墓域?、サッカラ、ギザ台地で知られている。特に、タルハンの墓域に見られるマスタバ墓の作成時期は、かなり早く定かではない。初期王朝時代?とも、先王朝時代とも言われる。
 初期王朝時代も最初の頃の作例は、建物の正面が宮殿風に装飾されていた。内部空間へ通じる開口部はまだ設けられていなかった。
 第2王朝期?になると、マスタバ墓正面の装飾は簡素化した。その代わり、東に面した外面に通例2つの偽扉(扉のように刻まれた浮き彫りで、実際には開け閉めできない装飾)が刻まれるようになった。
 この時期のマスタバ墓周辺の発掘からは、おそらく、埋葬された人物が座した姿を刻んだ石碑が、墓廟正面に設けられたと考えられるが、定かではない
 後、偽扉が、壁龕のように外壁から奥まって作られ、小さな参拝所をなした。
 第3王朝期?には、内部空間が参拝所に発展。参拝所の壁面に、偽扉が精巧な装飾が施された壁龕として設けられ、被葬者の彫像が設置された。
 第3王朝時代、サッカラにジュセル王の階段ピラミッドが建造された。通説では、階段ピラミッドは、多層式のマスタバ墓として構想、建造された。階段ピラミッドは、石材の積み重ね方の分析から、建造が進むにつれ、より高層な構造にプラン変更されたことが明らかになっている。このことから、最初は多層式マスタバ墓を建造する予定だっただろうことは、確からしく思われる。
 階段式ピラミッドの後、ファラオ?は特権的にピラミッドを建造するようになったが、貴族たちはマスタバ墓の建造を続けた。
 第4王朝期?から第6王朝期?にかけては、マスタバ墓の内部空間が複雑化。多くの浮き彫りで精緻に飾られた参拝所が、被葬者の家族それぞれのために設けられた作例もある。これらは、もちろん有力者の豪華なマスタバ墓で典型的な発展だ。
 弟1中間期?になると、参拝所は小さくなり、装飾も簡素化した。しばしば、ただの偽扉のみに退行した作例が見られる。あるいは、偽扉に碑文を刻んだ例も少なくない。
 中王国時代になると、マスタバ墓の作例は見られなくなる。

GM向け参考情報

 「増補待ち」

リンク

関連項目

  • ピラミッド?

資料リンク

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更新日時:2007/02/14 16:04:25
キーワード:
参照:[エル-リシュト] [ラフーン] [エル-カブの遺跡] [考古学、歴史研究の関連用語] [遺跡] [古代エジプト時代] [ソハーグ県]
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