{{toc}} !ドゥール・シャルルキンの遺跡 {{br}}ドゥール・シャルルキンのいせき :'''アラビア語による現地名の音''':(調査中) :'''英語名''':Archaeological site of Dur-Sharrukin :'''フランス語名''':Dur-Sharrukin   !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  ドゥール・シャルルキンの遺跡は、現、[[イラク共和国]]北部にて、[[ティグリス川]]中流域[[左岸|右岸、左岸,河川の〜]]に位置する[[アッシリア|アッシリア国家]]の[[都市遺跡|遺跡]]。 :'''【参照地図】''': *[[イラク共和国]]略地図([[Iraq|http://www.merriam-webster.com/cgi-bin/nytmaps.pl?iraq]],[[Merriam-Webster Online]]){{br}}[[Iraq|http://www.m-w.com/maps/images/maps/iraq_map.gif]] !追加情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。 :'''小事典版推奨判定''':「情報+知性 目標値=8〜10」 ::'''簡単な情報''' (シナリオによっては、ゲーム前ブリーフィングでプレイヤーに伝えるGM裁量をしてもいいかもしれない) :: ドゥール・シャルルキンの遺跡は、[[アッシリア帝国]]の[[サルゴン2世]]が、[[カルフ|ニムルドの遺跡]]に代わる都として新たに建造させた都市だった遺跡。 :: [[ティグリス川]]中流域の東方で、[[ニナワ県]]県都の[[モスル|モスル市]]から15kmほど北東に位置するコルサバード村(Khorsabad)近傍に遺っている。「コルサバードの遺跡」とも呼ばれる。 :: [[ニネヴェの遺跡]]の概ね北東にあたる。 ::'''【参照地図】''' *[[IRAQ,MAP|http://lexicorient.com/e.o/atlas/iraq.htm]]([[LOOKLEX]]) ::'''【参照イメージ】''' *[[Khorsabad(遺跡写真集)|http://oi.uchicago.edu/OI/IS/SANDERS/PHOTOS/MESO/KHORSABAD/khorsabad1_1.html]]([[THE ORIENTAL INSTITUTE|http://oi.uchicago.edu/OI/default.html]],[[The University of Chicago|http://www.uchicago.edu/]]の、[[Archaeological Site Photography|http://oi.uchicago.edu/OI/IS/SANDERS/PHOTOS/arch_site_photos.html]]){{br}}遺跡の写真と、遺跡近傍のコルサバード村の写真とが入り混じっています。各写真をクリックすると、写真タイトルも付記されたページに飛びますので、確認してくさだい。 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' カルフに代わる都として新たに建造されたため、[[アッシリア文明]]の伝統的な神殿都市とは異なる、いわば計画都市だった。城砦とも呼べる防御性の高い作りで、古代名「ドゥール・シャルルキン」自体が「サルゴン砦」を意味した。 :: おそらく、元武官だったサルゴン2世の命によるものと思われるが、あるいはサルゴンが当時の情勢に抱いていた危機感の現われかもしれない。 :: サルゴン2世の死後、[[帝位|古代アッシリアの王位]]を継承した息子[[センナケリブ]]は、完成には至っていなかったドゥール・シャルルキンを去り、[[ニネヴェ|ニネヴェの遺跡]]に王宮を新造させると、遷都した。 :'''小辞典版推奨判定''':「魔術+知性 目標値=12〜14」 ::'''さらに詳しい情報''' ドゥール・シャルルキンで、諸神の神殿の内、[[ナブー神]]の神殿が重視されていた点が注目される。 :: ナブー神は、元々神々の書記官だったが、[[アダド・ニラリ3世]]の代に[[カルフ|ニムルドの遺跡]]で、神格が高まり、一部で「ナブー神のみを崇めよ」との一神教的な運動が生じていた。 :: 問題は、[[サルゴン2世]]がこのナブー神信仰にどこまで染まっていたかだが、定かではない。しかし、バビロンから[[マルドゥック神]]像を拉致することになる[[センナケリブ]]が、ドゥール・シャルルキンを去った後、古い都カルフに戻らず、ニネヴェに遷都したことはなかなか示唆的だ。 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、[[マスタリング・チップス|チップス集]]、[[アイデア・フック]]など !!用途 *ドゥール・シャルルキンの遺跡は、結構使い手があるような無いような、シナリオ作者の工夫次第といった遺跡です。どんな遺跡でも工夫しだいだ、と思うかもしれませんが、特にその傾向が強いです。 *セッションのクライマックス用舞台に想定すると、割と派手めに使えそうです。{{br}}逆に、セッションの導入部で効果的に使うには、工夫が必要かもしれません。 !![[アイデア・フック]] *はっきり書くと、コルサバード村のイメージは、僻地の小村です。事実がどうかはわかりませんが、資料をあたる限りそう思えます。{{br}}これがクルド自治区に入れば、また自治区側の中心地があるわけですが、丁度中間地域になっていると思われます。しかも丘陵地に阻まれている。{{br}}つまり、戦闘にしろ、[[異常な事態|異常との遭遇判定]]にしろ、割と派手めなことを起こしても、[[ゲーム後ブリーフィング]]の後日譚で事態を収拾させ易いと思えます。 *例えば、特定の[[オーパーツ]]の秘められた力を暴走(解放)させる、特別なきっかけを秘めた場所、と設定するなどが有望でしょう。{{br}} 異常な事態の波及効果を、万一、ゲーム後ブリーフィングで収拾しきれなくても、キャンペーンの次回か次々回の間に調整してくことは可能でしょう。 *僻地だと想定すると、他にもいろいろな料理法が考えられます。{{br}}メディアで、抵抗勢力と呼ばれる勢力とは関りなく暮らしている、と想定してもリアリティは損ねませんし、逆に有志連合国や現イラク政府の目を盗んで、抵抗勢力の一団が潜伏している、としてもシナリオ次第でリアリティを保つことはできるでしょう。 *さらに凝ったシナリオで、クルド自治区との関わりを題材に取り組んでいくこともできますし、無理にクルド自治区と関らせなくてもいい(小丘陵が交通を妨げているからです)。いろいろ料理のしがいのある遺跡です。 !!補足情報 !!!遺跡へのアクセス :'''【参考地図】''': *[[Mesopotamia(map)|http://oi.uchicago.edu/OI/IS/SANDERS/PHOTOS/meso_map.html]]([[THE ORIENTAL INSTITUTE|http://oi.uchicago.edu/OI/default.html]],[[Archaeological Site Photography|http://oi.uchicago.edu/OI/IS/SANDERS/PHOTOS/arch_site_photos.html]],[[The University of Chicago|http://www.uchicago.edu/]]) :'''遺跡自体へのアクセス''': ドゥール・シャルルキンの遺跡は、[[ニネヴェ遺跡|ニネヴェの遺跡]]の東北18kmほど、コルサバードという小村の近傍に位置する。[[アルメニア山地]]南麓に連なる低山地からやや離れ、孤立した丘陵の南西側に立地。 :: 遺跡は[[ニナワ県]]に属すが、イラクのクルド自治区に属す[[ダフーク県]](ドホーク県)との県境が近い。 :'''フィクション設定''': 遺跡自体へのアクセスは、フィクション設定として、比較的フリーと想定します。 :: かつての都市の全域が発掘調査されたわけでなく、未調査の区画も遺されていますが、どうやら、イラクの現状では、再調査に手が廻りきらないといったところとしていいでしょう。 :: もちろん、イラク政府の文化政策関係者や、イラク人研究者は、ドゥール・シャルルキン遺跡の保全も気にはしているでしょう。 :: シナリオの都合で、PCの再調査隊を設定し、イラク政府の許可を得て探索していることにても、フィクション設定の許容範囲内と思えます。 :: とりあえず、PCチームがミッションで何か調査をしていても、コルサバードの村人に誰何される程度、と想定します。 :'''登場しても唐突でないNPC''':コルサバード村の村人、イラク政府の文化行政担当部局の役人、イラク人の財団協力者(学者や学生)、など。 //'''【参照資料】''' //[[クルド人自治区ファクト・シート|http://www.peace-winds.org/jp/F4/iraq.html#kurdfact]]([[peace winds JAPAN|http://www.peace-winds.org/jp/main/index.html]]の、[[イラク研究室|http://www.peace-winds.org/jp/F4/iraq.html]]) :'''アクセス・ルート''': 実は、遺跡の位置は、ニネヴェ遺跡の北東18kmとしている資料と、北東30kmとしている資料とが見られます。 :: 小丘陵の麓という情報を信じて、地図と照合すると18km説の方が確からしい。しかし、30km説を採ると、小ザブー川の流入する地方河川の流域にあたり、これはこれでもっともらしい。18km説を採ると、現在の地形では近傍に水源がみあたらない点が気にはなります。 :: ここでは、「小丘陵の麓に立地」という設定が、冒険の舞台としては使いでがありそうなこと、複数の資料に見られる「防御性が高く、城砦と呼ばれた王都」との分析とも合致するので、18km説を採ることにします。 :: 18km説を採ると、至近の町は、[[ニネヴェ遺跡]]にも近いニナワ県のハドナーン(人口、1万人未満級)。 :: 推定されるアクセス・ルートは、次のようなものです―― *'''a案='''ニナワ県県都の[[モスル]]から、[[ティグリス川]]を渡河し、ハドナーンへ → ハドナーンから、クルド自治区に属すダフーク県山中の町アクラ(人口、5千〜1万人級)に至る地方道を北東方向へ → ダフーク県に入るより大分手前で地方道を北方にそれ、丘陵の西裾沿いに進むとすぐ。 *'''b案='''モスルからニネヴェ遺跡を越え、道なき荒野を東北方向へ18km移動。 :'''VTOL類での移動''': VTOL類での移動では、普通なら、コルサバードの村へ離着陸して、現地の人の協力を求める、情報収集をする、などをするでしょう。 :: 財団の手配で、事前にイラク政府の文化行政担当局の役人にコルサバードに入っていてもらったり、イラク人の財団協力者が先入りしていたりするのがもっともらしいと思われます。 :: ミッションの内容の関係で、そうした事前手配が似つかわしくない場合でも、遺跡地帯への離着陸は、普通は禁止と考えます。(この件は[[VTOL類で遺跡に着陸してもいいか?]]にある考え方Aを参照してください) !!!遺跡の周辺環境  イラクでは、「肥沃な三日月地帯」にかなり近い地域で、降水は比較的多いです。ただし、ここでは、あたりに地図に記載されるような大きな河川が見当たらない、と想定しています。  周囲は草地で、コルサバードの村域には畑地が設けられている、と想定することにします。  コルサバード村ですが、参照した地図にはマーキングがありませんでした。この場合、人口5千人未満ということです。「PCが予め知ってていい情報」に挙げた【参照イメージ】から景観写真も参照してください。写真は、[[イラク戦争]]前のものだろうと思われますが、イメージ・ソースとして使う分には構わないでしょう。  地図にないから、というわけではありませんが、最低でも人口500人前後を想定するともっともらしいと思います。  ファンタジーもののセンスだと、「小さな村で人口500人? 多いでは?」と訝しく思われるかもしれません。  しかし、500人と言うのは、老人や幼児、乳児も入れた数です。1世帯を4人〜8人と想定すると、125世帯〜60世帯強にすぎません。働き盛りの人口は300人前後くらいでしょうか(?)。  都市化されていないアラブの3世代大家族をイメージし、1世帯を10人前後と想定すると50世帯前後になります。  この地域の農村は、統計的には、麦類、果樹、豆類の栽培が主になっています。イラクの農作物資料と突き合せると、小麦、大麦、ぶどう、ナツメヤシ、柑橘類といったところでしょうか。  村と遺跡との位置関係などは、シナリオの都合でフィクション設定して構わない範疇でしょう。丘陵地との相対関係を意識して、設定するといいと思います。 !!!遺跡の規模と構成 :'''【参照イメージ】''': //ドゥール・シャルルキン推定復元図(from Gardener“Art Through the Ages”11th Ed, 2001,[[Art History|http://faculty.cva.edu/Stout/index.html]]){{br}}[[ドゥール・シャルルキン推定復元図|http://faculty.cva.edu/Stout/Mesopotamian/Khorsabad.jpg]] *ドゥール・シャルルキン推定復元図([[Images|http://www.utexas.edu/courses/classicalarch/images.html]],[[THE UNIVERSITY OF TEXAS|http://www.utexas.edu/]]){{br}}[[ドゥール・シャルルキン推定復元図|http://www.utexas.edu/courses/classicalarch/images2/khorsabadreconstr.jpg]] *ドゥール・シャルルキンの遺跡の遺跡図([[Temes avancats de Geografia|http://www.upf.edu/materials/fhuma/portal_geos/tag/t1/t1.htm]],[[Universitat Pompeu Fabra|http://www.upf.edu/]]){{br}}[[ドゥール・シャルルキンの遺跡の遺跡図|http://www.upf.edu/materials/fhuma/portal_geos/tag/t1/img/khorsabad.jpg]]  遺跡は、1辺1.5km強の正方形に近い形状囲壁で囲まれ、7つの城門を持っていました。  囲壁の北部中央で、内壁に囲まれた区画に王宮、神殿、高官邸宅が集中していました。  遺跡は、ごく一部の建物の囲壁が修復されていますが、ほとんどは、丘陵の裾に位置するさら地で、うっすらと、発掘されたかつての遺構跡があちこちで窪地をなしている、ようです。部分的には日干しレンガが崩壊した[[遺丘]]に占められています。  王宮区画は、やや小高い遺丘状になっていると想定。特に、王宮付属施設だった[[ジッグラト]]が崩壊した遺丘は、周囲よりかなり小高いそうです。 :'''王宮区画''': 王宮区画は、横長の長方形の区画。内壁北部中央に、高さ15mの基壇が設けられ、王宮はその上に建てられた。 :: 内宮外壁には、多数の監視塔が壁と一体構造で設けられていた。それだけでなく、正面スロープを昇らないと、王宮内には直接入ることができない作りにもなっていた。 :: 王宮内には、200以上の部屋と30の内庭が設けられていた。 :: 正面スロープを昇り、門をくぐると、最も大きな内庭に出る作りだった。門から入って右手に、政務を執る施設が配置。左手には諸神の神殿が設けられ、神殿区画の北にはジッグラトが建立されていた。 :: 正面は王の内宮や私邸区画だったと思われる。 :: また、王宮からは陸橋を通って、隣接したナブー神殿に直接行き来することができた。 :'''フィクション設定''': ごく一部の建物の外壁が、部分的に修復されているようです。 :: THE ORIENTAL INSTITUTE,The University of Chicagoの写真(このページの「PCが予め知ってていい情報」にリンクを貼った【参照イメージ】です)をイメージ・ソースに、高さ1m弱程度の囲壁が修復された遺構もある、と設定するといいでしょう。 :: あまりたくさんの遺構や、大規模な遺構が、きちんと修復されている、としなければ、シナリオの都合に併せて、修復遺構の位置をフィクション設定して構わないでしょう。 :: 建材は、日干しレンガで、[[遮蔽度]]は6〜7程度と想定します。 !!!遺跡の来歴 :'''B.C.720年頃''': 当時、[[カルフ(現ニムルド)|ニムルドの遺跡]]に王宮を置いていた[[サルゴン2世]]が、ドゥール・シャルルキンの建造を開始させた。仮にB.C.720年とすると、サルゴン2世の統治3年めにあたる。 :'''B.C.708年頃''': 治世15年めのサルゴン2世は、一応の完成をみたドゥール・シャルルキンに遷都。このことは、ドゥール・シャルルキンの王宮には、フリュギア、ティルムン、キュプロス島などから、バビロンに対する祝賀使が到来した、と伝える、アッシリアの記録から知られる。 :'''B.C.705年''': 治世18年めのサルゴン2世、[[アナトリア]]方面に遠征し、キンメリア人、スキタイ人と交戦中戦没。後継は、第3子[[センナケリブ]]。  センナケリブは、サルゴン2世の生前から王太子(帝位継承者)の地位にあったが、即位すると、ニネヴェに王宮を建造させ、まだ完成してなかったドゥール・シャルルキンを棄てて遷都してしまう。  遅くとも、B.C.612年にメディア軍勢と新バビロニア軍が、同盟してニネヴェを陥落させた。前後してアッシリア帝国が滅亡した後、未完成だったドゥール・シャルルキンは早期に放棄された、と思われる。  1840年代、フランス人のポール・エミールボッタが、ニネヴェの遺跡を求め、ドゥール・シャルルキンを掘り当てる。ボッタは、フランス政府の資金援助も得て、大々的に発掘。このときの発掘品はほとんどすべてが、フランスに持ち去られ、ルーブルに収蔵されたようです。  1933〜34年にシカゴ大学オリエント研究所の米国隊が再調査。宮殿跡地の埋もれていた基台などを再発掘。(ボッタによる発掘から、シカゴ大による再調査までの間の発掘、シカゴ大以降の再調査については調べきれていません)  シカゴ大による再調査では、内宮(宮殿区画)城門の高いところに設置されていたと思われる有翼の守護精霊彫像が発見された。  この精霊像は、イラク政府に引き渡され、バグダッドのイラク博物館に収蔵された。  2003年に、米軍を中心とした有志連合国軍によるバグダード侵攻と前後した、博物館掠奪でも、この彫像は無事だった、と報告されている。(何しろ大きくて重い物ですから) !!!出土遺物 :'''【参照イメージ】''': *[[Dur Sharrukin|http://commons.wikimedia.org/wiki/Dur_Sharrukin]]([[Wikimedia Commons]])  参考資料を読んでいると、ボッタによる発掘の時は、掘り出されたものが一切合切、持ち去られたかのような印象を抱きます。  実際は、ボッタによる発掘は、遺跡の北東部に集中していたようです。  例えば、以下のようなものが、ルーブル美術館にて展示されている、ドゥール・シャルルキン出土物の代表でしょう。 *[[「コルサバード出土のラマッス」|http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/collec/ao/ao19857/ao_f.htm]]{{br}}[[「サルゴン2世と高官」(レリーフ)|http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/collec/ao/ao19873/ao_f.htm]]{{br}}[[「小さなライオンを抑え込む英雄の立像」|http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/collec/ao/ao19862/ao_f.htm]]{{br}}([[ルーブル美術館日本語サイト|http://www.louvre.or.jp/]])  他に、有名な出土物としては、サルゴン2世のシリア・パレスティナ地方での諸都市での戦勝を浮き彫りで刻んだ、青銅製の巨大な門などが知られている。やはりルーブルに収蔵されている。  他に、1説に150トンとも言われる膨大な鉄器が出土した。この鉄器群は、当時のアッシリアの精強さの現われと言えるだろう。 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[遺跡]] !!関連項目 *[[サルゴン2世]] *[[ニネヴェの遺跡]] *[[ニムルドの遺跡]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Dur-Sharrukin]] *[[Wikimedia Commons:Dur Sharrukin|http://commons.wikimedia.org/wiki/Dur_Sharrukin]]{{br}}(ドゥール・シャルルキンの遺跡関連のフリー・ファイル集アーガイブ) *[[Excavations At Khorsabad|http://oi.uchicago.edu/research/projects/kho/]]([[THE ORIENTAL INSTITUTE|http://oi.uchicago.edu/OI/default.html]],[[The University of Chicago|http://www.uchicago.edu/]]) *[[「(ペルシアの精霊についての)解説」|http://www.miho.or.jp/booth/html/doccon/00000399.htm]]([[MIHO MUSEUM|http://www.miho.or.jp/index.html]]) *[[「イラクの歴史遺産」|http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0310/index4.shtml]]([[「ナショナルジオグラフィック(日本版)」|http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/index.shtml]]の[[「バックナンバー」|http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/bn/index.shtml]]のページより、2003年10月号){{br}}コンテンツの紹介ではなく、雑誌バックナンバーの紹介です。 !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイデア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) *追加調査で、新たな遺跡写真などを発見。これを踏まえて「GM向け参考情報」に改訂を加えました(2006年6月1日) *2008-04-29 (火) 23:41:34 鍼原神無 : 情報等級を少し再整理しました。内容に変化はないはずです。 {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}