{{toc}} !アブガル5世 アブガルごせい (Abgar V) !PCが予め知ってていい情報  アブガル5世は、紀元1世紀頃、古代エデッサに実在した[[オスロエネ王国]]の王。  しかし、欧米のキリスト教徒の間では、むしろ「[[エデッサのマンディリオン]]と呼ばれる、イエスの肖像が示した奇跡的な力で病を癒された」との、聖書外伝承で有名。 '''【参照イメージ】''' *[[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/1/15/Abgarwithimageofedessa10thcentury.jpg]](マンディリオンで病が癒されたアブガル5世、10世紀,[[WIKIPEDIA The Free Encyclopedeia(英文版))|http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page]]の、[[Abgar V of Edessa|http://en.wikipedia.org/wiki/Abgar_V_of_Edessa]]) !追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' アブガル5世は、概ね紀元1世紀の前半、エデッサのアブガル王朝で、オスロエネ王国の支配者だった王。 :: 1度廃位されたが、後、復位した。おそらく、パルティア、アルメニア王国、及びローマ帝国の間の外交関係に関わる事情と思われるが、経緯は[[定かでない]]。 :'''小辞典版推奨判定''':「表現+知性 目標値10〜12」「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''やや詳しい情報''' 「『[[エデッサのマンディリオン]]』自体は、聖書外伝承ですが、奇跡の力でアブガル王が癒される伝承のルーツは、典外聖典に数えられる『アブガルとイエスの往復書簡』で知られています。ただし、この書簡には『[[エデッサのマンディリオン]]』については記されていませんし、王が病を癒された顛末も記されていません。 :: 書簡から読み取れる[[物語|物語化]]の大筋はこうです―― ::'''アブガル王の書簡、大筋''' 病にかかったエデッサのアブガル5世は、自分の病を癒してくれるようにイエスに請う手紙を記すと王宮秘書官に託してイエスの元へ送った。これに対してイエスは返書を(おそらくエデッサの秘書官に口述させったのだろう)返し、自分がこの世での使命を終えた後、弟子の1人を遣わすだろうと、告げた。 :: :: この書簡は、カイサリアのエウセビオス自身が、エデッサの文書庫で目にした、として『[[教会史]]』に記しています。4世紀のことです。 :: 聖書外伝承は、イエスの磔刑と復活の後、72人の弟子の1人タダイがエデッサを訪れると、奇跡の力で王の病を癒し、アブガル王は洗礼を受けた、と続きます。 :: 伝承のこの部分は、『教会史』には見られません。後代、最初のキリスト教王とも呼ばれたエデッサの[[アブガル9世]]に関わって付会されたのだろう、と考えられています。 :: エウセビオスがエデッサの文書館で見たという書簡については、『何者かが、偽作した書簡をエウセビオスが見るよう文書館に潜ませておいた』との説もあります。こちらについてはどうでしょうか(?)。アブガル5世受洗伝承が、後代の付会にすぎなかったとしても、必ずしも書簡の真正性までを否定する根拠にはなりません。 :: 『書簡偽作説』は、4世紀頃すでに始まっていた聖像画論争と関わって、『[[エデッサのマンディリオン]]』の権威を高めるために仕組まれた、として主張されることが多いようです。しかし、それにしては書簡自体には、マンディリオンに関わる言及が見られません」―― ''考古学にかぶれた民間伝承研究家'' ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''詳しい情報''' 記録によるアブガル5世の在位期間は、B.C.4年〜A.D.7年と、A.D.13年〜50年。 :: A.D.7年〜13年は、マヌ4世が在位している。 :: 王号は、アブガル5世ウッカマ・バール・マヌ(Abgar V Ukkama bar Ma'nu)。 ::  :: イエスが在世しただろう紀元1世紀初頭、エデッサとガリラヤの間で、伝承に言われたような書簡のやりとりがあったかどうか、現在、決定的な判断はできない。 :: 普通の歴史研究者は、判断保留としながらも、否定的、あるいは強い疑念を示すことが多い。 :: 歴史について、多くを発言する聖職者(教会史家)は、概ね、往復書簡が交わされたことを史実とみなすことが多い。 :: 争点の1つは、紀元1世紀頃にエデッサの王宮がキリスト教化したかどうかにある。この時期に、オスロエネ王国の全域がキリスト教化したとは考えづらい。 :: 「最初のキリスト教王」と呼ばれることもある、アブガル9世(Abgar IX “the great”)が在位したのは、177年〜212年で、100年以上後のことになる。 :: ただし、古代シリア語文語で記された種々の初期キリスト教文書(後代、偽諸、偽典とされたものも少なくない)とオスロエネ王国の関係から、アブガル5世の頃のエデッサに、古代ヘブライ語を[[母語使用|母語]]できなくなっていたユダヤ教徒のコミュニティーがあったのではないか(?)とは考えられている。 :: オスロエネ王国全体が、アブガル5世の頃にキリスト教化したとは考えづらいが、同時に、ヘブライ語を仕えなくなっていたユダヤ教徒たちが、早い時期に、キリスト教を受容した可能性は、大いに検討されている。 :'''小辞典版推奨判定''':「魔術+知性 目標値12〜14」「歴史+知性 目標値14以上」 ::'''詳しい情報''' 「『アブガル王の書簡』は、5世紀頃、教会が定めた『受け取るべきで無い諸書』、つまり禁書目録に含められていたな。5世紀末に、時のローマ教皇[[ゲラシウス1世]]が、偽典、すなわち不確かな経典の1つとした。これは、書簡の権威を追認した、とみなされることが多い。その後は、典外経典として用いられることもあったのだからな。 :: シリアの教会、アイルランドのケルト教会では、伝統的に重んじられた」―― ''結社をはぐれた魔術師'' !GM向け参考情報  アブガル5世については、普通の歴史学で「史実」と言われる関係については、ほとんどわかっていないようです。[[オスロエネ王国]]についての研究も、まだまだ未解明の部分が多いそうです。  アブガル5世については、現在までのところ、むしろ、伝説を巡る研究が先行しているようです。 !!略年表 :'''B.C.4年''': 伝、アブガル5世即位。 :: イスラエルのヘロデ大王、死去。あるいは、同年、ナザレのイエス生誕か?(B.C.6年とも、B.C.7年とも)。 :'''A.D.1年''': パルティア、アルメニア領から撤退。 :'''2年''': ローマ・パルティア戦争はじまる。 :'''6年''': イスラエル、ローマ帝国の属州ユダヤとされる。 :'''7年''': アブガル5世、廃位され、マヌー4世が即位。 :'''12年''': パルティア、アルメニアを制圧。 :'''13年''': アブガル5世、復位。 :'''13年''': イスラエルのヘロデ王、エルサレムの神殿を再建。 :'''23年''': この頃、パルミュラにバール神殿が建てられる。 :'''29年''': あるいは、イエス・キリストが磔刑に処された年か?(30年とも)。 :'''37年''': パルティア、ローマと講和し、アルメニア支配を放棄。 :'''50年''': アブガル5世、死去。 :'''51年''': パルティア、アルメニアに侵攻。 :'''58年''': ローマ・パルティア戦争再開される。(この戦いは63年まで続く)  !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]],[[神話、伝説のキャラクター]] !!関連項目 *[[エデッサのマンディリオン]] *[[オスロエネ王国]] !!資料リンク *[[Abgar V of Edessa|http://en.wikipedia.org/wiki/Abgarus_of_Edessa]]{{br}}[[Osroene|http://en.wikipedia.org/wiki/Osroene]]{{br}}([[WIKIPEDIA The Free Encyclopedeia(英文版)|http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page]]) !活用や検討 !!活用 --- !!検討 *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで) ----