{{toc}} !アダド・ニラリ3世 アダド・ニラリ さんせい (Adad-nirari III) 暫定版 !記事内容追加調査中の暫定版です !PCが予め知ってていい情報  アダド・ニラリ3世は、紀元前9世紀末から紀元前8世紀はじめにかけての[[アッシリア|アッシリア国家]]の支配者。  アッシリアの勢力が、一時停滞していた時期から、再度拡張に向かった時期の統治者だが、治世の間に、後々の混乱を招く要因が幾つも生じた。 !追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' アダド・ニラリ3世は、先代[[シャムシ・アダド5世]]の息子で、在位期間は、B.C.810年〜B.C.783年の足掛け28年。 :: この治世年からも予想されるように、アダド・ニラリ3世は、即位時にはまだ若かった。アダド・ニラリ3世の即位当初は、生母でシャムシ・アダド5世の妃だった[[サンムラマト]]が摂政のように統治を後見したようだ。後見期間は、即位から5年間ほどだった、と言われる。アダド・ニラリ3世は、即位時にまだ幼年だった、とも言われるが、もし5年間ほどでサンムラマトの後見が終わったのだとしたら、即位時のアダド・ニラリ3世は、少年期の末といったイメージを抱いても、そうかけ離れてはいないだろう。 :: 先代の統治期間中から、アッシリア直轄領だった幾つかの地域で、代官たちが独自の年号を用いた碑文が知られている。このことから、シャムシ・アダド5世と、アダド・ニラリ3世の代にアッシリア帝国の統治力が低下し、各地で離反の動きがあった、と、する説がある。 :: しかし、離反や、広域の内乱を証拠立てる物証はない、として統治力低下説に懐疑的な意見もあて、当時の実状は[[定かにされていない|定かでない]]。 :: アダド・ニラリ3世の死後、アッシリアの統治力は、明らかに低下していき、[[ティグラト・ピラセル3世]]が立つ直前には、内戦状態に陥った。上記の説と、反論は、「アッシリア国家の統治力低下は、いつからはじまり、どのような要因が、どんなふうに絡まって推移したか?」という検討の議論になっている。 :: シャムシ・アダド5世の治世中、すでに中央宮廷で高位に登用される例が出ていた宮廷宦官は、王母サンムラマトと結びついて、急速に影響力を強めたようだ。高位に登用される宦官の人数も増え、アダド・ニラリ3世の死後、帝国直轄地域の長官として赴任した後に、中央で高位に就く宦官が増えていった。また、アッシリア軍で将軍となった宦官も出るようになる。 :: アダド・ニラリ3世についての個人的な記録はあまり多く遺されていない。その代わり、多数の遠征記録が遺されている。 :: この時期のアッシリアの遠征は、四方に繰り広げられ、[[バビロニア地方]]では[[カルデア人]]を服属させるなど、かなりの成果も挙げた。ただし、軍事制圧の成果と、安定した統治につながる征服とは、また別種のものだ。見ようによっては、アダド・ニラリ3世の代の過激な膨張政策が、続く時期の混乱を招いた、とも言える。 :: アダド・ニラリ3世の代にアッシリア軍の総指揮官(大将軍)に任じられた[[シャムシ・イル]]は、軍の侵攻と制圧には長けていたようだが、遠征先の支配地で将軍が征服地の支配者のように振る舞い、中央の意向を無視することを許した。シャムシ・イル自身も、アダド・ニラリ3世の死後、次第に帝権を軽んじた専横が増えていったと言われる。 :: また、アダド・ニラリ3世は、ニネヴェのナブー神殿など、主要都市に神殿を造営させた。 :'''小辞典版推奨判定''':「言語+知性 目標値10〜12」「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''やや詳しい情報''' 「アダド・ニラリ」のアッカド語系統の言語での語意は、「アダド神は我を助ける」。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''詳しい情報''' 王母サンムラマトが、しばらく、帝政に実権を握ったことは確からしいが、それと「摂政位」という地位についた、あるいは宮廷で認めさせたた、ということは別の問題だ。 :: 実は、サンムラマトの「摂政位」を直接証拠立てる記録は知られていない。摂政説には、古代記録の解釈の問題が関り、否定論者も少なくない。否定論者の多くは、アッシリアやバビロニアで、宗教祭儀はともかく統治中枢に女性が地位を占めた実例が知られていないことを強調する。 :: また、「公式には『アッシュル神の代官』である、“アッシリア王”の後見を採るなら、まず第一に神官があたるのが筋だったろう」との意見には、考慮すべき面が多い。 :: 王母サンムラマトの事跡について直接記録した文献も知られていない。ただ、幾つかの奉納碑文の内に、王の名と並んで、王母の名が刻まれ、長寿が神々に祈願されていたりする。こうした形で王族女性の名が記されること自体、アッシリアでは異例ではある。 :: 摂政悦の肯定論ではこのことが旁証とされ、否定論では摂政位にあったことの証拠とは言えない、とされる。どちらの説も決定打にかけるのが現状と言えるだろう。 :: アダド・ニラリ3世の王名を刻んだ、あまり数の多くない王碑文を根拠に、「アダド・ニラリ3世は、祖父にあたる[[シャルマネセル3世]]が、アッシリアに服属させた諸国に対する支配を確実なものにしようとした」と言われることがある。左記の意見は「アダド・ニラリ3世の代のアッシリア国家の意思」としては概ね妥当な評価だ。しかし、国家の意思決定にどこまでアダド・ニラリ3世個人の意志が関わっていたかの分析は、又、別問題として残っている。王碑文の数が少ないこと自体が、宮廷の状況を何がしか暗示している兆候と、見るべきだろう :: アダド・ニラリ3世とサンムラマトの母子関係、サンムラマトと、シャムシ・イルの関係、高位宦官群とシャムシ・イル指揮下のアッシリア軍の関係など、まだ充分に整理されているとは言えない。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」「魔術+知性 目標値14以上」 ::'''さらに詳しい情報''' サンムラマトの名を、アダド・ニラリ3世と共に刻んだものの内、有名なものに、カルフ([[ニムルド|ニムルドの遺跡]])で高官を勤めていた宦官が奉納した碑文が知られている。 :: この碑文の末尾には「今後は誰であれ、[[ナブー神]]に依り頼み、他の神を頼むことのないように」と記されている点が、一部で注目されている。 :: あるいは、この時期、カルフでナブー神を中心にした一神教化の宗教改革が試みられたのではないか(?)、とも言われる。しかし、仮にそうした改革運動があったとしても、後代定着したとみるような証拠は知られていない。 !GM向け参考情報  アダド・ニラリ3世は、アッシリア帝国初期の帝王ですが、アッシリア史でもマイナーな人物です。事跡や人物像もよく整理されておらず[[諸説ある]]というのが現状でしょう。  ここまでイメージがあやふやだと、とっかかりも乏しいのですが、王母[[サンムラマト]]を伝説の女帝[[セミラミス]]のモデル、とする説があるところが注目です。  サンムラマトをセミラミスのモデルとする説自体、どちらかと言えば歴史ロマンで、確固とした学説ではないようですが、伝奇ロマンの題材としては面白いと思います。  あるいは、学問的には「決め手に欠ける」と思われる「サンムラマト摂政説」をとっかかりにして、歴史ロマン、古代史ミステリー色の強いシナリオを作ることも、フィクションですからもちろん構いません。シャムシ・イルとの関係をいろいろ想像するのも面白そうです。 !!関連遺物 :カルフの宦官ベール・タルツィ・イルマによる奉納神像: ニムルド出土。ナブー神に奉納された下級神像。おそらくは、奉納者ベール・タルツィ・イルマの個人神か(?)。 :: 高さ178cmの神像の腰周りに刻まれた奉納文の末尾に、王と王母の長寿をナブー神に祈願する文章が記されている。1対の神像の内1体が[[ブリティッシュ・ミュージアム]]に収蔵されている。 !!アイディア・フック !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[新アッシリア時代]] *[[シャムシ・アダド5世]] *[[サンムラマト]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Adad-nirari_III]]{{br}}[[Wikipedia日本語版:アダド・ニラリ3世]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}