{{toc}} !アレクサンダー・フォン・フンボルト (Alexander von Humboldt) 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  アレクサンダー・フォン・フンボルトは、18世紀末から19世紀前半にかけて活動した、プロイセン出身の博物学者、探検家。晩年は、プロシア学術協会の初代会長に就任。  プロシア貴族の出で、兄は、プロシア首相も勤めた外交官、言語学者、哲学者の[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]。  [[南アメリカ]]を探索し、[[フンボルト海流]]を命名。帝政ロシア時代の[[チュルケスタン]]を探索し、「[[中央アジア]]([[内陸アジア]])」の用語を提唱。  主著は、地理研究の方法論を説いた『コスモス(Kosmos)』。等温線図の図法を考案して、様々な地域の気候を比較する法を開発。海抜高度の増大に伴う気温の減少率を整理するなどした。  さらに熱帯性暴風雨の起源を考察し、後に、高緯度地方で大気の擾乱を支配する複雑な法則が解明される手がかりを残した。また、地球の磁力の強さが、極地から赤道に向かって減少することも発見。「磁気嵐」と言う概念も提案した。  現在では、特に植物地理学の基礎を整理した功績が高く評価されている。有機体の分布が、地域によって異なる自然条件に影響される、と唱えた。これは、当時としては斬新な考え方で、今日の生態系研究の出発点になったもの、と言える。  2006年現在、[[ドイツ連邦共和国]]では、政府の財政支援で創設された「[[アレクサンダー・フォン・フンボルト財団]]」が、「国際的な研究協力の振興」を目的に、非営利組織として運営されている。  ベルリンにある[[フンボルト大学]]は、1810年に創設されたベルリンで最も古い大学だが、こちらは、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが創設した。 '''【参照イメージ】''' *[[Image:Humboldt, Alexander von 1847|http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Humboldt%2C_Alexander_von_1847.jpg]]{{br}}(アレクサンダー・フォン・フンボルト肖像、1847年[[Wikimedia Commons]]) !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  アレクサンダー・フォン・フンボルト、こと、フリードリッヒ・ハインリッヒ・フンボルトは、1769年9月にベルリンでプロシア貴族の家に生まれた。  1766年、母親のマリア・エリザベート・フォン・コロンバは、アレクサンダーと、ヴィルヘルムの兄弟を連れ子として、7戦争の功績によって貴族に列せられた元プロシア陸軍軍人と再婚。  幼少時のアレクサンダーは、あまり健康ではなかったようだ。少年時代から、植物、貝殻、昆虫などを収集し、標本整理をすることを趣味にしていた、と伝えられる。  1779年に養父が死去。母マリアは、アレクサンダーが政界に進むことを希望。フンボルトは、フランクフルトのオーデル大学に進み、財政学を学ぶことになる。1789年、ゲッティンゲン大学に入学を許可され、考古学者の[[C.G.ハイネ]]、解剖学者、人類学者の[[J.フリードリッヒ・ブルーメンバハ]]の講義を受けた。  1789年、[[ライン川]]流域のプライヴェートな学術調査をおこない、翌年、論文を発表。この頃、初期の進化論者で、後にジャーナリスト、革命家になった[[ゲオルグ・フォスター]]と交友を結んだ。  ゲオルグ・フォスターは義理の父に伴われ、ジェイムズ・クックの2次航海に参加した経験を持っていた。後年のフォン・フンボルトが示した旅行、探検への情熱は、フォスターとの交友で培われた、とも言われる。  その後、フンボルトは、[[ハンブルク]]で商業と外国語を学び、[[フライベルク]]では、地質学者の[[A.G.ワーナー]]に地質学を、J.C.ローダーに解剖学を学んだ。さらに、天文学者のF.X.フォン・ザッハ、J.ゴトフリート・ケーラーらに当時最新の観測機器についてを学んだ。  1790年、フンボルトとゲオルグ・フォスターとは、[[イングランド]]に旅行。1792年と1799年には、単身で[[ウィーン]]を訪れ、1795年には、[[スイス|スイス連邦]]から[[イタリア半島]]にかけて、地質調査と植物採集の旅をしている。この間、短期間、ベルリンの鉱山について、公的調査の委託を受けたりもした。また、プロイセン政府から、外国の鉱物分布などについて調査委託を受けたこともある。  1796年に母のマリア・エリザベートが死去。この後フォン・フンボルトは本格的な調査旅行を[[ワールド・ワイド]]におこなうようになった。  [[マドリード]]で、偶然のようなきっかけから、当時のスペイン首相から後援を得ると、中南米のスペイン領の調査に向かうことになった。1799年に出航すると、途上[[カナリアス諸島]]の[[テネフェリ島]]で流星雨を観察し、後にその周期性を論じた。  [[南アメリカ]]に渡ると、現在の[[ヴェネズエラ|ヴェネズエラ=ボリヴァル共和国]]にあたる地域から、動植物の調査、採集を開始。「[[オリノコ川]]と、[[アマゾン川]]とが支流で結ばれている」と論じもした(これは誤りだったことが後に確認される)。  [[コロンビア]]から、[[アンデス山脈]]伝いに[[ペルー|ペルー共和国]]の[[リマ]]までを踏破。途中[[チラボラソ火山]]の山頂間際まで到達している。リマでは、ペルー沿岸を流れる海流を調査。「フンボルト海流」を命名した。  南アメリカから[[ヨーロッパ]]に戻った後は、イタリアの[[ベスビオ火山]]を調査。1807年に、ベルリンで『自然の風景』を出版した後、[[パリ]]に居を構え、それまでの研究成果の整理を試みた。彼が中南米で採集した博物学的な標本は6万種に及んだとされている。  探検家、博物学者として名声を得たフンボルトは、1811年に帝政ロシア政府と、プロシア政府のそれぞれから、ロシア領[[チュルケスタン]]の調査を公式に依頼された。この時は、事情が許さなかったようで、フンボルトがロシア領の探索に赴いたのは60代になってからのことになる。  1829年、[[C.ゴトフリート・エーレンブルク]]とグスタフ・ローズとを助手に選んだフンボルトは、5月から11月にかけてロシア領の[[ネヴァ川]]から[[エニセイ川]]にかけてを踏査した。25週間に渡る、1550万km近くの調査行だった。  この調査行は急なものだったらしく、ロシア政府の支援は得られたものの、不充分だった、と言われる。フンボルトは、調査の報告で、それまで漠然と「チュルケスタン」と呼ばれていた地域を、「[[中央アジア]]」と呼ぶ地理学用語を提案。中央アジア高原の高度を訂正し、ウラル山脈の山域で、ダイヤモンド鉱脈をを発見した。  1827年、プロシアに帰還。1828年にプロシアで新しく組織された学術協会の初代会長に就任。  1830年から1848年にかけて、しばしば、プロシアから、フランスの[[ルイ・フィリップ]]の宮廷への外交使節として働いている。  1840年に、フリードリッヒ・ウィリアム4世がプロシア王位を継ぐと、何かと頼りにされる機会も増えたようだ。1859年、アレクサンダー・フォン・フンボルトが死去すると、国葬が執りおこなわれた。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  パリに居を構えた頃のフンボルトは、すでにヨーロッパ各国で、探検家、研究者としての名声を得ていた。当時「ナポレオンに次いで有名な人物」とも言われていた。もちろん、貴族出身であったことも影響しただろうが、当時としては先進的な学術調査を、探検と同時におこなったことも影響していたことだろう。  プロシアの[[フリードリッヒ・ウィルヘルム3世]]は、フンボルトに義務無しの年金を供与した。1810年には、プロシア首相の地位を提示されたが、これは固辞した。  晩年、プロシアの学術協会会長になった後は、各国の政府に学術研究振興を働きかけている。  プロシア国内では、地磁気研究に関する学術調査機関と研究機関のネットワークを組織。1829年に、ロシア政府に働きかけ、[[北アジア地域|北アジア]]に、気象観測所、及び地磁気観測所のネットワークが形成されるきっかけを作った、と言われる。  1836年に、フンボルトが、当時ブリティッシュ・ロイヤル・ソサイエティ総代だった、サセックス公に送った手紙も、[[ブリティッシュ・エンパイアー(大英帝国)]]のドミニオン(白人植民地諸国)に、学術調査機関のネットワークを築くきっかけになった、と言われている。  今日、アレクサンダー・フォン・フンボルトは、「[[カール・リッター]]と共に、近代的な地理学の基礎を築いた研究者」とされている。  フォン・フンボルトによる客観的な調査記録は、地理学や植物学に現代的基礎を与えた、とされている。この評価は妥当だが、フンボルトは、偉大な博物学者の最後の世代、との一面も持っていた。博物学と現代的な科学との橋渡しをした人びとの1人、と捉えることもできよう。  フンボルトは、[[ゲーテ]]と親交を持ち、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]とも交友していた。 !GM向け参考情報 *GM向けの捕捉情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 '''参照イメージ''' *[[アレクサンダー・フォン・フンボルトについてのフリー・ファイル集|http://commons.wikimedia.org/wiki/Friedrich_Heinrich_Alexander_von_Humboldt]]([[Wikimedia Commons]]) !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Alexander_von_Humboldt]]{{br}}[[Wikipedia日本語版:アレクサンダー・フォン・フンボルト]] *[[一覧:Alexander von Humboldt]]{{br}}[[一覧:アレクサンダー・フォン・フンボルト]]{{br}}[[一覧:フンボルト]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}