{{toc}} !アメンエムハト1世 アメンエムハトいっせい (簡易版) !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 :'''アラビア語名の音''':(調査中) :'''英語表記''':Amenemhat I :'''フランス語表記''':Amenemhat Ier !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  アメンエムハト1世は、[[古代エジプト]]の[[中王国時代|古代エジプトの中王国時代]]、[[第12王朝|古代エジプト第12王朝]]の[[ファラオ]]だった人物。  [[第11王朝|古代エジプト第11王朝]]の事業を引き継ぐように、第12王朝の基礎を築いたファラオで、王朝初代にあたる。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  [[第12王朝|古代エジプト第12王朝]]初代であるアメンエムハト1世が、[[ファラオ]]の位にあったのは、普通、紀元前20世紀末のこととされる。B.C.1962年〜B.C.1991年とする説が主流説。少数派意見にB.C.1937年〜B.C.1908年頃とする説もある。  いずれにしても、30年前後の長期間、ファラオの地位にあった。ちなみに、第12王朝の王統は、長寿の家系だったらしく30年前後地位にあったファラオは少なく無い。 ----  アメンエムハト1世は、[[上エジプト]]の出身者であることは確からしいが、その素性はよくわからない。  現在、研究者の間では、[[第11王朝|古代エジプト第11王朝]]最後のファラオ[[メンチュヘテプ4世]]の宰相だった同名のアメンエムハトと同一人物、と見なす意見が主流説になっている。  「テーベの豪族だった」と、する意見や、「平民層の出身だった」とする意見などが聞かれる。豪族説は、宰相の地位や、第11王朝とテーベ勢力の関係を重視した推測説。平民層出身説は、カルナック神殿に見られるアメンエムハト関連の碑文を重視した説になっている。  カルナックの碑文には、「(アメンエムハト1世の父は)平民のセンウセレト、母は[[エレファンティネ島]]出身の女、と記されている。  ともあれ、アメンエムハト1世は、テーベの出身者らしく[[アメン神]]を重視した。 ----  ファラオとして即位したアメンエムハト1世は艦隊を率いて[[ナイル川]]を遡行。第11王朝の後半、統一王権に従いながら、なお半独立勢力だった各地の豪族たちを服属させていった、かに記録されている。地方豪族だけでなく、南部ではヌビア人部族も従えた、と伝えられている。また、デルタ地帯の東部に進出を繰り返す部族に対する遠征軍を、現在の[[ガザ地区|ガザ・ストリップ]]あたりまで送った、との記録も残されている。  [[メンフィス|メンフィスの遺跡]]の南方数十kmほどに王都を定め「[[イチタウイ]]」と命名した。古代エジプトの言語で「2つの土地の征服者」といった意味だったイチウタイの遺跡は現在も未発見。  アメンエムハト1世は、テーベともヘラクレオポリスとも距離を置いた都で、革新的な統治をおこなったようだ。例えば、[[ファイユーム地方]]の開発が大々的に進められることになるのは、第12王朝期のことだ。アメンエムハト1世の在命中は、目だった事業は完工されていないが、ファラオの墓所は、イチタウイからファイユーム地方に入る途上の位置にあたる[[エル-リシュト|エル-リシュトの遺跡]]に設けられることになった。  あるいは、先代ファラオ在命中から、皇太子を共同統治者(共治王)とする制度はアメンエムハト1世が用い出した。治世20年めに皇太子だった息子を共治王[[センウセレト1世]]として迎えた。  アメンエムハト1世は、治世29年に王都で暗殺された、1種のクーデタだったらしい。この時、共治王だったセンウセレト1世は、[[西方沙漠|西方沙漠,エジプトの〜]]で、[[リビア系|古代リビア人]]の遊牧部族の討伐線にあたっていたようだ。急いで王都に帰還したセンウセレトは、速やかに反乱を平定したらしい。  この反乱の細かな経緯は、定かに証拠付けられていないが、『[[シヌヘの物語]]』と総称される、歴史物語で伝えられている。 ----  エル-リシュトで発掘されたアメンエムハト1世の墓所は、ピラミッドに葬祭殿を併設した形式だった。ピラミッドの規模は[[古王国時代|古代エジプトの古王国時代]]の物に比べれば小規模になっている。  内部の構造体にも、古王国時代の建築物から転用した石材が用いられたなど、[[第1中間期|古代エジプトの第1中間期]]を経て、統一王朝の経済力も古王国時代の盛期ほどには回復していなかったことが窺える。  併設された葬祭殿はほとんど崩壊している。玄室を含めた地下部分は、地下水の浸水で未確認だが、おそらく古代の内に盗掘を受けていたようだ。  盗掘されたのがいつ頃かも鑑定できない状態で、アメンエムハト1世のミイラなども未発見だ。ただ、葬祭殿遺跡から発掘された石材の1部にアメンエムハト1世の肖像を彩色レリーフで描いた物が知られている。この石材は、現在、[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン美術館]]に収蔵されている。 !さらに詳しい情報 *「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  数々の革新的な統治を推し進めたアメンエムハト1世は、尊称として「[[ウヘム・メスウト]]」を用いた。「新生を繰り返すもの」あるいは「再生を繰り返すもの」といった意味のこの尊称に、アメンエムハトの革新的な意欲を読み取る研究者は少なく無い。  「ウヘム・メスウト」は後代、テーベのアメン神官団がテーベ独自の暦の呼称として用いることになる。アメン神崇拝を重視していたアメンエムハトの尊称が、神官団の暦の名に用いられることになったのは、あるいは偶然ではなかったかもしれない。 ----  アメンエムハト1世は、第12王朝を通じて尊敬されたようだ。第12王朝時代の初期に作られた『[[アメンエムハトの教え]]』は、センウセレト1世の夢に現れたアメンエムハト1世の霊が、統治者が知るべき忠告や警告を息子に語る、という体裁の物語だ。この物語は、後世に筆記されたパピルス文書で伝わっている。 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、[[マスタリング・チップス|チップス集]]、[[アイデア・フック]]など  「増補待ち」。 !!別称類 !!![[主要国の言語|ハウス処理:「主要国の言語」の処理]] *アラビア語名の音=(調査中) *英語表記=Amenemhat I *フランス語表記=Amenemhat Ier *スペイン語表記=Amenemhat I *ロシア語表記=Аменемхет I *中国語表記=阿蒙涅姆赫特一世 //その他 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[古代エジプト第11王朝]] *[[古代エジプト第12王朝]] *[[センウセレト1世]] *[[メンチュヘテプ4世]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Amenemhat_I]]{{br}}[[Wikipedia英語版:Twelfth_dynasty_of_Egypt]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイデア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}