{{toc}} !アメンエムニス (Amenemnisu) 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  アメンエムニスは、紀元前11世紀半ば、[[古代エジプト]]の[[第3中間期|古代エジプトの第3中間期]]に、[[下エジプト]]の[[タニス王朝|古代エジプト第21王朝]]で、短期間君臨した人物。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  アメンエムニスは、タニス王朝開祖の[[スメンデス]]死後、跡を継ぎ、[[古代エジプトの第21王朝]]で[[ファラオ]]のように振舞った人物。[[誕生名|ファラオの誕生名]]「アメンエムニス」は、「アメン神は王なり」を意味した。  その統治期間は、4年間(足掛けでも5年)と短期間。スメンデス死没の年を、よく言われる説に準拠してB.C.1043年とすると、B.C.1039年に死去した計算になる。  アメンエムニスの名は、[[マネトー]]の『[[エジプト誌]]』に記されてはいたが、長く銘文の類が発見されなかった。現代的な考古学が発達してからは、長い間、実在を疑う説すら唱えられていた。  1939年〜1940年、[[フランス|フランス共和国]]の考古学者、エジプト学者、[[ピエール・モンテ]]が、タニス王朝の諸王の墓域を発見。[[プスセンネス1世]]の無傷の墓所が発掘された。  プスセンネス1世の墓所から発見された[[遺物]]、遺文により、アメンエムニスの実在が確認された。とは言え、アメンエムニス実在を示す物象で新たに発掘されたものは、アメンエムニスの[[即位名|ファラオの即位名]]「ネフェルカラー」(美しきはラー神の魂)を記した黄金の兜が主なものだ。  その後も、アメンエムニス1世の碑文類などは未発見で、今でも、謎めいた人物であることは、あまり変わらない。  アメンエムニスは、タニス王朝第2代にあたる。その短い治世の全期間を通じて、プスセンネス1世が共同統治者の地位にあった。  アメンエムニスの出自は[[定かでは無く|定かでない]]、スメンデスの息子とも、テーベの[[ヘリホル]]の息子とも言われている。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  タニスでアメンエムニスが即位する少し前、テーベでは、アメン神の第一神官[[メンケペルラー]]に叛旗を翻した有力者たちが、西方沙漠のオアシスに追放されていた。  記録によれば「スメンデスの治世25年のこと」と、されているので、アメンエムニスの即位前年のできごとと思われる。研究者の内には、テーベの政争が、[[アメン大司祭国家]]とタニス王朝との関係を背景にしたもの、と唱える説もある。  確かに、アメンエムニス(アメン神は王なり)の誕生名は、アメンエムニスとテーベとの関係の深さを暗示するものかもしれない。  アメンエムニスの死後、共同統治者だった[[プスセンネス1世]]が、タニス王朝の王位を継承した。プスセンネス1世が、アメン大司祭国家の[[ピアンキ]]の息子だったことは、確からしい。 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[スメンデス]] *[[プスセンネス1世]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Amenemnisu]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}