{{toc}} !アッシュル・ダン3世 {{br}}アッシュル・ダン さんせい {{br}}(Ashur-dan III) {{br}}簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  アッシュル・ダン3世は、[[新アッシリア時代]]の[[アッシリア|アッシリア国家]]支配者の1人。紀元前8世紀の中ほどに在位した。  [[アッシリア帝国]]初期の人物だが、その事跡、人物像などは、[[定かには解明されていない|定かでない]]。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  アッシュル・ダン3世は、[[アダド・ニラリ3世]]の息子。先代にあたる兄、[[シャルマネセル4世]]の[[帝位|古代アッシリアの王位]]を継ぎ、B.C.772年に即位しB.C.755年まで、足掛け18年在位した。  アダド・ニラリ3世の代に、アッシリア軍の総司令官(大将軍)に任じられた[[シャムシ・イル]]はいよいよ、宮廷での影響力を強めたようだ。高位宮廷宦官の勢力も強かったことが伺われる。軍と、宦官勢力の関係は、定かではないが、必ずしも対立的ではなかったようだ。  アッシュル・ダン3世の言動、権限は極めて制限されたものだった、と推定されている。  この間、当時の記録によれば、アッシリア軍の遠征は繰り返されたが、征服地の組織だった統治機構は、ほとんど整備されなかったようだ。かえって、征服地での将軍たちの専横が著しくなったと思われる。  アッシュル・ダン3世の代の[[リンム年代誌]]によれば、B.C.765年、アッシリアの中核部が疫病の流行に見舞われた。B.C.763年にも、再度、疫病が蔓延。B.C.759年まで続いた反乱が起きた。 ----  アッシュル・ダン3世の統治10年目、ブル・サギレなる人物が[[リンム職|リンム]]に任じられた。ブル・サギレのリンム年代誌によれば、彼がリンムだった年にアッシリアの中核部で、皆既日食が観測された。  現在、天文学のシミュレーションによって、この皆既日食は、B.C.763年に、現在の暦で6月15日に起きたもの、と検証されている。このため、アッシュル・ダン3世の治世の「ブル・サギレの年」は、現在、新アッシリア時代のアッシリア編年の基点とされている。  アッシュル・ダン3世の治世年、あるいは、ブル・サギレの年と、年数の前後関係を割り出し可能な古代記録は、ブル・サギレの年から、年数が計算される。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  [[新アッシリア時代]]の編年は、「ブル・サギレの年」を起点にすることで、かなりの部分が客観的な年数を算出することができる。アッシュル・ダン3世の2代後にあたる[[ティグラト・ピラセル3世]]の頃からは、[[古代エジプト]]などと関係する資料も増え、年代決定の確実さは増す。  ところが、アッシリア王の治世年は、紀元前[[2千年紀|千年紀]]後半の部分が断片的で、混乱が多く、捏造と思われる部分すらある。と言うわけで、日蝕記録に基づくブル・サギレの年の効用も、[[中アッシリア時代]]には、ほとんど及ばない、と思った方がいい。  ほとんどの場合、中アッシリア時代よりも前のアッシリア編年は、新アッシリア時代の編年とは別の根拠に基づいて検討されている。 !GM向け参考情報 *GM向けの捕捉情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] //関連項目 !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Ashur-dan_III]]{{br}}[[Wikipedia日本語版:アッシュール・ダン3世]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}