{{toc}} !アッシュル・エティル・イラニ (Ashur etil ilani) 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  アッシュル・エティル・イラニは、[[新アッシリア時代]]、帝国期アッシリア末期の支配者。  紀元前7世紀の前半に数年間在位したようだが、在位中の記録は殆ど残されていない。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  アッシュル・エティル・イラニの事績については、[[王碑文|アッシリアの王碑文]]等、アッシリア側の公的記録はほとんど残されていない。アッシリア中央で記された記録も、大変少なく、あっても断片的なものになっている。  アッシュル・エティル・イラニの治世に関する記録は、[[新バビロニア]]側の『ナボポラッサル年代記』などに見られるが、これも断片的な記述が多い。  アッシュル・エティル・イラニは、[[アッシュル・バニパル]]の息子として生まれた。  その王位継承に際しては、争奪戦があったと推定されている。王位争奪戦はアッシュル・バニパルの生前、統治末年から始まっていた、言われるが[[定かではない|定かでない]]。対立者の名前なども知られていない。ただし、宮廷宦官だったと思われる[[シン・シュム・リシル]]が、アッシュル・エティル・イラニの後ろ盾だったようだ。  「アッシュル・バニパルが在世していたB.C.630年頃から、帝国の共同統治者についていた」とも、「アッシュル・バニパルが別の息子[[シン・シャル・イシュクン]]を後継者に指名したため、アッシュル・エティル・イラニは反逆し、アッシュル・バニパルを殺害した」とも言われる。  特に後者の説には異論も多く、「アッシュル・エティル・イラニと、シン・シャル・イシュクンは同一人物だった」とする説すらある。 ----  B.C.627年のアッシュル・バニパルの死が、アッシリアの統一支配圏を巡る深刻な争いを招いたことは確かと思われる。また、それ以前から、アッシリア内部に軋轢があったことも、アッシュル・バニパル晩年の記録から伺われる。  おそらくは、アッシュル・バニパルの死によって激化した帝国の内紛が、メディア、カルデア、アシュケロンなど、それまで劣勢に置かれていたり、従属下に置かれていた諸国の反撃を導いたのだと思われる。  『ナボポラッサル年代記』によれば、アッシュル・エティル・イラニは、B.C.623年頃、後ろ盾だったシン・シュム・リシルに王位を奪われ死亡した。  [[ハラン]]から出土した[[ナボニドス]]の王碑文によれば、アッシュル・エティル・イラニの在位期間は、B.C.627年頃〜B.C.623年頃と思われる。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  アッシュル・エティル・イラニが、アッシュル・バニパルの生前から共同統治者に任じられていた、とする説では、B.C.630年頃から共同統治者に擁立されていた、とされることが多い。 !GM向け参考情報 *GM向けの捕捉情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[新アッシリア時代]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Ashur-etil-ilani]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}