{{toc}} !アッシュル・バニパル (Assurbanipal) !PCが予め知ってていい情報  アッシュル・バニパルは、紀元前7世紀の後半に活躍した、帝国期[[新アッシリア|新アッシリア時代]]の[[帝王|古代アッシリアの王位]]。  エジプトにまで支配を及ぼしたが、彼の死後、アッシリアは18年間という短期間で滅亡した。  アッシュルバニパルの命で収拾され、[[ニネヴェ遺跡]]から出土した[[アッシュル・バニパル文庫]]でも知られる。 !!追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' アッシュル・バニパルは、父で先代の[[エサルハッドン]]が、エジプト遠征の途上陣没したB.C.668年に[[アッシリア王位|古代アッシリアの王位]]を継承。B.C.627年まで42年間統治したと目されているが、B.C.631年まで 38年間統治した、との記録も知られている。当時の記録に見られる混乱は、アッシュル・バニパルの晩年、アッシリアでは、アッシュル・バニパル本人と、彼の王子たちとの内紛が生じていた可能性を示唆している。 :: この「アッシュル・バニパル晩年の内紛」説については、研究者の内には[[判断を保留する意見もある|諸説ある]]。しかし、アッシュル・バニパルが刻ませた宗教的な[[王碑文|アッシリアの王碑文]]に次のようなものが知られている。 "" 神よ、国土の紛争において、宮廷闘争において、なにとぞ余をば見はなしたまわらざらんことを。反乱やよこしまなる陰謀がたえず、その目標とめざされるこの余をば。 *王碑文の訳文は、河出文庫版世界の歴史第2巻、P.330に依りました。{{br}}岸本通夫、他共著,世界の歴史2『古代オリエント』(河出文庫),河出書房新社,Tokyo,1989. :: いずれにしても、アッシュル・バニパルの統治晩年は記録が少なくなり、ほとんどが断片的記録になっている。アッシュル・バニパルの死の経緯や、死の月日を具体的に記した記録も、現在のところ知られていない。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''詳しい情報''' アッシュル・バニパルは、B.C.672年に太子だった長兄の死後、エサルハッドンの後継者に指名された。この地位継承は変則的な指名で、生前のエサルハッドンは、宮廷高官や属国の王たちに、アッシュル・バニパルへの忠誠を誓わせる宣誓儀式をおこなわせた。自身も変則的な帝位継承で、政争に関わらざるを得なかったエサルハッドンは相当に気にしていたらしく、宣誓儀式では、アッシュル・バニパルの兄、[[シャマシュ・シェム・ウキン]]へのバビロニア王位継承も同時に扱われていた。 :: この後継者指名については、エサルハッドンの王母[[ナキア]]([[センナケリブ]]の王妃だった)の意思も関与していた、と言われる。ナキアは、エサルハッドンが死没し、アッシュル・バニパルが帝位を継承した直後に、再度彼への忠誠を宣誓する儀式を執り行ったようだ。 :: エサルハッドンやナキアの懸念は的中し、B.C.652年、バビロニアのシャマシュ・シェム・ウキンは、エラムやカルデア人、アラブ人と連合し、アッシリアに反乱を起こした。この時、カルデア人を率いたナブー・ベール・シュマティは[[メロダク・バラダン2世]]の孫である。 :: バビロニアの反乱は、4年後のB.C.648年に一応鎮定された。シャマシュ・シェム・ウキンはバビロンを攻囲され兵糧攻めにされたうえで、炎上する城内で死んだと言う。ナブー・ベール・シュマティは、エラム勢の下に逃れた。 :: [[一説に|一説に〜]]、バビロニア反乱はオリエント世界を揺るがす動乱のきっかけになった、と言われる。しかし、見ようによっては、元々伏流していたアッシリアの強権支配に対する不満がいよいよ噴出するきっかけになった、とも言える。どちらにせよ、アッシュル・バニパルは、バビロニア鎮圧後もエラムの地やアラビア半島への遠征を繰りかえさざるを得なくなった。 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」「表現+知性 目標値14以上」「魔術+知性 目標値14以上」 ::'''詳しい情報''' アッシュル・バニパルは、シュメール語やアッカド語など古典語の読み書きに通じていたことを自ら誇り、同時代から「英明な支配者」として崇拝されていた。 :: 当時、古典語の読み書きは、神官や占星術師(天文学者)――両者は往々にして区別をつけ難かったが、の専門分野で、王族がたしなむことはマレなことだった。 :: アッシュル・バニパルが古典語の読み書きに優れていたについては、おそらく占星術などへの深い関心を示していた父で千代アッシリア支配者の[[エサルハッドン]]の影響もあったことだろう。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値14以上」 ::'''専門的知識''' アッシュル・バ二パルは、バビロニアの反乱を鎮定した後、シャマシュ・シェム・ウキンの後任のバビロニア王に、カンダラヌなる人物を就任させた。この人物は、まったくの傀儡王でアッシリア側の意向に従うばかりの人物だった。 :: 現在の研究者の間には、このカンダラヌが、アッシュル・バニパルのバビロニア王としての王名にすぎず、アッシュル・バニパルと同一人物だった、とする[[説がある|諸説ある]]。 !GM向け参考情報  アッシュル・バニパルは、「アッシリアの最後の偉大な王」とも言われる人物です。  [[アッシュル・バニパル文庫]]との絡み、父[[エサルハッドン]]や王母[[ナキア]]との絡み、兄シャマシュ・シェム・ウキンによるバビロニア反乱など、何かとシナリオ・フックが豊富な人物でしょう。 !!事跡 :B.C.672年: [[エサルハッドン]]の太子だった、シン・イディナプラ死去。アッシュル・バニパル、太子に指名される。 :B.C.668年 即位年: エサルハッドン、エジプトの反乱を鎮圧に向かう途上で陣没。アッシュル・バニパル、アッシリア王位を継承。 ::同年 エラム王として即位したテウマンがエラム勢を統一。 :B.C.667年 統治2年め: アッシュル・バニパルの兄、シャマシュ・シェム・ウキン、バビロニア王位に就く。これも、先代エサルハッドン生前の指名だった。 ::同年 アッシリアの遠征軍、エジプトのメンフィスを再占領。 :B.C.663年 統治6年め: アッシリアの遠征軍、エジプトのテーベを制圧。[[第25王朝|古代エジプト第25王朝]]のタハルカ、[[ヌビア|歴史的ヌビア地域]]に撤退。アッシリアのエジプト支配、B.C.655年まで続くことに。 :B.C.655年 統治14年め: エジプトのサイス朝([[第26王朝|古代エジプト第26王朝]])アッシリア支配を脱す。 :B.C.653年 統治16年め: アッシュル・バニパル率いる遠征軍、エラム軍を追い詰め、テウマンとその息子を戦没させる。 :B.C.652年 統治17年め: バビロニア王シャマシュ・シェム・ウキン反乱を起こす。 :B.C.651年 統治18年め: アッシリア軍、バビロニアのニップルを制圧。 :B.C.650年 統治19年め: アッシリア軍、バビロニアでバビロン他の反乱都市を攻囲。 :B.C.648年 統治21年め: バビロン陥落。シャマシュ・シェム・ウキンは、炎上する王宮で死没した、と伝えられる。 :B.C.647年 統治22年め:  バビロニア王カンダラヌ、アッシュル・バニパルの代官として赴任?  アッシュル・バニパルは、バビロニアの反乱を鎮定した後も、反乱を支援したエラム勢、アラブ勢を懲罰するため、軍勢を率い遠征。[[スサ]]を破壊する、などした。ザクロス山脈からアラビア半島に及んだ長期の遠征が、あるいはアッシリアの国力を衰退させた原因かもしれない。 :B.C.631年 統治38年め: この年、アッシュル・バニパルの統治が終わった旨を記した記録が知られている。 :B.C.627年 統治42年め: この年、アッシュル・バニパルが死没したはずだが、死の経緯は定かに伝わっていない。 !!人物像  アッシュル・バニパルは、「[[ブルーローズ]]」のシナリオ題材に使い勝手のある人物です。  人物像については「シュメール語など、当時の古典語に通じていた学識ある帝王」「同時代から最も英明な王と崇拝された」、しかし「好戦的な専制支配者の性質も兼ね備えていた」このあたりを基本として押さえていくといいでしょう。「シュメールなど、バビロニア地方の古い文化を尊重していた」を加えてもいいでしょう。  古代[[シャドウ・ウォーズ]]など、歴史ロマンをシナリオの背景に想定する場合は、基本の人物像を踏まえたうえで、もう少しアレンヂしていく余地もありそうです。  印象論になりますが、アッシュル・バニパルは確かに優秀な人物だったと思えますが、どうも危なげな一面も持っていたようにも思えます。  「同時代から最も英明な王と崇拝された」を、帝王に対するオベンチャラもあるとして、話半分に聞くとすると、「古典語に通じていたことを自ら誇った」ってあたり、少し奇矯な性格だった気がします。あくまでフィクション設定上の話ですが、例えばアッシュル・バニパルを過保護で育てられたエリートお坊ちゃんで、慎重さにかけるところもあるイケイケの性格、と想定することもできるでしょう。  この件は、記録の乏しいアッシュル・バニパルの統治晩年をどう解釈するか、とも連動します。  統治の晩年が比較的平穏だった、とすると、彼の死後18年間で滅びたアッシリア滅亡の経緯が謎めいてきます。統治晩年を内紛期と想定すると、アッシリアの滅亡も自然の流れと思えてきます。で、内紛があったとするなら、それを招いたかなりの責任はアッシュル・バニパルの強気の施政方針にあった、とも考えられます。 (アッシュル・バニパルの施政方針は、バビロニアに対しては融和的でしたが、周辺異民族に対しては、強気すぎたきらいがあります)  もちろん「[[ブルーローズ]]」では、あくまでアッシュル・バニパルを英明な王と想定し、統治晩年も平穏、アッシリア滅亡には、古代シャドウ・ウォーズに関わる陰謀があった、とすることもできます。 //別称類 !!関連遺物など :[[アッシュル・バニパル文庫]] アッシュル・バニパルぶんこ(ニネヴェの図書館): [[ニネヴェ遺跡]]出土の粘土板文書の内、[[アッシリア帝国]]の帝王、アッシュル・バニパルが収集した古文書コレクションを指す総称。19世紀に発掘された。 :: 「[[ニネヴェの図書館]]」、「アッシュル・バニパルの図書館」などと呼ばれることもあるが、粘土板文書のコレクションを指す呼称としては「[[アッシュル・バニパル文庫]]」が相応しい。 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] //関連事項 !!資料リンク *[[Ashurbanipal|http://en.wikipedia.org/wiki/Ashurbanipal]]([[WIKIPEDIA The Free Encyclopedeia(英文版)|http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page]]){{br}}'''注''' リンク先の英文ページにある写真(2006年4月現在)は、アッシュル・バニパルの彫像ではなく[[アッシュル・ナツィルパル2世]]の彫像であるようです。 !活用や検討 !!活用 ---- !!検討 *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで) ---- :エサルハッドンの死に関して: 「アッシュル・バニパルが、父[[エサルハッドン]]のエジプト遠征に同行した際に陣中で父が死亡」との記述を一旦削除しました。{{br}} 出典が確認できれば、その信頼度に応じて「[[〜との説もある|諸説ある]]」なり「[[定かでないが〜|定かでない]]」などの表現で復活させたいと思います。(2006年4月11日) ----