{{toc}} !イングランド王国略史 !PCが予め知ってていい情報  「[[イングランド王国]]」は、9世紀にいわゆる「アングロ・サクソン[[7王国]]」が、[[ウェセックス王国]]に統合されて成立した王国。  [[連合王国(United Kigdom)|U.K.(連合王国)]]の統合を主導した。 !追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12」 ::'''詳しい情報''' より詳しく歴史を見るなら、[[U.K.(連合王国)]]の統合中心としてイングランド王国の体制が整ったのは、下って15世紀以降のことになる。それ以前のイングランド王国は、[[ノルマン朝]]以来、王朝が大陸側にも有していた領域の一構成部分でしかなかった。 :: [[百年戦争]](14〜15世紀)と、[[バラ戦争]](15世紀)を経て、歴代王朝が大陸に有していた所領は概ね失われた。逆説的に、大陸出身の高位貴族たちの[[イングランド]]土着化、及び、土着しきれなかった貴族たちの没落がもたらされた。同時に、王権もイングランドを中心にした政策を優先する体制に移行した。 :: 具体的には、[[テュダー朝]]以降のイングランド王国が、統治中枢(王朝)と国家(王国)とが統合された体制になる。歴史的には、この体制が連合王国統合の主動力となった。 :: テュダー朝以降も、例えば王族の婚姻などを理由に、イングランド王国が大陸の政治に関与することはあった。しかし、テュダー朝以前の王朝は、スコットランド政策、アイルランド政策のいずれも、対フランス政策、対教皇庁政策との絡みで、思い切った選択を採れずにいた。 !GM向け参考情報 !!イングランド王国略年表 !!!イングランド王国前史  「アングロ・サクソン時代」とも。かつては「[[7王国時代]]」とも呼ばれたが、これは時代区分としては用いられなくなって来ている。 '''5世紀''' ::410年 西ローマの[[ホノリウス帝]]、[[属州ブリタニア]]の放棄を決定。進駐ローマ軍撤収(大陸側でのゲルマン諸族対策に転戦){{br}}⇔ [[ブリタニア略史]] ::449年 この年から、[[アングロ・サクソン]]諸部族の[[ブリテン島]]侵出が本格化、と伝えられる。 :: 以降、先住のケルト系[[ブリトン人]]と、アングロ・サクソンとの交戦が断続。アンフロ・サクソンが優勢になり、ケルト系集団を辺境部に追いやっていく。ただし、都市部でローマ化していたブリトン人や、都市部に残留したローマ臣民は、概ねアングロ・サクソンたちに融和していった。 '''6世紀''' :: 6世紀末頃、この頃までに、アングロ・サクソン勢は、イングランド地域で支配的になる。当初、後の諸王国の原型となる部族国家は20ほどあり、これらが9世紀にかけて、いわゆる7王国に統合されていくことに。 :: イングランドでは、まず[[ケント王国]]が優勢になったが、次に[[マーシア王国]]がイングランドの覇権を獲得する間際まで行った。しかし、[[ヴァイキング]]([[デーン人]])の来寇が激しくなり、イングランド諸王国は打撃を受ける。 ---- ::597年 [[ベネディクト会]]の[[アウグスティヌス]]、教皇[[グレゴリウス1世]]の命で、布教のため[[ケント王国]]の[[カンタベリー]]に渡来。ケント王[[エグゼベルト]]受洗。 '''7世紀''' ::664年 ウィットピの教会会議。ローマン・カソリック教義が公認され、アイルランド系修道会の教義は否認された。{{br}} 以降、イングランド地域では、南部から教区制度が整えられていく。 ::  早ければ、7世紀末頃『[[ベオルフ]]』の文書化成立。 '''8世紀''' :: 8世紀半ば頃から、デーン人による[[ブリテン島]]、[[アイルランド島]]襲撃が活発化。 ---- ::773年頃 [[尊者ベーダ]]が、『[[イングランド人の教会史]]』を著した、と伝えられる。 '''9世紀''' :: 遅くとも9世紀までには、イングランド地域は、7王国が割拠する状態になっていた。 ---- ::802年 [[エグバート]]、ウェセックス王位に就任。この頃から[[ウェセックス王国]]台頭。 :: 9世紀中葉、ケルト系首長のロードリ、[[ウェールズ]]地域で勢力盛んに。{{br}} 9世紀中葉、ブリテン島北部で、[[ダルダリア王国]]の[[ケニス王]]が、[[スコット人]]と[[ピクト]]人とを統合。 ::871年 [[アルフレッド(大王)]]、ウェセックス王位に就任。{{br}} アルフレッド王は、イングランド北東地域のデーン人勢力と講和。[[デーン・ロウ地域]]が成立。アルフレッド王は、デーン・ロウと相互不可侵協定を結ぶと、イングランド地域への影響力を強めた。 '''10世紀''' ::901年 ウェセックス王アルフレッド死没。{{br}} アルフレッド王の後継者たちは、デーン・ロウ地域への支配力を回復していく。 !!!初期イングランド王国時代(ウェセックス朝時代) '''10世紀''' :: 10世紀後半頃、[[ウェセックス朝]]イングランド王国の統一達成。 ---- ::980年 この頃から新たなデーン人の襲撃が、ブリテン島、アイルランド島に及ぶ。 ::987年 フランスで[[カペー朝]]成立。 !!!デーン人王朝時代 '''11世紀''' ::1016年 デーン人の族王[[カヌート|カヌート(大王)]]、イングランドを征服。イングランド王として即位(在位、〜1035年)。後世「[[北海帝国]]」と呼ばれる広域を支配。 ::1042年 [[ノルマンディー]]に亡命していたウェセックス朝のエドワード帰還。イングランド王位に就任([[エドワード懺悔王]]、在位、〜1066年)しウェセックス朝を復興。{{br}} この頃、ケルト系首長のグリフィズ、ウェールズ地域で勢力盛んに。 !!!ノルマン朝時代 '''11世紀''' :: 11世紀の頃までに、ウェールズ地方は。北部のグウィネッズ、中部のポウィス、南部のハイバースに勢力圏が分化。それぞれが公国を称すようになる。 ---- ::1066年 「[[ノルマン・コンクウェスト]]」{{br}} 同年のエドワード懺悔王の死没後、後継問題でイングランドは混乱。ウェセックス公ハロルドの即位に、ノルウェー王ハーラルと[[ノルマンディー公ギョーム]]とが相次ぎ出兵。最終的には、ギョームが[[ウィリアム1世(征服王)]]としてイングランド王位に就任(在位、〜1087年)。[[ノルマン朝]]成立。 ::1086年 ウィリアム1世、[[ソールズベリ]]に諸候を集め、直接受封者以外からも臣従の誓いを受ける(ソールズベリの誓い)。{{br}} ウィリアム1世、国土の検地を命じ、調査結果を『[[ドゥームズ・デイ=ブック]]』にまとめさせる。 ::1087年 ウィリアム1世が死没すると、息子たちが兄弟で争いあうようになる。ウィリアム1世の3男ルーファズが、[[ウィリアム2世(赤顔王)]]としていち早く王位に就任(在位、〜1100年)。 ::1091年 イングランドの混乱に乗じるように。スコットランドの[[マルカム1世]]、イングランドに侵攻。ウィリアム2世はこれを破って臣従の礼を採らせる。 ::1096年 [[第1回十字軍]]遠征進発(〜1099年)。ウィリアム1世の長男、ノルマンディー公ロベール参加。 ::1100年 ウィリアム2世、狩猟中に事故死。王位は、ウィリアム1世の4男ヘンリーが、諸候の指示を受け、[[ヘンリー1世]]として継承(在位、〜1135年)。諸候には反対も多かっため、戴冠憲章を発布。 '''12世紀''' ::1106年 ヘンリー1世、タンブレの戦いで、長兄ロベールを捕える。以降、イングランド国王と、ノルマンディー公国の支配者も兼ねることに。 //1107年 ロンドン政教条約。 ::1135年 ヘンリー1世の死後、後継者に指名されていた娘の[[マティルダ]](アンジュー伯夫人)が女王位に就こうとしたが、従兄妹のスティーブン(ヘンリー1世の妹の子)も王位を唱え(在位、〜1154年)イングランドは、事実上の内戦状態に。(スティーブンの乱、〜1153年) ::1147年 [[第2回十字軍]]遠征進発(〜1149年)。 ::1153年 国王スティーブンとマティルダとの間で、次期王位をマティルダの息子アンリが継承することで和議成立。 !!!アンジュー朝時代(プランタジネット朝時代) '''12世紀''' ::1154年 スティーブンが死没すると、アンジュー伯アンリ(マティルダの息子)が、[[ヘンリー2世]]としてイングランド王位に就く(在位、〜1189年)。 //1155年 ヘンリー2世に「ハドリアヌス教書」付与さる。{{br}} ヘンリー2世、アイルランドのダブリンへ入城。 ::1186年 アキテーヌ公になっていたリチャード、父、ヘンリー2世に謀反。 ::1189年 ヘンリー2世が死没。アキテーヌ公リチャード、[[リチャード1世]]として王位に就く(在位、〜1199年)。しかし、間も無く[[第3回十字軍]]遠征に参加(〜1192年)。{{br}} 王国の国政は、王母[[エレアノール]]が中心に執り仕切ることに。 //11??年 フランス王フィリップ2世が、リチャード1世の王弟ジョンと結託。アンジュー家領を侵略。 //1192年 リチャード1世、シリア・パレスティナからの帰路途上で、オーストリア公[[レオポルト5世]]の捕虜になり幽閉される。後、リチャードの身柄は、[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[ハインリヒ6世]]の手に渡る。 1194年 イングランドが莫大な身の代金を支払い、リチャード1世解放。 //解放後、ジョンを破り、王位を回復。 ::1199年 アテキーヌ公領シュリュでフランス軍と交戦中にリチャード1世戦死。{{br}} ヘンリー1世の末子、ジョン、イングランド王位に([[ジョン(失地王)]]、在位、〜1216年)。 '''13世紀''' ::1203年 リチャード1世が後継者に指名していたアーサーが、ジョン派に暗殺される。これをきっかけに、大陸側でフランス王家と交戦状態に。1214年までには、アンジュー家の大陸所領は失われることに。 ::1208年〜1213年 ジョン王、ローマ教皇[[インノケンティウス3世]]と政争。 ::1215年 ジョン王、「大憲章([[マグナ・カルタ]])」に署名。{{br}} ただし、この時は数ヵ月でマグナ・カルタ破棄が宣言された。これを不満とする貴族たちが反乱に踏み切る。 ::1216年 ジョン王病死。 ::1217年 ジョン王の息子、ヘンリー、有力諸候に擁立され、[[ヘンリー3世]]として王位に就く(在位、〜1272年)。 ::1229年 ヘンリー3世、アンジュー家の大陸所領を回復すべく出兵。 ::1242年 ヘンリー3世、アンジュー家の大陸所領を回復すべく再出兵。 ::1258年 レスター伯[[シモン・ド・モンフォール]]、貴族や聖職者を伴い反乱。{{br}} この頃、ウェールズでグゥイネッズ公[[ノウェリン・アプ・グリフィズ]]が支配的になり「ウェールズ大公」と称す。グリフィズは、シモン・ド・モンフォールと同盟関係を結ぶ。 ::1259年 ヘンリー3世、反乱軍と「オックスフォード条款」締結。 ::1262年 ヘンリー3世、「オックスフォード条款」破棄を宣言し、モンフォールを追放。{{br}} 後、ヘンリー3世は、モンフォール派とのルイースの戦で捕虜になる。 ::1265年 「オックスフォード条款」に基づき「シモンド・モンフォールの議会」開催。ヘンリー3世、議会で、「オックスフォード条款」と「マグナ・カルタ」とを正式承認。{{br}} 同年、国王軍と改革派諸候とのイプシャームの戦い。 ::1266年 シモン・ド・モンフォール戦死。 ::1267年 この頃、ヘンリー3世、グウィネッズのグリフィズに、ウェールズ大公の称号を公認。 ::1272年 ヘンリー3世死没。当時、シリア・パレスティナに遠征していたヘンリー3世の長男エドワード、諸候から国王に推挙される。 ::1273年 帰国したエドワード、[[エドワード1世]]として、王位に就く(在位、1272年〜1307年)。 ::1277年 ウェールズ大公グリフィズの弟[[ダフィズ]]がエドワード1世に反乱。エドワード1世、ウェールズ地域に侵攻(〜1284年)。 ::1282年 この年、ウェールズ大公グリフィズ、弟ダフィズの反乱に参加するも戦死。後に、「ウェールズ最後の王」とあだ名されるようになる。{{br}} ダフィズ、は[[カンブリア山脈]]の山岳地帯に逃れ、ウェールズ大公を称す。 ::1283年 ダフィズ、エドワード1世の策略で捕えられ、処刑される。 ::1291年 エドワード1世、スコットランド勢と交戦(〜1307年)。 ::1295年 [[模範議会]]招集。 ::1301年 エドワード1世の息子、エドワード、[[プリン・オブ・ウェールズ]]として立太子。{{br}} 以降、イングランド王太子が、プリンス・オブ・ウェールズと称す慣習が定着。 '''14世紀''' ::1307年 エドワード1世、[[スコットランド]]遠征の途上、病死。王太子エドワードが、エドワード2世として王位に就く(在位、〜1327年)。{{br}} エドワード2世には治世中、失政が多く、貴族による議会の権限が強まった。 ::1309年 ローマ教皇の[[アヴィニョン補囚]](〜1376年)。 ::1313年 イングランド兵団、スコットランド地域から撤収。この年までに、エドワード1世のイングランド軍は、スコットランドで敗戦を重ねていた。 ::1323年 スコットランドの[[ロバート1世]]が教皇庁から受けていた破門が解除された。ロバート1世のスコットランド王位も公認された。 ::1326年 エドワード2世の王妃[[イザベラ・オブ・フランス]](フランス王、[[フィリップ4世]]の娘)と、その愛人、マーチ伯[[ロジャー・ド・モーティマー]]らの軍勢が、王子エドワードを擁し[[ロンドン]]に侵攻。エドワード2世は逃亡。 ::1327年 エドワード2世廃位。[[エドワード3世]]、15歳で王母イザベラとマーチ伯モーティマーの摂政の元に即位(在位、〜1377年){{br}} イザベラとモーティマーの摂政は、1330年まで続いた。 ::1328年 [[フィリップ6世]]、[[カペー朝]]の跡を継ぎフランス王位に就く。 ::1337年 エドワード3世、フィリップ6世に対し、フランス王位を主張。フィリップ6世は[[スコットランド王国]]と呼応し、アンジュー家のアキテーヌ領を没収。エドワード3世が宣戦を布告。いわゆる[[百年戦争]]開幕(〜1453年)。 ::1346年 大陸でペスト大流行。 ::1348年 ブリテン島でペスト大流行。 ::1360年 エドワード3世、フィリップ6世と講和(ブルターニュ=カレー和議)。{{br}} しかし、その後もアンジュー朝は、フランス国内の勢力争いに巻き込まれ関与を続け、結局は、ほとんどの大陸所領を失うことに。 ::1367年 [[エドワード黒太子]]のイスパニア遠征。 ::1375年 エドワード3世、フィリップ6世と再講和(ブルースの和議)。 ::1376年 エドワード黒太子死没。その息子、リチャードがコーンウォール公に叙され、皇太子に指名される。 ::1377年 エドワード3世、死没。[[リチャード2世]]、10歳で即位(在位、〜1399年) ::1381年 [[ワット・タイラーの乱]] ::1378年 教皇庁の大分裂([[シスマ]])はじまる(〜1417年)。 ::1383年 リチャード2世、親政を開始。 ::1398年 リチャード2世、従兄弟であるヘンリー・ボリングブロクのランカスター公領を没収。ヘンリーは国外追放に処された。 ::1399年 イングランドに上陸したヘンリー・ボリングブロクに、リチャード2世の専横に不満を抱いていた貴族らが同調。リチャード2世は、アイルランド遠征からの帰路途上を襲撃され捕えられた。ロンドン塔に幽閉され、廃異が議会で決せられた。 !!!ランカスター朝時代 '''14世紀''' ::1399年 ヘンリー・ボリングブロク、[[ヘンリー4世]]として即位(在位、〜1413年)。[[ランカスター朝]]成立。 '''15世紀''' ::1413年 ヘンリー4世病没。同年、息子、[[ヘンリー5世]]即位(在位、〜1422年)。{{br}} ヘンリー5世は、即位後、ただちに積極的な大陸政策を実行。フランス国内での、ブルゴーニュ派とアルマニャック派との内紛に乗じて出兵した。 ::1417年 教皇庁の大分裂([[シスマ]])止む。 ::1420年 ヘンリー5世、フランス王女[[キャサリン|キャサリン・オブ・フランス]](カテリーヌ)と婚姻。トロヤ条約を締結し、ヘンリー5世の子孫にフランス王位継承権を獲得。 ::1422年 ヘンリー5世、急死。息子、ヘンリー、[[ヘンリー6世]]として生後9ヵ月で王位を継承(在位、〜1461年)。{{br}} ヘンリー6世は、一時フランス王位も兼ねたが、精神に障害を持っていたと思われ、政治の実権は有力諸候や王妃らに委ねられ続けた。 ::1453年 百年戦争、イングランド勢の敗退で終結。{{br}} 同年、[[東ローマ帝国]]滅亡。 ::1455年 [[ヨーク公リチャード]]、ヘンリー6世のランカスター朝に反乱。いわゆる[[バラ戦争]]はじまる(〜1485年)。{{br}} いわゆるバラ戦争を通じ、ノルマン朝以来の有力貴族の勢力が衰えていった。後のテュダー朝時代に、名門貴族と地方貴族との勢力が交代するが、その条件はバラ戦争で整う。 ::1460年 ヨーク公リチャード、戦死。 ::1461年 ヨーク公リチャードの息子、エドワード、ヘンリー6世を廃位さす。 !!!ヨーク朝時代 '''15世紀''' ::15世紀初頭 ウェールズで大反乱「[[ウェイン・グリンドゥルの乱]]」発生。バラ戦争の混乱が続いていたイングランド王朝は、これの鎮定に10年を要した。 ::1461年 ヨーク公リチャードの息子エドワード、[[エドワード4世]]として即位(在位、〜1483年、ただし、1470年〜1471年に中断期あり)。[[ヨーク朝]]成立。 ::1470年 エドワード4世は、フランス王家と距離を置く姿勢を示し、親フランス派だったはウォーリック伯[[リチャード・ネヴィル]]と対立。リチャード・ネヴィルは、ランカスター派の貴族と計って謀反。ランカスター朝のヘンリー6世が復位される。{{br}} 追放されたエドワード4世は、ネーデルラント(オランダ)に逃れたが、弟、[[グロスター公リチャード]]と計り反撃に転じる。 ::1471年 エドワード4世ら、ウォーリック伯とランカスター派を破って復位。ヘンリー6世は廃位される。 ::1483年 エドワード4世、フランス出兵の準備中に急死。息子、エドワードが、[[エドワード5世]]として12歳で即位。ところが、戴冠式挙行前に、父方の叔父で摂政のグロースター公リチャードが、母方の叔父でエドワードの側近だったリヴァース伯アンソニー・ウッドヴィルを逮捕し処刑。その後、エドワード5世は弟ヨーク公リチャードとともにロンドン塔に幽閉された。{{br}} 議会はエドワード5世の王位継承権の無効とグロスター公リチャードの王位継承を議決した。エドワード5世の在位期間は2ヵ月ほどだった。{{br}} グロスター公リチャード、[[リチャード3世]]として即位(在位、〜1485年)。 ::1485年 ランカスター家の流れを汲むリッチモンド伯ヘンリー・テュダーが、亡命先のフランスから軍勢を率い侵攻。迎え撃ったリチャード3世は戦死(ボズワースの戦い)。{{br}} この戦いをもってバラ戦争が終結した、とされる。 !!!テュダー朝時代 '''15世紀''' ::1485年 リッチモンド伯ヘンリー、[[ヘンリー7世]]として即位(在位、〜1509年)。[[テュダー朝]]成立。{{br}} 1407年にヘンリー4世が、嫡出子を含め王位継承権を認めない旨、宣言していた。末流であるヘンリー・テュダーも継承権はなく、王位を簒奪したことになる。これを理由に、ヘンリー7世の着位直後から、王位を称する者が多かった。 ::1486年 ヘンリー7世、ヨーク家のエリザベスと婚姻。 ::1487年 王室付き[[星庁室]]創設。 '''16世紀''' ::1509年 ヘンリー7世、病死。次男ヘンリー、ヘンリー8世として即位(在位、〜1547年)。 ::1533年 ヘンリー8世、王妃キャサリンを離別(聖職者に結婚無効を宣言させる)し、[[アン・ブーリン]]と婚姻。{{br}} 同年、教皇[[クレメンス7世]]、キャサリンとの結婚無効取り消しとアン・ブーリンとの結婚無効とを宣言。イングランド議会で、教皇庁への上告を禁止する法、聖職者が就任後の初収入を税として教皇庁に納めることを禁止する法が制定される。 ::1534年 国王至上法(首長令)制定。イングランド国教会創建。 ::1536年 小修道院解散法制定。{{br}} 同年、ウェールズがイングランドに併合される。{{br}} アイルランド、イングランド国教会を受け入れさせられる。 ::1539年 大修道院解散法制定。6ヶ条公布。 ::1542年 この年から、ヘンリー8世、アイルランド王も自称するようになる。 ::1547年 ヘンリー8世、死没。息子エドワードが、9歳で[[エドワード6世]]として即位(在位、〜1553年)。 ::1549年 礼拝統一法制定。 ::1553年 エドワード6世、15歳で病没。{{br}} 同年7月、ノーサンバランド公、ヘンリー7世の孫、[[ジェーン・グレイ]]を第4代にあたる女王として擁立。しかし、前後してノーフォーク公に擁立されたヘンリー8世の王女、メアリーが即位。結局、[[メアリー1世]](在位、〜1558年)が、イングランド女王位を獲得し、アイルランド女王も宣した。ジェーン・グレイは処刑され、後世「9日間の女王」と呼ばれるようになる。実際の在位期間は9日間とも2週間とも言われる。{{br}} 熱心なカソリック信徒だったメアリー1世は、王国のカソリック復興を断行。国教会派を含むプロテスタントは弾圧され、女王は“[[ブラッディー・メアリー]](血塗れのメアリー)”と呼ばれるようになる。 ::1553年 メアリー1世、カソリックの強国イスパニアの皇太子フェリペと婚約。これに反対し、ケントで反乱が起きたが鎮圧される。 ::1554年 メアリー1世、フェリペと成婚。これ以降、イングランドは、当時戦われていたフランスとイスパニアとの戦争に関与していく。 ::1556年 フェリペ、イスパニアに帰国し、イスパニア国王[[フェリペ2世]]として即位。 ::1558年 メアリー1世、急死。同年、フランスとイスパニアとの戦争で、イングランド最後の大陸領だった[[カレー]]が失われる。{{br}} 同年11月[[エリザベス1世]]、即位(在位、〜1603年)。 ::1559年 第2次国王至上法制定。第2次礼拝統一法制定。 ::1568年 エリザベス1世の異母姉で、スコットランド女王だった[[メアリー・ステュアート]]、スコットランドで反対派貴族に捕えられ、息子への譲位を強いられた後、イングランドに亡命。イングランドのカソリック派貴族に、メアリー・ステュアート擁立の動きもあり、エリザベス1世は、メアリーを軟禁することに。 ::1570年 エリザベス1世、教皇庁から破門さる。 ::1571年 [[レパントの海戦]]にて、オスマン・トルコ軍敗退。 ::1581年 ネーデルラント北部7州、イスパニアからの独立を宣言。エリザベス1世はこれを支援。 ::1584年 北アメリカで、[[ウォールター・ローリー]]が[[ヴァージニア]]に到達。 ::1587年 エリザベス1世、軟禁していたスコットランド女王メアリー・ステュアートの処刑を命ず。謀反の証拠があったため、と伝えられている。 ::1588年 イスパニアのフェリペ2世、イングランドのネーデルラント革命支援と、女王特許の私掠船による、イスパニア商船襲撃とを理由にアルマダ(無敵艦隊)を侵攻させる。イングランド艦隊、これを撃退。 ::1595年(〜1603年) アイルランドで、[[オニールの乱]]。 ::1600年 イングランドの東インド会社設立。 '''17世紀''' ::1601年 度重なる戦費の捻出のよる財政危機で、議会がエリザベス1世を強硬に非難。女王はこれにいわゆる「黄金演説」で応じ、非難を緩和した。 !!!ステュアート朝時代 '''17世紀''' ::1603年 エリザベス1世死没。未婚だった女王の遺言で、王位は、当時スコットランド王だった、ジェイムズ6世(メアリー・ステュアートの息子)が継承。[[ステュアート朝成立]]。{{br}} [[ジェイムズ6世]]、イングランド王ジェイムズ1世として即位、アイルランド王も兼ねることに(在位、〜1625年)。以降、イングランド王国とスコットランド王国は、同君連合の体制に。 //1603年 同年、ネーデルラントの東インド会社設立。 ::1604年 ハンプトン・コート会議。イングランドの代表的聖職者を招いた会議の席上、ジェイムズ1世はカソリックと清教徒の両極を排除することを宣言した。これにより、カソリックと清教徒の両方から反感を買うことになる。 ::1605年 カソリック教徒による、国王、重臣らを狙った爆弾テロ未遂(火薬陰謀事件)発覚。 ::1607年 北アメリカで、イングランド系開拓団、[[ジェイムズ・タウン]]を建設。 ::1608年 北アメリカで、フランス系開拓団、[[ケベック]]に入植。 ::1611年 国教会欽定訳聖書刊行。{{br}} 同年、[[ムガール帝国]]が、イングランド商館の設置を承認。{{br}} この頃、イングランドから[[アルスター]]地方(アイルランド北部)への植民本格化。 ::1620年 [[ピルグリム・ファーザーズ]]、北アメリカに移住。 ::1625年 ジェイムズ1世死没。後継は、ジェイムズ1世の次男、[[チャールズ1世]](在位、〜1649年)。 ::1626年 北アメリカで、ネーデルラント系開拓団が、[[ニュー・アムステルダム]]を建設。 ::1628年 権利請願提出。チャールズ1世は一端これを受託。 ::1629年 チャールズ1世、議会の指導的貴族を投獄したうえで議会を解散。親政を断行(無議会政治、〜1641年)。急進的なプロテスタントである、ピューリタンの弾圧に傾いていく。 ::1637年 この頃からスコットランドで、反国教会活動活発化。反イングランド活動につながっていく。 ::1640年 ジェイムズ1世、スコットランドの反乱を鎮圧するための戦費を求め、議会を招集するも短期間で解散を命ず(短期議会)。直後に、再度議会招集を余儀なくされる(長期議会)。 ::1641年 3年議会法制定。{{br}} 同年、アイルランドで大反乱。 ::1642年 イングランド内乱勃発(後世[[ピューリタン革命]]と呼ばれる)。 ::1645年 イングランドの反乱軍(ピューリタン勢)、騎兵隊を主力にした“ニュー・モデル軍”を組織。第1次内乱の終結。 ::1646年 ジェイムズ1世、スコットランド軍に捕えられる。後、脱出。 ::1648年 イングランドで第2次内乱勃発。残部議会は存続。{{br}} 同年11月、ジェイムズ1世、議会軍に捕えられる。 !!!共和制時代 '''17世紀''' ::1649年 チャールズ1世処刑。イングランドに共和国成立。{{br}} 同年、[[オリヴァー・クロムウェル]]率いる軍勢、アイルランドに侵攻。{{br}} 同年、スコットランド軍と[[ダンバーの戦い]]交戦。 //1651年 ウースターの戦い。 ::1651年 ネーデルラント(オランダ)の中継貿易を制限する航海法制定。{{br}} 第1次ネーデルラント戦争開戦(〜1653年) ::1653年 残部議会解散。権利章典起草。クロムウェルによる護国卿独裁体制に移行(〜1660年)。 ::1658年 オリヴァー・クロムウェル病没。息子、[[リチャード・クロムウェル]]が、護国卿の地位を継承。 ::1659年 リチャード・クロムウェル、護国卿辞任を余儀なくされる(在任、8ヵ月)。 !!!後期ステュアート朝(復興ステュアート朝)時代 '''17世紀''' ::1660年 長老派が、チャールズ1世の息子、チャールズを亡命先から招き、王位を承認し王政復古。イングランド王[[チャールズ2世]]の在位は、1685年まで。{{br}} リチャード・クロムウェル、フランスに亡命。以降名を変え、パリで市井の生活を送る(1712年死没)。 ::1662年 第3次礼拝統一法 ::1664年 北アメリカで、イングランド軍、ニュー・アムステルダムを征服。 ::1665年 第2次ネーデルラント戦争(〜1667年)。フランス軍もネーデルラントに侵攻。{{br}} 同年、ロンドンでペスト大流行。 ::1666年 ロンドン大火。 ::1672年 第3次ネーデルラント戦争(〜1674年)。フランス軍もネーデルラントに侵攻。オラニエ公ウィリアム、ネーデルラント総督に就任。{{br}} 同年、第1次信仰自由宣言公布。 ::1679年 王位継承を巡り、議会が紛糾。トーリー派、ホイッグ派に分かれ、後の政党のルーツとなる。 ::1685年 チャールズ2世死没。後継は王弟だった[[ジェイムズ2世]](在位、〜1689年)。{{br}} 同年、チャールズ2世の庶子モンマス公が王位を求め軍勢を率いて侵攻。 ::1688年 第3次信仰自由宣言公布。議会が、カソリック信徒のジェイムズ2世に反発し、チャールズ2世の孫娘メアリーと、その夫オラニエ公ウィリアムをブリテン島に招聘。{{br}} 無血クーデタ(名誉革命)で、ジェイムズ2世はフランスに亡命。[[メアリー2世]](在位、〜1694年)と、[[ウィリアム3世]](在位、〜1702年)、共同統治者として即位。 ::1689年 仮議会招集。寛容法制定。権利章典成立。{{br}} ジェイムズ2世、フランスに支援されアイルランドを制圧。{{br}} 北アメリカでイングランド系植民地と、カナダのフランス系植民地との戦争([[ウィリアム王戦争]])起きる(〜1697年)。 ::1690年 イングランド軍、アイルランドでの[[ボイン川の戦い]]にてジェイムズ軍を破る。{{br}} 同年、インドでイングランドの東インド会社が、ウィリアム要塞を後の[[カルカッタ]]の地に建設。 ::1693年 イングランド王国に国債制度導入。 ::1694年 メアリー2世、病没。ウィリアム3世、単独王に。{{br}} イングランド銀行創立。 '''18世紀''' ::1702年 ウィリアム3世、事故死(落馬)。後継は、メアリー2世の妹、アン([[アン女王]]、在位、〜1714年)。{{br}} 同年、[[スペイン継承戦争]]本格化(〜1713年)。{{br}} 同年、北アメリカの植民地で[[アン女王戦争]]起きる(〜1713年)。 ::1704年 イングランド艦隊、[[ジブラルタル]]占拠。 ::1707年 イングランド、スコットランド合同。[[グレート・ブリテン連合王国]]成立。{{br}}⇒ [[U.K.略史]] !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]] !!関連項目 !!資料リンク !活用や検討 !!活用 !!検討 *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで) ----