{{toc}} !ウラルトゥ王国略史 !PCが予め知ってていい情報  「[[ウラルトゥ王国]]」は、古代メソポタミアで「ウラルトゥ」と呼ばれた広い意味での[[アルメニア山地]]で、紀元前9世紀、活発に活動。同時期の[[アッシリア帝国]]と敵対した。  王国形成の時期は、現状では未だ定かに整理されていないが、遅くとも、紀元前9世紀の中頃にはには王国の体をなしていた、と目される。紀元前6世紀末に滅亡。 !GM向け参考情報 !!注記 *以下の略年表は、今後、そう遠くない将来の研究で、あちこち修正される可能性もあります。 !!略年表 :B.C.1250年頃: [[アッシリア]]の記録に、[[ウラルトゥ王国]]の前身集団らしき山岳民族が見られるようになる。「ウルアトリ」と記された山岳民族が、当時の[[アルニメア山地]]にてナイリと呼ばれる山岳民族の集団と緩い同盟関係にあったらしい。 :: この頃、すでに[[ヴァン湖]]から[[ウルミエ湖]]にかけてを活動圏にしていたウラルトゥの前身にあたる山岳民族は、[[中アッシリア時代]]に勢力を拡大したアッシリアに従属的になったらしい。 :B.C.860年頃: ウラルトゥはアラムを王に[[ヴァン湖]]湖畔のスグニアに都を置いていた、と伝えられている。 :: アッシリアの[[シャルマネセル3世]]は、遠征軍率いスグニアに侵攻。これを滅ぼした、と伝えられている。 :: この遠征は、[[新アッシリア時代]]先帝国期の、アッシリアの勢力拡大に対抗したシリアの都市国家群の活動を、ウラルトゥが側面支援していたため、とも言われている。 :: アッシリアのスグニア遠征の模様は、[[ニネヴェの遺跡]]の南東に位置していた[[イムグル・エンリルの遺跡]](現在名バラワト)から発掘された青銅製の大扉にレリーフにて描かれている([[ブリティッシュ・ミュージアム]]収蔵)。 :: スグニアの位置は、[[アッシリア]]側の記録から[[ヴァン湖]]南岸のどこかだろう、と推測されているが、現在までのところ未確認。 :: スグニアの滅亡後(翌年?)、遷都されていたウラルトゥの王都に、シャルマネセル3世が再度遠征。この都も遠征軍に滅ぼされた、と伝えれている。 : B.C.840年頃: 時のウラルトゥ王サルドゥリ1世(ルティプの息子)は、[[ヴァン湖]]東岸の現在の[[ヴァン]]市近傍に遷都(トゥシュパ)。以降、ウラルトゥの王国体制が確実に確認されている時代となる。 :B.C.830年頃: サルドゥリ1世の息子イシュプイニ即位(在位、〜B.C.810年)。イシュプイニは、トウシュパを拡充し、多くの城砦を建造あせた。イシュプイニの代に、ウラルトゥ語の楔型文字文書の数量が増えている。 :B.C.810年〜B.C.786年:  イシュプイニの王位を、息子メヌアが継承。 :: ウラルトゥ王国は安定し、トウシュパ周辺の灌漑用水路網が拡充された。 :B.C.786年〜B.C.764年: メヌアの王位を、息子アルギシュティが継承。 :: 王国の勢力圏が拡大され、カフカス山脈([[大カフカス山脈]])の北部にも及んだ。 :B.C.764年: アルギシュティの王位を息子サルドゥリ(2世、在位、〜B.C.735年)。 :: サルドゥリ2世は、アルギシュティの版図拡大政策を継承。平地メソポタミアのシリア北部にも侵出した。この時期までに、広い意味での[[アルメニア山地]]一縁に、ウラルトゥ王国の支配権が確立されていた、と目される。 :B.C.743年: ウルファ近郊にて、[[ティグラト・ピラセル3世]]率いるとアッシリア軍と会戦したウラルトゥ軍は惨敗。平地メソポタミアからの撤収をよぎなくされた。 :B.C.721年〜B.C.705年:[[アッシリア帝国]]で[[サルゴン2世]]が在位。サルゴン2世は、[[アナトリア]]高原の[[フリュギア王国]]を宿敵のように交戦を重ねたが、ウラルトゥ王国とも戦闘を重ねた。 :: 特に、B.C.714年、[[ウルミエ湖]]方面と[[ヴァン湖]]方面とに大遠征軍が送られた、と伝えられている。 :: B.C.713年頃、アッシリアは、[[ザクロス山脈]]中央部に侵攻し、[[メディア]]諸部族の拠点を攻撃している。これ以前に、アッシリアからの圧迫に危機感を持っていた[[メディア]]人の一部族長[[ダイウック]]は、息子をウラルトゥ王国に人質として送り、同盟関係を結んでもいた。 :: フリュギア王国は、B.C.709年頃、ミダス王の代にキンメリア人の[[アナトリア]]侵入に対処するため、サルゴン2世と講和した、と言われている。 :: 一方、ウラルトゥ王国はアッシリア帝国を悩ませ続け、サルゴン2世はウラルトゥを制圧することなく没した。 :B.C.685年: ルサ2世即位(在位、〜B.C.645年)。 :: ルサ2世の即位直後頃から、キンメリア人の南下侵出がはじまったらしい。キンメリア人にやや遅れるように、スキタイ人も南下侵出。 :: ルサ2世の代に、ウラルトゥ王国は王都をトウウシュパから遷都。以降は勢力を弱めつつ存続。 :B.C.590年: ウラルトゥ王国、西進してきた[[メディア]]により征服され滅亡。 !リンク !!関連項目 ⇔「[[ウラルトゥ王国]]」 !活用や検討 !!活用 !!検討 *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで) ----