{{toc}} !フェザーン(地方,高原) (Fezzan) 暫定版 !記事内容追加調査中の暫定版です !PCが予め知ってていい情報  フェザーンは、現[[社会主義人民リビア=アラブ国]]領の南西部を占める沙漠地帯(フェザーン地方)。この地方は、[[キレナイカ]]、[[トリポリタニア]]と共に、リビアの歴史的な3地域の1つ。  西高東低のフェザーン高原は、主に岩山と[[岩沙漠|沙漠]]とを主にした乾燥地帯。東西の傾斜よりは緩いが、南高北低の地勢にもなっている。 ----  2006年現在、社会主義人民リビア=アラブ国では、南部のスーダン、チャド、ニジェール、アルジェリアとの国境地帯への一般外国人の入域は認められていない。無許可で入域した場合、スパイ等の嫌疑をかけられ厳しい処置を科される。  フェザーン地方でも、国境部以外の都市などへの往来は、外国人観光客でも自由。だが、国境近くを訪れるなら、[[ブルーローズ|ブルーローズのメンバーシップ]]であっても[[財団|ローズ考古学財団]]本部を通じた事前の許可獲得が必要になるはずだ。 '''【参照】''' *[[リビア危険情報|http://www.pubanzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=125#header]]([[外務省 海外安全ホームページ]]) '''【参照地図】''' *[[Libya|http://go.hrw.com/atlas/norm_htm/libya.htm]]([[HOLT RINEHART WINSTON WORLD ATLAS]]) !追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「情報+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' フェザーン高原は、主に石灰岩からなり、岩沙漠が多い。石油資源の埋蔵が確認されている。 :: フェザーン地方は、トリポリタニア、キレナイカと共に、第2次大戦後に[[リビア王国]]として独立した。 :: 高地の南縁は、大きな[[ワディ]](涸谷)に縁取られ、ワディの谷底が、リビアと[[アルジェリア|アルジェリア民主人民共和国]]、[[ニジェール|ニジェール共和国]]との国境の1部と重なっている。これらワディの渓谷に臨む高原には、砂沙漠であるマズルーク沙漠が広がり、縁辺部に[[オアシス]]が断続。 :: 高原の西縁にも、大きめのワディが連なり、アルジェリア側の[[タッシリ・ナジェール]]でも、さらに比高が高い東部地域との間が区切られている。 :: 西のワディ地帯の手前、地域の南西部は高原からの比高も高い岩山(当然ワディの谷底からの比高はさらに高くなっている)地帯に、[[ユネスコ世界遺産]]に登録されている[[タドラート・アカクスの岸壁画]]が遺る。 :: 地域の北部、東部は、高原部から続く緩やかな斜面の裾野が、砂沙漠に連なっている。地域南東端で砂沙漠の内に、地域の中心的なオアシス都市[[サブハ]]が位置。 :: 地域には、現在でも遊牧的な部族集団の居住が多い。彼らは、アラブ化した[[ベルベル系|ベルベル人]]の遊牧民だ。 :: 概ね地域の中心に位置する[[クファ・オアシス]]が、沙漠ルートの移動中継点として重要。 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」[表現+知性 目標値12〜14」 ::'''やや詳しい情報''' 「リビア」の地域名は、ギリシア神話に語られる[[リュビエー]]の名に由来する古典ギリシア語。[[ヘレネス]]たちは、エジプトよりも西の地中海沿岸部全域を指す地域名として「リビュエー」を用いていた。 :: ヘレネスたちの伝統的スタンダードでは、世界は円盤状と信じられたので、「エジプトよりも西の地中海沿岸部全域」とは、エジプトより西のアフリカ全域とイメージされた。「アフリカ」の地域名が用いられるようになったのは、古代ローマ時代からのことだし、ローマ帝国の属州アフリカには、フェザーン地方は含まれていなかった。 :: その後「リビュエー」の地域名は長い間用いられず、1934年、ムッソリーニ政権下のイタリアが、トリポリタニアとキレナイカの植民地を統合し、イタリア領リビアを編成。この時まで「リュビエー」の地名は、実社会では用いられない歴史的地域名で古典語だった。 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' 沿岸地方に位置した、キレナイカ、トリポリタニアは、16世紀半ばにオスマン・トルコ帝国の支配下に置かれた。フェザーン地方もすでに、イスラム化とアラブ化して長かったが、1565年にトリポリにオスマン帝国の太守(パシャ)が任命された後でも、フェザーンの遊牧部族はかなりの自律性を保っていた。 :: 1835年、オスマン当局が、それまでの太守制を止め、トリポリに直轄支配を及ぼすようになると、トリポリ以外のリビア各地では反オスマンの機運が高まった。すでに、反オスマン的な活動を続けていたスーフィー的イスラム系新興教団サンスーシは、1880年代に反オスマン活動を活発化。146のロッヂ(支部)をサハラ沙漠一縁に組織すると、教団本部をフェザーン地方のクファ・オアシスに移した。この後、第2代の教団教主、ムハンマド・アル=マハディは、キレナイカの部族も信徒として傘下に収めている。 :: 1912年、第1次バルカン戦争を戦ったオスマン帝国は、当時イタリアと戦っていた戦争を外交決着で講和。トリポリタニアとキレナイカは、それぞれイタリアに植民地統治されることになった。1914年に第1次大戦が始まると、サンスーシ教団は、ドイツの支援を受けて対イタリアへ抵抗戦を激化。イタリアは、1次大戦終戦後の1920年にキレナイカの教団指導者イドリースを、イタリア保護下のキレナイカ王(アミール)に据えざるを得なかった。 :: 1922年、イタリアで政権の座についたムッソリーニは、植民地統治を強化。同年末、イドリースは[[U.K.(連合王国)]]の保護国になっていたエジプトに亡命。しかし、サンスーシ教団は、教団員オマル・ムフタールに率いられ、フェザーンなど南部を拠点に対イタリア抵抗を根強く続けた。 :: オマル・ムフタールは、1931年に捕縛され処刑された。同年キレナイカはイタリアに平定され、前後してフェザーンも征服された。3年後の1934年、トリポリタニア、キレナイカ、フェザーンが統合され、イタリア領リビア発足。 :: 第2次大戦中、フェザーン地方では、イタリア統治に反抗する地元勢力の協力もあって連合国軍の影響力が及んだ。地域は、1942年末から、自由フランス軍の占領統治下に入った(トリポリタニア、キレナイカは、U.K.軍の占領統治下に)。1951年、リビア連邦王国が、イドリースをアミールとして独立。フェザーン地方も、リビア王国の一部となった。1963年、イドリースは中央集権化を図り、連邦制を廃止。 ::1969年、リビアでは無血クーデターが成功し、当時トルコで病気療養中だったイドリースの王位が廃された。このクーデタを指導した軍人、カダフィ大尉(当時27歳)は、フェザーン地方の出身者だった。 '''【参照地図】''' *[[Mid East Maps- Libya|http://www.mideastweb.org/libya.htm]]([[Mid East Web|http://www.mideastweb.org/]]) !GM向け参考情報  沙漠地帯のマスタリングについては、「沙漠」の項の記事、特に「GM向け参考情報」を参照されたし。(⇒ [[沙漠]])  その他、フェザーン特有の参考情報は、現在追加調査中です。 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[ランド・マーク]] !!関連項目 *[[キレナイカ]] *[[トリポリタニア]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Fezzan]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど *2010-03-20 (Sat) 10:23:00 uvlzRWKs : xjQilLwh {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}