{{toc}} !ヨシフ・スターリン 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 :'''ロシア語''':Иосиф Сталин :'''英語''':Joseph Stalin !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  「ヨシフ・スターリン」は、主に20世紀前半に、革命期のロシアと[[ソヴィエト連邦]]で活動した[[グルジア]]出身の政治家。  [[レーニン]]晩年のソ連邦中枢で、権力を集中。ソ連共産党に書記局を設置すると自ら初代書記長に就任。レーニンの死後、その後継者、ソ連邦第2代最高指導者と目され、死後に「独裁的」と批判されたスターリン主義の政治指導を推し進めた。  1950年代前半に死没。スターリンの死後、[[フルシチョフ]]を書記長としたソ連共産党は、[[スターリン批判]]をおこない政治路線を転換した。しかし、現在でも[[北カフカス地方]]の1部などに、スターリンを「(独ソ戦当時の)救国の英雄」として英雄視する人々はいる。 (北カフカス地方には、スターリン時代に集団強制移住の処分を受けた[[チェチェン人]]、[[イングーシ人]]などもいて、彼らの間ではスターリンの評判は極めて悪く「極悪人」などと評されている) !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  ヨシフ・スターリンの本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Iosif Vissarionovich Dzhugashvili)。「スターリン」は、政治的著作で使われたペン・ネームで「鋼鉄の人」の意。  1879年生まれ。1893年、奨学金を得て[[トビリシ]]の神学校へ入学。1896年にマルクス主義のサークルを組織。1898年、グルジア社会民主労働党に入党し、以降、革命を目指す政治的地下活動に従事。1899年、神学校から放校さる。  1902年、逮捕の後シベリア流刑になるが、脱走を繰り返した。  1904年頃には[[ボリシェビキ]](後のソ連共産党中枢になる、国際派共産主義者の政治集団)の立場をとっていた。  1917年のロシア2月革命では、臨時政府に対する条件付支持を提案。しかし、4月に海外から帰国したレーニンの影響力で、スターリンの提案は否認された。その後、レーニンの指導路線への支持を重ね、ボリシェビキで、民族問題人民委員に就任。ただし、グルジア問題の対処法では、レーニンと対立。  ロシア内戦時、故郷グルジアに派遣され、メンシェヴィキ勢力など反革命分子の弾圧を指揮。ポーランド・ソビエト戦争では、南西正面軍の政治委員として、リヴィウの占領に拘泥。赤軍敗北の一因を作ったとされる。  スターリンは、レーニンの晩年からソ連共産党(ボリシェビキ)とソ連政府内で権力を集中していった。共産党政治局員になっていたスターリンは、1922年、ソ連共産党初代書記長となる。  1923年には、ジノーヴィエフ、カーメフらと共闘して[[トロツキー]]らを失脚させる。レーニンは1924年1月に死没。晩年のレーニンとスターリンの間には確執もあり、レーニンは遺言で「無作法なスターリンの罷免」を要求していた。しかし、レーニンの遺言は、共産党中央委員会のメンバーによって伏せられた。  レーニンの死後、スターリンはレーニンの継承者、レーニンのマルクス主義理論の弟子として自己を宣伝。一国社会主義の路線を打ち出す。ジノヴィエフ、ブハーリンなど、批判的だった政治的ライバルを排除しながら、独自の政治路線を進めた。  1936年に制定されたソ連邦憲法は「スターリン憲法」の別称でも呼ばれる。この憲法の制定は、しばしば、スターリンによる独裁的体制確立の目安とみなされている。 ----  スターリンが推し進めた「一国社会主義路線」は、それ以前の国際主義路線の放棄だった。他に、国内の重工業化と農業の集団化を主軸にした5ヵ年計画も推進。  1936年の「スターリン憲法」では、共産党独裁をプロレタリア人民独裁と等しいものとして、国家を党に従属させる一党独裁体制を公式化。これらの政策を推し進めつつ、1936〜1938年には「大粛清」と呼ばれる、党内反対派に対する、見せしめ的政治裁判、強制収容所への収監、処刑を繰り広げた。こうして、スターリンの政治指導は無謬であるとする個人崇拝が形成された。  政治裁判で処刑された大粛清の被害者は数百万人と言われ、強制収容所や農業集団化政策で死亡した人数は、しばしばおよそ2000万人と言われている。(1997年の公文書公開により、少なくとも1260万人ほどが殺されたことを現ロシア政府が公式に認めている。しかし、この数字は被害者の一部で、全ての文書は未だ公開されていない)  第2次世界大戦後の1953年に死没。スターリンの死後、ソ連政府の集団指導体制の主軸を採ったフルシチョフは、1956年のソ連共産党20回大会でスターリン批判をおこなった。この批判は、秘密報告の型でなされたが、スターリン主義の個人崇拝、大粛清、民族政策から、第2次世界大戦時の情勢判断の誤りまでを批判した。  長い間、無謬とされていたスターリンの政治指導を、世界暴力革命の路線から、自由主義経済諸国との平和共存路線へ転換するために必要とされた措置だった、と思われる。しかし、ソ連共産党から秘密裏に「スターリン批判」の報告書を送付された各国共産党は動揺した。報告書の内には、それまで公的には知られていなかった事実や、公式には認められていなかった事実が多かったためだ。  東欧の社会主義諸国でも、西欧諸国の共産党でも、ソ連共産党と連携を採る国際路線から、各党が独自の路線を模索する動きが生じた。東欧諸国での独自路線はソ連政府の介入を招く悲劇にも至ったが、西欧諸国では、ソ連政府と距離を置いたユーロ・コミュニズムの路線が生まれた。  毛沢東時代の中国共産党では、「スターリン批判はソ連1国で処理する問題ではなく、世界共産主義の指導路線の問題」としてフルシチョフ指導のソ連に反発。ソ連側も「スターリン批判はソ連の国内問題」と譲らなかったため、中ソ対立に至った。  1963年〜1964年をピークとした両国の論争で、中国側はマルクス主義で言う帝国主義諸国との戦争不可避論、暴力革命路線の堅持などを唱え、ソ連の平和共存路線を「修正主義」と評した。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  「増補待ち」 !GM向け参考情報 *GM向けの捕捉情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Joseph_Stalin]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイデア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}