{{toc}} !ウラルトゥ王国 ウラルトゥおうこく (Kingdom of Uraltu) !PCが予め知ってていい情報  「ウラルトゥ王国」は、古代メソポタミアで「ウラルトゥ」と呼ばれた広い意味での[[アルメニア山地]]を勢力圏に活動した、山岳民族の古代王国。紀元前9世紀、活発に活動し、同時期の[[アッシリア帝国]]と敵対した。  王国形成の時期は、現状では未だ定かに整理されていないが、遅くとも、紀元前9世紀の中頃にはには王国の体をなしていた、と目される。紀元前6世紀末に滅亡。 !追加情報 :'''小事典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10」、「情報+知性 目標値12」 ::'''やや詳しい情報''' B.C.840年、ウラルトゥ王国のサルドゥリ1世は、 [[ヴァン湖]]湖畔の現在の[[ヴァン]]市近傍に位置したトゥシュパに王都を遷都。 :: サルドゥリ1世以前のウラルトゥ王国の歴史は、主に[[アッシリア]]の記録によるものだが、トゥシュパ遷都以降は、ウラルトゥ独自の楔型文字による当事者の記録が、粘土板文書や磨岩碑文などにみられるようになっている。 :: ウラルトゥ王国の最盛期は、B.C.786年〜B.C.764年に在位したアルギシュティの代から、その息子サルドゥリ2世(在位、B.C.764〜B.C.735年)の代にかけてと目される。アルギシュティは、カフカス山脈([[大カフカス山脈]])の北側も勢力圏に納めた。サルドゥリ2世は、広い意味での[[アルメニア山地]]の東端、現[[イラン=イスラム共和国]]領北西の[[ウルミエ湖]]一縁までの支配権を確立した。今の地域区分に置きかえると、広義の[[ザカフジエ]]地方を支配下に置き、カフカス山脈以北に勢力を広げつつ、平地メソポタミアの北辺への侵出も覗っていた形勢になる。 ---- :'''小事典版推奨判定''':「言語+知性 目標値12」 ::'''詳しい情報''' ウラルトゥ王国の基幹民族はカフカス諸語に属す言語を使い、[[フリ人]]と関係のある集団と目されている。ただし、ウラルトゥ語の前段階が[[フリ語]]なわけではない。両言語は、紀元前3[[千年紀]]には、明確に別言語になっていた、と目すのが主流説になっている。 :: 研究者の内には、フリ語とウラルトゥ語とを、フルリ・ウラルトゥ語族と整理し、現状では、仮説的な北東カフカス語族(ナフ・ダゲスタン語族)と関係づける議論もある。 :: しかし、カフカス諸語の系統関係は、充分に論証されているとは言えず、北東カフカス諸語も、慎重な立場では「ナフ・ダゲスタン『語群』」と呼ばれている。 :: フルリ・ウラルトゥ「語族」も、現時点では仮定的な整理と言わざるを得ず、北東カフカス「語族」との関係付けも、仮説によって仮説を検討する(相互証明する?)と言った、歴史言語学的なアプローチでの古代言語研究に、ままありがちな研究段階にあると言える。 :'''小事典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12」 ::'''詳しい情報''' 紀元前8世紀初頭、最盛期のウラルトゥ王国は、アルメニア山地の南麓、つまり平地メソポタミアの北辺にも侵出するようになり、アッシリア帝国と衝突。B.C.743年、サルドゥリ2世は、ウルファの近郊にて[[ティグラト・ピラセル3世]]の遠征軍と会戦し敗退。シリア地方から撤退することになった。 :: その後、ルサ2世(在位、B.C.685年〜B.C.645年)が王位に就いた直後、北方から[[キンメリア人]]が、次いで[[スキタイ人]]が襲来。ウラルトゥ王国は、王都をトゥシュパから遷都。 :: スキタイ人に追われたキンメリア人が南下し、スキタイ人は追撃してきたとも、当時、キンメリア人はスキタイ人に従属しており、キンメリア人の南下はスキタイ人の先陣だった、とも言われる。あるいは、スキタイ人の追撃を受けたキンメリア人の残存勢力が、カフカス山脈を越えて来たところで従属下に入ったのかもしれない。 :: 版図を縮小した後のウラルトゥ王国は勢力を弱めつつ、[[アナトリア]]高原東部にて存続。B.C.590年、[[メディア]]王国に攻められ、征服されると滅亡した。 ---- :'''小事典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値14」 ::'''専門的知識''' 「ウラルトゥ」は、アッシリア側の呼称であり、当事者たちは「ビアインリ」と自称していたらしい。一説に、このビアインリが、[[ヴァン湖]]の地名の遠い語源だ、とも言われる。 !GM向け参考情報 !!用途  古代ウラルトゥ王国は、[[ブルーローズ]]のシナリオ・ネタとして具だくさんで、とても使い手のある題材です。  ヒッタイト帝国滅亡後の[[アルメニア山地]]を拠点に、[[アッシリア帝国]]と張り合い、[[スキタイ人]]と交戦し、最後は[[メディア]]王国に滅ぼされたという派手さ。  最盛期は、現在のトルコからイランにかけて、広い意味での[[ザカフジエ]]地方全域を支配下に治め、それだけでなく[[北カフカス]]にちょっかいを出したこともあれば、シリア北部に侵出していた時期もある。  現在の[[シームレス・ワールド]]でも、大変にきな臭い地域です。冒険の題材には困らないけれど、うまくさじ加減を計ってシナリオ・メイクしないとヘヴィーなシナリオになり易いのが難点という地域でもあります。  そこで、ウラルトゥ王国の料理法ですが。  現存するどの国家勢力や民族集団とも、直接の系譜関係はないとこがミソです。  題材に使うときは、きな臭い情勢を背景で扱いながら、PCの冒険との間にはクッションを挟むような料理法がお勧めです。 (ウラルトゥ王国の勢力をアルメニア民族の前身と主張する説も唱えられているようですが、これはウラルトゥ語やフリ語について未解明だった時代に唱えられた歴史ロマンが残存した説で、現在は否認されいます。もっとも、「ウラルトゥ=前アルメニア人説」を唱えるトンドモ系NPCを出してく料理法もありますね)  はたまた、ウラルトゥと[[フリ人]]との関連を古代史ミステリーに仕立てる料理法もあるでしょう。やや歴史マニアックになるかもしれませんが。  もちろん、[[アララト山]]と「箱船伝説」とを絡める料理法も有望です。  ユダヤ教聖典(『旧約』)の「ノアの箱船」説話の原型が、シュメール神話にまで溯る、との定説は、[[ルールブック]]の[[限定情報]]にも記されています(第31章)が、箱船伝承の言わばミッシング・リンクのような位置にウラルトゥ王国を想定してもいいですし。過去、アララト山で箱船の遺跡発見の報が何度も報じられても確証が得られずにいるのは、実はウラルトゥ絡みで箱船を封印する亜空間のようなものが設けられているからだなんて料理もあります。  例えば、封印の亜空間に出入りするのに必要な[[オーパーツ]]を、ウラルトゥ系の遺物にしてもいいでしょう。  これだけ、具だくさん(笑)なのに、長い間存在が忘れられていた古代国家で、現在も解明のための研究が進んでいる途上、ってとこも美味しい題材です。  きっと、ほかにも様々な料理法を工夫できることでしょう。  具だくさんな題材なので、料理法に工夫をするか、あえて数回のショート・キャンペーンを仕組むかには注意しましょう。 !!GM向けの詳しい情報  以下の情報は、シナリオの題材などに応じて取捨選択するといいでしょう。  判定は、「歴史+知性」の場合で最低でも目標値14以上を推奨します。(もちろん関連した手がかりがあれば、目標値を修正することもできるでしょう) ----  アッシリアの記録に、ウラルトゥ王国の前身集団らしき山岳民族が見られるようになる時期は、古い。B.C.1250年頃のアッシリアに「ウルアトリ」と記された、山岳民族の記録がみられる。この時期の記録によれば、当時の[[アルニメア山地]]には、ナイリと呼ばれる山岳民族の集団もあり、ウルアトリとナイリは緩い同盟関係にあったかのように記録されている。おそらく、この時期、後のウラルトゥ王国の前身にあたる集団は、部族連合に至る前段階のような関係で、複数の部族集団が交流しながら活動していた、と推測する意見は少なくない。  B.C.1250年頃は、それまで強盛んを誇っていた[[ミタンニ]]の後裔勢力、[[ハニガルバド]]がいよいよ衰滅に向かい、[[中アッシリア]]が支配圏を拡大した時期である。この頃、すでに[[ヴァン湖]]から[[ウルミエ湖]]にかけてを活動圏にしていたウラルトゥ系の山岳民族が、アッシリアに従属的になったらしいことも記録で知られる。あるいは、この外圧により、ウラルトゥ側の部族連合化が進んだかもしれないが、定かではない。  ウラルトゥ王国が確実に国家体制を築いていたと判断されるのは、現在の研究段階では遅くともB.C.840年頃(サルドゥリ1世による遷都)とされている。しかし、それ以前に諸部族が政治統合を果たした概算は高い。現時点ではその時期を特定する手がかりが乏しいだけの話である。  記録によれば、[[新アッシリア時代]]帝国確立期に[[シャルルマネセル3世]]の代、ウラルトゥはアラムを王にヴァン湖湖畔のスグニアに都を置いていた、と言う。この王都は、B.C.858年、アッシリアの遠征軍により滅亡した、と伝えられている。すでにこの時期のウラルトゥが王国の体制を築いていた可能性は高い。しかし、王都の位置が未確認なため、考古学的な確証は得られていない。  ウラルトゥ王国は、ヴァン湖周辺に灌漑水路を設け農耕地を開拓した。  土木技術に卓越し、各所に要塞を建造した、と言われる。[[ヴァン]]市近傍では、灌漑水路や建造物の痕跡が知られるばかりだが、例えば、[[ドウバヤズィト]]に遺る城砦遺跡は、ウラルトゥ王国が築いた建造物が、後代、改築と再利用を重ねられた物、と言われている。  [[ヴァン湖]]周辺で、現在も用いられている伝統的灌漑水路も、ウラルトゥ王国が敷設したものが後代の補修を受けながら現在まで継承利用されたものだ、と言われる。  金属工芸技術に優れ、装身具、武具、などで、スキタイのスタイルを採り入れたもの、アッシリアのスタイルを採り入れたもの、独自のスタイルを示しているものなどが知られている。青銅製大釜なども有名。  他に、赤色研磨土器、神像などで独自のスタイルを示す工芸品を遺している。 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]] !!関連項目 ⇒ [[ウラルトゥ王国略史]] !!資料リンク *[[ウラルトゥ|http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5]] *[[ウラルトゥ語|http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E8%AA%9E]] **([[ウィキペディア|http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8]]) *「[[トルコ ウラルトゥ王国の灌漑水路|http://www.maff.go.jp/nouson/sekkei/kaigai/facilities/a_turkey1.html]]」([[農林水産省サイト|http://www.maff.go.jp/index.html]]の[[世界の灌漑|http://www.maff.go.jp/nouson/sekkei/kaigai/facilities/a_top.html]]) *「[[ウラルトゥとその時代|http://www.miho.or.jp/booth/html/doccon/00000396.htm]]」 **[[ウラルトゥ扇型馬具|http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001294.htm]] *[[ウラルトゥ王国時代のペクトラル(胸飾)|http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000921.htm]] **「[[ペクトラル(胸飾)の意匠について|http://www.miho.or.jp/booth/html/doccon/00000401.htm]] ***([[MIHO MUSEUM|http://www.miho.or.jp/index.html]]) !活用や検討 !!活用 !!検討 *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで) ----