{{toc}} !クシュ王国 クシュおうこく (Kingdom of Kush) !PCが予め知ってていい情報  「クシュ王国」は、[[古代ヌビア|歴史的ヌビア地域]]で上ヌビア(ヌビア地域南部)を中心に営まれた古代王国。おそらく紀元前18世紀末頃に成立した部族連合を経て、紀元前16世紀半ばには国家として成立したと思われる。紀元前15世紀頃、古代エジプトの[[第18王朝|古代エジプト第18王朝]]に滅ぼされた。  ナパタ朝のヌビア王朝やメロエ王国のことも「クシュ王国」と呼ばれることがあるが、それぞれ時代も含めて別国家。([[ナパタ]]も[[メロエ]]も上ヌビアに位置し、上ヌビアの別名として「クシュ」を用いることもあるので、ナパタ朝やメロエ王国を「クシュ王国」と呼ぶことも間違いとは言えない。しかし紛らわしい呼称であることは確かだ) !追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' 紀元前18世紀末頃、[[第13王朝|古代エジプト第13王朝]]の統治力が喪なわれると、エジプト王朝のヌビア支配に対し、ヌビア各地の遊牧部族(地域連合)が、さらに部族連合を組んで反乱を起こした。この部族連合が、後のクシュ王国の前身にあたる。 :: エジプト側は、第13王朝の統治が弱体化していき、現在の歴史研究で[[第2中間期|古代エジプトの第2中間期]]と呼ばれる時代に移行。エジプトが分裂状態になった第2中間期を通じてクシュを中心にヌビアは栄え、B.C.1560年頃、連合をなしていた各部族は、第4急湍上流側のケマルを拠点にしていた部族長に恒常的な宗主権を認めた。これがクシュ王国である。 :: クシュ王国は、[[テーベ]]([[第17王朝|古代エジプト第17王朝]])、[[アヴァリス]]([[第15王朝|古代エジプト第15王朝]])と並ぶ[[ナイル川]]流域の有力国家になった。第2中間期の後半には、これら3国の統治者が対等の立場で交易と外交とをおこなう時期がしばらく続いた。この頃がクシュ王国の最盛期と言える。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''詳しい情報''' 第2中間期の末、後に[[第17王朝|古代エジプト第17王朝]]として伝えられたテーベの王[[カメス]]が、下エジプトの[[ヒクソス]]系王朝だった[[第15王朝|古代エジプト第15王朝]]と交戦。カメスは、戦端を開く前に後顧の憂いを絶つように、下ヌビア([[ヌビア地域|歴史的ヌビア地域]]北部)にあたる[[ワワト]]の一部を征服した。 :: カメスは、ワワトにヌビア総督府を開設すると、宰相と同等の権力をヌビアに持つ総督位を設けた。ヌビア総督は「ファラオの息子」と名づけられたが、実際にファラオの実子が着任したことは無かった。[[ナイル川]]第2急湍下流に位置した[[ブヘン]]に建立された石碑によれば、カメスは軍勢を率いてヌビアに侵攻し[[ワワト]]を制圧した、と記されている。実際は、ワワト地域の南限である第3急湍よりも北、第2急湍がエジプトとクシュとの事実上の境界となった。 :: 第2急湍以北はエジプトに併合されたに等しい状態になったわけだが、クシュ王国は第4急湍上流側のケマルを拠点にしていた。上ヌビアはエジプト王朝に対し守勢に回った、と言ったところがこの時期のクシュ王国の実情だったようだ。 :: エジプト側で第17王朝を後継した[[第18王朝|古代エジプト第18王朝]]が、ヒクソス政権を一掃し[[新王国時代|古代エジプトの新王国時代]]に入ると、クシュ王国は徐々に劣勢に追いやられていった。 :: 黄金など[[ヌビア地域|歴史的ヌビア地域]]での鉱物採掘を王朝直属事業として進めた第18王朝は、まず第2代[[アメンヘテプ1世]]の代に第2急湍と第3急湍との中間あたりに位置したシャートに砦を兼ねた都市を建造。第3代[[トトメス1世]]、第4代[[トトメス2世]]の代には、シャートの境界を越える遠征軍が数次に渡り南方に派兵された。エジプトに対する反抗戦も何度か起きたが、丁度この時期は、第5急湍北方にあった草原地帯カロイが乾燥化をはじめ、ヌビアの遊牧部族が動揺していた時期にあたった(「カロイ」は、現在の[[ヌビア沙漠]]の南東部にあたる)。 :: 共同統治者だったトトメス2世の死後、王権を掌握した[[ハトシェプスト]](はじめ、[[トトメス3世]]の共同統治者、後、女王(女性ファラオ))は、ヌビアに対する直接の軍事行動こそ起こさなかった。しかし、彼女も[[紅海]]沿岸の[[プント]](現在の[[ソマリランド]]または[[ジブチ|ジブチ共和国]]のあたり)に至る交易団に警護部隊を付け、中継地のヌビアを経由せずに派遣した。 :: 第18王朝第5代の[[トトメス3世]]の代、第4急湍下流の[[ナパタ]]に砦を兼ねた都市が建てられ、トトメス3世の治世後半までに、クシュ王国は滅ぼされた。こうして、第4急湍までがエジプト側の支配地になった。 :: その後、エジプト支配地域の部族長たちは、王朝から地域当地の高官に任じられエジプト文化に同化していった。また、エジプトに征服されなかった土地をテリトリーにしていた部族も、エジプト王朝に服属しつつ交易などに従事することを承諾せざるを得なくなった。それでも、第5急湍より南のイレムを拠点にした部族は、反抗を断続させたが、それも第9代[[アメンヘテプ3世]]の代には終息していった。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値14以上」 ::'''専門的知識''' クシュ王国は、エジプト側の[[第1中間期|古代エジプトの第1中間期]]にヌビア地域に現れた遊牧民が[[中王国時代|古代エジプトの中王国時代]]になした国家。考古学でCグループと呼ばれるこの遊牧民は、地域に現れた頃は身分や貧富の差など社会階層の分化がほとんど見られない集団だっただろうことが、出土[[遺物]]から推定されている。 :: その後、Cグループは、ヌビア地域内のテリトリーごとに遊牧集団複数の地域連合を形成。社会分化も進み、地域ごとに部族国家(首長国)のような社会形態に移行した。これらの部族国家が部族連合のように連携した内から、さらに形成されたのがクシュ王国である。 :: 「王国」と言っても、政治的意思決定の集中はさほどではなかったようだ。エジプト王朝側のヌビア再征服の過程では、各部族の部族長の個別懐柔や、各個撃破なども多かったようだ。ただし、クシュ王国には、第13王朝の支配がヌビアから失われた時にエジプト系の都市に取り残された兵士たちの子孫らが、地域に同化しつつ参画してもいた。クシュ王国には、単なる部族連合とも言い切れない面もあった。 !GM向け参考資料  クシュ王国には、第18王朝の有名ファラオと絡めて題材に用いる料理法があります。例えば、[[ハトシェプスト]]のプント交易などと絡めることができたら、面白くなりそうな気がします。  あるいは、同じ[[ヌビア地域|歴史的ヌビア地域]]から後世出た[[第25王朝|古代エジプト第25王朝]]や[[メロエ王国]]などと絡ませても面白い料理が可能と思われます。  「PCが予め知ってていい情報」にも記しましたが、ネット上のコンテンツや一部の資料本には、第25王朝やメロエ王国のことをクシュ王国と呼んでいるものもあります。紛らわしいので、資料にあたる際には、混乱しないようチェックしていってください。 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の国家、王朝、政権]] !!関連項目 *[[歴史的ヌビア地域]] *[[歴史的ヌビア地域略史]] !活用や検討 !!活用 ---- !検討 *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで) ----