{{toc}} !エデッサのマンディリオン(MandylionOf Edessa) !PCが予め知ってていい情報  「エデッサの[[マンディリオン]]」は、主に[[東方正教諸派|正教]]で重んじられた[[キリスト教]]の伝説的な聖遺物。  クリスチャンの伝承では、磔刑にかかる前のイエス・キリストの肖像が、奇跡的な力で写し取られた布、と伝えられている。正教の伝統では、最初の[[イコン(聖像画)]]ともみなされている。 !追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「魔術+知性 目標値8〜10」「表現+知性 目標値10〜12」「歴史+直観 目標値10〜12」「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''やや詳しい情報''' 「エデッサのマンディリオン」は、8世紀頃から[[正教会|正教]]で多数作製されるようになった[[イコン(聖像画)]]の最初のものとみなされ、同時に、イエスの肖像を描いたイコンのオリジナル、とみなされた。 :: 「エデッサのマンディリオン」を原型とみなしてイエスの肖像を描いた一群のイコンは、美術史で「[[マンディリオン]]」と呼ばれる。この用法は、イコンのタイプを指す。「エデッサのマンディリオン」も西欧的な呼び名ではある。 :: 正教会では、単に「マンディリオン」と言えば、「エデッサのマンディリオン」を指すことが多かった。より正式には、「アキロポイエタス(Achieropoietos)」と呼ばれた。これはギリシア語で「人の手に依らない」を意味した。 :: [[ローマン・カソリック]]など西方キリスト教の信徒間では、「エデッサのマンディリオン」は、「エデッサのイメージ」または、「エデッサの奇跡のイメージ(Miraculous image of Edessa)」などと呼ばれることもある。 :: ただし、西欧のクリスチャンの間では、どちらかと言うと、「エデッサのマンディリオン」よりも「[[ヴェロニカのヴェール]]」の方が広く知られている。 :: “Miraculous image”は、聖画の類に限らず、より広く、「植物の花びらにイエスの肖像が透けて見える」、「雲が聖母マリアの姿を示した」といった類の「人の手に依らない」と言ったイメージ全般に使われるようだ。 :'''小辞典版推奨判定''':「表現+知性 目標値8〜10」「魔術+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' 一部のキリスト教信徒の間で、「エデッサのマンディリオン」は、[[オスロエネ王国]]の[[アブガル5世]]にまつわる、キリスト教の正典外伝承で知られている。 :: 現在、比較的よく知られている伝承の大筋は次のようなものだ―― ::'''[[アブガル5世]]とエデッサのマンディリオンについての伝承、大筋''' :: 不治の病(ハンセン氏病とも言われる)に患ったオスロエネ王国のアブガル5世は、イエス・キリストが示した数々の奇跡とパワーについて聞き及ぶと、王宮の書記官にイエス宛の書簡を筆記させた。 :: 書簡は、イエスに王宮のあるエデッサまで訪れ、王の病を癒してくれるよう請い願うものだった。 :: 王の書簡を託された王宮書記官ハナン(アナニアスとも)は、[[ガリラヤ|ガリラヤ地方]]に赴くと、会衆の前で説法をしていたイエスを探し出した。 :: 書記官からアブガル王の手紙を受け取ったイエスは、要請には応じなかった。その代わり、地上でなすべき勤めを果たした後、弟子の1人が王のもとを訪れ、病を癒すであろう、と告げた。当時の習慣を考えると、おそらく書記官がこのイエスの口述を筆記した、と思われる。 :: 書記官ハナンは、もしイエスがエデッサに来てくれないときは、肖像画を描いてくるよう王命を受けていた。しかし、イエスの肖像を描こうとしたが、どうしても描くことができなかった。そんな様子を見ていたイエスは、顔を拭うための水をハナンに所望した。差し出された濡れ手ぬぐいでイエスが顔を拭うと、そこには肖像が写しとられていた。 :: ハナンが持ち帰った肖像画を見ると、アブガル王の病は奇跡の力で癒された。病の跡である傷は残ったものの、感激した王は、王宮の1画に肖像を奉納した。 ::  :: このように、正典外伝承は、「エデッサのマンディリオン」が「磔刑に架かる前の[[イエス・キリスト]]から、古代エデッサのアブガル王(アブガル5世)に送られたイエス自身の肖像」で、「人の手に依らずに顕されたイメージ」とした。それゆえに、「病を癒すなどの奇跡を示した」とも語り伝えられている。 :'''小辞典版推奨判定''':「表現+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値12〜14」 ::'''やや詳しい情報''' 「『エデッサのマンディリオン』は、2005年に逝去された教皇ヨハネ・パウロ2世睨下の私用チャペルに収蔵されておりました。 :: [[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]で開催された、EXPO’2000に出典され話題になりました。 :: 普通は、美術史家の鑑定で『紀元3世紀頃のシリアで制作された[[イコン(聖像画)]]』、と見なされることが多いと思います。[[ヴァチカン|ローマ教皇庁]]の公式見解が、どうなっているかは、ちと、聞き及んでおりません。 :: ヨハネ・パウロ2世逝去の後、いかがなりましたかも、存じておりません」―― ''趣味の古美術商'' *[[Mandylion of Edessa|http://www.spiritrestoration.org/images/mandylion%20of%20edessa.jpg]](Mandylion of Edessa,[[SPIRIT RESTRATION.org|http://spiritrestoration.org/index.html]]) *[[Mandylion of Edessa|http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/a/a8/39bMandylion.jpg]](Mandylion of Edessa,[[WIKIPEDIA The Free Encyclopedeia(英文版)|http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page]])の、[[Image of Edessa|http://en.wikipedia.org/wiki/Image_of_Edessa]]) ---- :'''小辞典版推奨判定''':「表現+知性 目標値10〜12」「歴史+知性 目標値12〜14」「魔術+知性 目標値12〜14」 ::'''詳しい情報''' 「エデッサのアブガル王とイエスについて、現在よく知られている伝承は、数世紀をかけて内容が変化し、整えられたものと考えられています。 :: 同系伝承で、現在知られる最古のものは、4世紀頃のものです。カイサリアのエウセビオスが『[[教会史|エウセビオスの教会史]]』に記しました。『教会史』に見られるのは、アブガル王とイエスとの往復書簡の翻訳で、イエスの肖像画を写した布のことも語られていなければ、イエスの肖像を描こうとした王宮書記官のことも語られていません。 :: ちなみに、エウセビオスは、エデッサの王宮文書館で、古代シリア語系統の文語で記された、王とイエスとの往復書簡を実見し、それをギリシア語に翻訳した、と『教会史』に記しています。 :: エウセビオスが翻訳した『イエスとアブガル王の往復書簡』は、一時、禁書目録に載せられたことがありましたが、後、典外聖典に加えられることになります。しかし、これは後代の話になります。 ::  :: 4世紀も末の384年、西方から聖地を訪れた初期の巡礼者の内に、[[巡礼者エゲリア]]がいました。 :: エゲリアが、まま言われるように初期の修道尼僧だったかどうかは、[[明らかにされていません|定かでない]]。彼女は、むしろ、西欧からの女性の初期巡礼者だったことと、4年間の聖地巡礼の様子を同信の仲間(初期の女子修道院かどうかも不明)に送った長文の手紙とで、現在の研究者に知られています。 :: 彼女は、エデッサの司教から、ペルシアの侵略から都市を守護した多くの奇跡的な出来事について聞かされ、アブガル王とイエスとの往復書簡を筆写した護符を授けられました。 :: エゲリアが同信の仲間に送った手紙の現存する部分によれば、彼女がエデッサで授けられた護符には、故郷で目にしたアブガル王の往復書簡より長い章句が刻まれていた、とのことです。 :: エゲリアは、エデッサで授けられた護符が本来の書簡の章句に近い、より完璧なものと考えたようです。しかし、現在の研究者は、エゲリの手紙から、384年以前にアブガル王の書簡についての物語が西方にも伝わっていたことを推測しています。おそらく、エゲリアのような初期の聖地巡礼者が伝えたものと思われます。 :: 彼女はエデッサに3日間滞在し、通訳とエスコートに伴われて、都市とその周辺を巡りました。しかし、エゲリアの手紙にも、イエスの肖像についての記述は見られません。 ::  :: 紀元5世紀前後には、アブガル王からイエスの元へ派遣された王宮書記官は画家でもあった、と語られるようになっています。イエスがエデッサに赴くことに応じてくれなかったら、肖像を描いて持ち帰るよう命じられていた、との伝説もこの頃までに語られています。 :: この段階の伝説は、古代に偽典とされたシリア語文語の典外書『ドクトリン・オブ・アッダイ』と、そのギリシア語訳『タダイ行伝』に見られます。 :: これらの文書では、イエスの肖像の由来譚は語れているものの、王の病を癒したのは、聖霊が降臨した後の使徒タダイ(アッダイ)で、肖像のパワーがアブガル王の病を癒したとは語られていません。 ::  :: 古代の伝承は、525年にエデッサを襲ったユーフラテス水系の洪水で、イエスの肖像が一時行方不明になった、と伝えています。肖像は、洪水の被害からエデッサを再建する作業の途中、市壁に設けられた門の1つで再発見された、とも記されています。 :: 洪水と、イエスの肖像発見の顛末については、6世紀のビザンティン帝国に仕えた宮廷史家[[カイサリアのプロコピオス]]が記しています。プロコピオスは、544年頃、『エデッサがペルシアの支配から解放されたのは、イエスとアブガル王の往復書簡がもたらした奇跡的な加護による』とも記していますた。 :: 一方、50年ほど後の593年には、やはりビザンティンで活動した聖職の史家、エヴァグリウス・スコラステイカスが同じ出来事を、『エデッサのマンディリオンが示した奇跡的な力による』としています。 :: また、『544年に発見されたエデッサのマンディリオンは、神の手で作られ、人の手には依らなかった』と記しているのも、エヴェグリウスの『[[教会史|エヴァグリウスの『教会史』]]』です。 :: こうして、現在知られている、『エデッサのマンディリオン』伝承に含まれている要素は、ほぼ、エヴァグリウスが著作に記した6世紀末に出揃ったように思えます。 :: 現在知られる『エデッサのマンディリオン』伝承は、イエス在世の頃から数えるとざっと600年、エウセビオスの頃から数えても、およそ200年弱かけて生まれた伝承と思われます」―― ''考古学にかぶれた民間伝承研究家'' :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」「魔術+知性 目標値12〜14」 ::'''詳しい情報''' エデッサのマンディリオンは、ササン朝ペルシアがエデッサを征服した609年に行方不明になった。主にビザンツで記された、歴史伝承も踏まえるなら、行方不明になったのは、525年の洪水の時と2度、ということになる。 :: 現代西欧の歴史家、アンドリュー・パルマー(Andrew Palmer)は、1999年に[[トルコ|トルコ共和国]]の[[シャンル・ウルファ]](古代エデッサの遺跡の近傍に位置)で聞いた伝説として、「“イエスの布”は、ウルファ市で1番大きなモスクが建てられた時、基礎の内に投げ込まれた」との伝承を紹介している。 :: 東欧、西欧のキリスト社会に伝わった伝承は、また別のものだ。 :: ビザンティン帝国では、皇帝ロマヌス1世の代の944年に、イスラム教徒の捕虜たちと、エデッサのマンディリオンとを交換したことが記録されている。マンディリオンは、コンスタンティノポリスで、パランティーノのチャペルに奉納された。 :: 現在でも、正教では、エデッサのマンディリオンがコンスタンティノポリスにもたらされた正教暦の8月16日を祭礼日として、祭礼を営んでいる。 :: エデッサのマンディリオンは、1204年に十字軍がコンスタンティノポリスを簒奪するまでは、パランティーノのチャペルに納められていたはずだ。 :: 十字軍の簒奪によって、多数の宝物が西欧諸国に持ち去られた。[[一説に|一説に〜]]、エデッサのマンディリオンも、この時に持ち去られた、と言われるが[[定かではない|定かでない]]。コンスタンティノポリスから西欧に持ち去られた宝物については、幾つか記録が伝えられているが、その内でエデッサのマンディリオンについて記したものは、現在まで知られていない。 :'''小辞典版推奨判定''':「魔術+直観 目標値10〜12」「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''インスピレーション''' 「14世紀に、コンスタンティノポリスから行方不明になった『エデッサのマンディリオン』は、[[テンプル騎士団]]がどこかに隠したとか、騎士団を弾圧したフランスのカペー朝が没収したとも言われてんだってな。 :: ウソかホントか、俺にゃわかんねーけどな」―― ''ロマン大好きな古代史マニア'' :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+直観 目標値10〜12」 ::'''インスピレーション''' 「『エデッサのマンディリオン』って、実は『[[トリノの聖骸布]]』から、顔のとこだけ取ったんだって。すごいねー☆ :: イエス様、生前の肖像っていうのは、後からできたお話なんだって。 :: でも、聖骸布って、刑死したイエス様の遺体を包んだ布だったんだよね。マンディリオンの絵は、イエス様、目開けてるよね。変なの。 :: あ、でもでも、それを言ったら、濡れタオルで顔拭くのに、目を開けてたってのもなんか変だぁ」―― ''ひらめきの調査員'' ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値14以上」 ::'''専門的知識''' 944年にコンスタンティノポリスにもたらされたマンディリオンの真贋は、今のところ、普通の歴史学で扱える領域の話題ではない。何しろ、現物は行方不明なのだから。 :: 当時、ビザンティン帝国が公式に聖遺物をみなした何かが、ササン朝からコンスタンティノポリスにもたらされた。これは歴史的事実だ。 :: 同じように、4世紀頃からの、伝承史研究も、遺物の真贋論争より以前に、当時のキリスト教の教義論争が反映されていることが、普通の歴史研究にとっては重要になっている。 :: 例えば、聖像肯定論と否定論の論争。エデッサのマンディリオンの物語が、正教会の公式見解に受け入れられたのは、概ね6世紀末頃のことと思われる。 :: エヴァグリウス・スコラステイカスが593年に唱えた「マンディリオンは人の手には依らなかった」との主張は、イコン(聖像画)公認を背景にしつつ、なお根強かった聖像画否定論に対する反論になっていた。 !GM向け参考情報 !!用途、用法  「エデッサのマンディリオン」は、[[テンプル騎士団]](聖堂騎士団)に絡めたり、トリノの聖骸布に絡めたりすると面白く料理できそうです。  聖堂騎士団については、[[ルールブック]]の[[限定情報]]第37章に、小見出しをたてた、やや長めの解説があります。トリノの聖骸布については、ルールブックに解説は見当たらないようです。  エデッサのマンディリオンが、日本でどの程度メジャーか、判断に迷いますが。シナリオで使う場合は、ドイツのハノーヴァで開催された「EXPO2000で展示された」などの話題を挟んで、プレイヤーさんたちの関心を引くフックにするといいかもしれません。 !!アイディア・フック  「[[魔術的見地|魔術技能]]から興味があったので、ハノーヴァのEXPOには行ったぞ。  もちろん、エデッサのマンディリオンを見にいったのだが、何も[[感知|魔術感知]]できなかったので、拍子抜けした」  「もしかしたら……、銀の飾り枠が、マンディリオンのパワーを休眠させるアイテムだったりして、……なぁんてね」  「……、そ、そんなことはあるまい。イエス・キリストのパワーを休眠させるアイテムなど、そうそう転がってるはずはあるまい」  「そだねー」  「それにだなぁ。ヴァチカンがイエスに由来するパワーを休眠させる理由が思いつかん」  「でもさ、あのマンディリオンは、イエス様の肖像だ、って確かめた人いないんでしょ?  だったら、なんかの理由で休眠させてるかもしれないし。休眠させるアイテムだってあるかもよ。  ……なぁんてね。そんなわけないかぁ」  「……、う、うむ。そんなわけ、あるまい……」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[アーティファクツやオーパーツ・ソース]] !!関連項目 *[[アブガル5世]] *[[ヴェロニカのヴェール]] //[[トリノの聖骸布]] *[[マンディリオン]] !!資料リンク *[[The Mandylion|http://www.printeryhouse.org/mall/Icons/Portraits/a12.asp]]([[SPIRIT RESTRATION.org|http://spiritrestoration.org/index.html]]) *[[Abgar V of Edessa|http://en.wikipedia.org/wiki/Abgarus_of_Edessa]]{{br}}[[Image of Edessa|http://en.wikipedia.org/wiki/Image_of_Edessa]]([[WIKIPEDIA The Free Encyclopedeia(英文版)|http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page]]) !!資料書籍 *{{isbnImg('4426621127')}}{{br}}[[木田 献一|http://www.bk1.co.jp/author.asp?authorid=110000323730000&partnerid=p-sf0023]]、他、共編,『[[聖書の世界 総解説|http://www.bk1.co.jp/product/2020568/p-sf0023]]』(Multi Book),自由国民社,Tokyo,2001(全訂新版). !活用や検討 !!活用 ---- !検討 *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで) ----