{{toc}} !マリの遺跡 マリのいせき(テル・ハリリ) Archaeological site of Mari !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  マリの遺跡は、現、[[シリア=アラブ共和国]]領東部で、[[ユーフラテス川]]がシリア - [[イラク|イラク共和国]]国境と交わる地点のシリア側にて、ユーフラテス川の南岸に位置。  マリ王国は、紀元前3[[千年紀]]中葉から後半にかけ繁栄した都市国家。独立都市国家としては、紀元前[[2千年紀|千年紀]]前半まで存続。都市が滅んだのは、紀元前2千年紀中葉。 '''【参照用イメージ】''' *[[マリ関連のフリー・ファイル集アーガイブ|http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Mari]]([[Wikimedia Commons]]) '''【参照地図】''' *[[Syria|http://go.hrw.com/atlas/norm_htm/syria.htm]]([[HOLT RINEHART WINSTON WORLD ATLAS]]) !追加情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' 遺跡は、イラクとの国境まで18kmほどと至近。マリ(王国)が遺跡を遺した古代都市の名で、遺跡名がテル・ハリリ。マリ王国は、[[メソポタミア地域]]から、[[地中海]]東岸に通じる[[シリア沙漠]]交易路のメソポタミア側入口に立地した都市国家だった。 :: 地域では、紀元前5千年紀頃からヒト集団の定住跡が確認されている。草創期の文化系統は不明だが、[[古バビロニア時代]]がはじまる頃には[[アムル人]]の王朝が成立していた。「[[シュメール王朝表]]」には、マリ王国についての記述が見られ、シュメール都市[[ラガシュ]]も侵攻したマリ軍と交戦した記録を遺している。 :: B.C.2900年頃から最初の繁栄期を迎えていることが、考古学的に確認されている。この頃、西方の[[エブラ|エブラの遺跡]]と、何度か武力衝突を繰り返していた。 :: 紀元前25世紀のいつの頃か、マリは、一度崩壊したが、その後再興した。この崩壊の原因については[[諸説ある]]が、お主に「エブラによって滅ぼされた」という説と、「[[アッカドのサルゴン]](サルゴン大王)の西征によって滅ぼされた」という説とが主流説。どちらの説を採るかによって、崩壊の細かな年代についても幾つかの説が唱えられている、 :: 再興したマリは、B.C.1900年頃をピークに、新たな最盛期を迎えた。紀元前2千年紀には、現在の[[アレッポ]]に立地していた[[ヤムハド]]と争っている。その後、アッシリア王位を簒奪した[[シャムシ・アダド1世]]の治世中にアッシリアへの併合、あるいは服属を強いられた。 ---- *「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''さらに詳しい情報''' アムル人王朝に率いられ盛期を迎えたマリ王国には、都市化したアムル人の拠点といった性格が、その早い時機から覗われる。 :: [[ウル第3王朝]]の末頃、新興都市[[イシン]]を率いた[[イシュビ・エラ]]は、マリの出身者であり、[[古アッシリア時代]]にアッシリア支配者の地位を簒奪した[[シャムシ・アダド1世]]もマリ王国と因縁浅からぬアムル人だった。 :'''小辞典版推奨判定''':「魔術+知性 目標値12」基本 ::'''詳しい情報''' マリ王国は、シュメール文化の影響を被り、後代までその伝統を保ったことが、出土した彫像のスタイルなどから見てとることができる。しかし、マリには、メソポタミア文明圏の内で特徴的な伝統もあった。1つは、アムル人の農耕神ダゴン神の崇拝だ。マリのダゴン神殿は、ダゴン神崇拝の一大センターだった。もう1つは、夢占いの伝統だ。 :: 夢占い自体は他の古代国家でもみられるが、[[マリ文書]]には、地方の行政官が、夢や幻視、予言について王に報告する一群の粘土版が存在する。これらの粘土板記録によれば。専門的な予言者は神懸かりした陶酔状態で予言を語り、行政官や王もそれを重んじていたようだ。 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど !!用途  マリの遺跡の遺跡図は、見つけだしていません。こういう場合―― *'''用途A'''  架空の遺跡図を作図してフィクションとして使用。あるいは遺跡図まで作図しなくても、GMの語りで処理など。 *'''用途B'''  遺跡は、物語の承前にて扱い、セッション中はNPCによる言及だけですませる。ミッションの焦点は出土遺物などにあてる。 ――から考えていくといいのですが。  マリの遺跡の場合、シリア-イラク国境に至近、という立地も気になります。  この立地条件をうまく使ったシナリオを考えたい、というのは人情というものでしょう。 :登場して唐突でないNPC: フランス隊の遺跡調査員、研究者。近傍の町の住人。ヒツジやヤギを飼う地域の遊牧民。取材で立ち寄ったジャーナリスト。シリアの国境警備隊。シリア政府の文化政策担当局の役人、など。 :: マレに旅行団体(シナリオの都合で無視も可能)。 !!アクセス !!!遺跡自体へのアクセス  マリの遺跡は、イラク国境から18km。至近と言える位置にあるのですが。なんと、観光コースに組み込まれています。とは言っても、[[イラク戦争]]以降の情勢下で、エジプトやローマ、ギリシアの有名遺跡のように、次から次へ観光バスが乗り付け、続々と旅行団がやって来る、という遺跡ではない。これを基本設定としていいでしょう。  発掘権はフランス隊に認められていて、現在も数年おきに発掘が継続されているようです。おそらく、数年間のインターバルを置き、1、2年〜2、3年の発掘を繰り返すパターンでしょう。  普通、発掘のインターバル期間は、新たな出土物の整理、分析、公表される報告書の作成に充てられます。  遺跡地帯のシナリオでの料理法は何通りか考えられ、シナリオの都合に併せて選択する幅もあるはずです。  遺跡地帯への立ち入りについては、シナリオに併せて多少の料理は可能ですが、遺跡から東方のイラクとの国境部は、警戒が厳しいとするといいでしょう。外国人らしい人物が巡回する国境警備と遭遇すれば、誰何され、パスポート類の提示を求められたり所持品検査を強いられるのを基本状況と想定。シナリオの路線に応じて、より警戒が厳しい状況を設定してもおかしくありません。  遺跡自体には、遺跡管理人が常駐していると想定。  遺跡地帯から、国境方面にカメラや双眼鏡を向けると、誰何され、大体において没収されることでしょう。 :'''もっともらしい料理法''': 旅行者は、シリア国営会社が関ったパック・ツアーのみ立ち入れる。観光客にはそれと気づいていない人もいるが、旅行会社がすでに「特別な許可」を得ているのだ。1人旅の旅行者が、ぶらりと訪れても見つかると追い出される。 :: 遺跡管理人は普通は、シリア政府に雇われた現地の人。立場的には地方下級官吏と想定。あるいは、特別な訓練を受けた観光客警護班として遺跡管理人グループを設定したり、国境警護隊の一隊が遺跡警護の任にあたっている、と設定してもいいだろう。 :: PCに限らず、シリア考古局を通じた連絡を入れているか、現地の発掘権を有すフランス隊の紹介がなければ、遺跡管理人に立ち入りを拒まれる、としたい。 :: シナリオの都合があれば、たまたま、PCたちが任務で訪れたときは、なんらかの理由をシリア政府がつけて、臨時に立ち入り禁止にされていた、と設定してもいい(可哀想にツアー予定ルートの変更を迫られた旅行団もいた、との想定になる)。このアレンジを使っても、場合によっては、[[ゲーム・パート]]中の説明をはぶいてもいい背景事情だろう。 :: こちらの料理法では、遺跡近辺にも、国境警備隊の姿が見られると、もっともらしさが増すだろう。 ::(他にも、もっともらしい料理法はあるはずだ) '''【参考】''' *[[「中央アジア中近東の旅」|http://www.saiyu.co.jp/list/tkt.html]]([[西遊旅行社|http://www.saiyu.co.jp/]]){{br}}ツアー・パック自体は更新されると思いますので、旅行会社のサイト内のインデックス・ページへのリンクを貼っておきました。遺跡の写真も見られます、興味のある人は参考にしてください。 !!!アクセス・ルート !!!!シリア国内の移動ルート  ツアー・パックならともかく、直接遺跡に向かうなら、陸路では地方都市[[デーレッゾール]]経由が基本になるでしょう。  デーレッゾールから、ユーフラテス南岸に沿う基幹自動車道を、105kmほどイラク国境方向に進むと、国境近くの町アブー・カマル(人口5千人〜1万人級)手前で左手にテル・ハリリが存在します。アブー・カマルと遺跡との間の距離は、道なりで10kmほど。  デーレッゾールから、[[ユーフラテス川]]を川下りという手もあるでしょう。(「[[ユーフラテス川]]」の項を参照してください)  あるいは、シリア西部の地方都市[[ホムス]](ヒムス)から、[[シリア沙漠]]内に敷設された基幹道をひたすら東進。[[パルミラ遺跡]]のやや南を通ってアブー・カマル方面に向うルートもあります。  もし、シナリオの都合で、PCたちがしばらく遺跡地帯に滞留するなら、アブー・カマルは宿営拠点の候補になるでしょう。 !!!!イラク方面からの移動ルート  シリア側のアブー・カマルを経由した基幹道路は、そのままユーフラテス南岸に沿うようにイラク領内に伸びていきます(ホムスからアブー・カマルに至った道路はアブー・カマルで合流する型です)。  2005年現在は、国境のどちら側でも警備が厳重、とすべきでしょう。  イラク側には国境に接して、クサイバの町が存在。対岸にはリバートの町が対面しています。どちらも人口、5千人〜1万人級。  基幹道を南下すると[[ファルージャ]]の手前でユーフラテス川を越え、ファルージャを経由して首都[[バグダード]]に至ります。  クサイバの町は、バグダードとの間を繋ぐ国内鉄路の終点にもなっています。 !!!!遺跡地帯にVTOL類で離着陸できるか  遺跡地帯への離着陸は、原則禁止と考えます。 (この件の運用については、「[[VTOL類で遺跡に着陸してもいいか?]]」の項を参照し、検討してみてください)  普通なら、アブー・カマルの近辺に離着陸するといいはずなのですが。国境近くの町ですから、事前にパーミッションを得ていないと、何が起こるかはGM次第といったところでしょう。 !!!遺跡の周辺環境(推定)  地図で見ると、[[ユーフラテス川]]が北側にわずかに膨らんだ屈曲点の内側に位置し、南を直進する基幹道との間の細長く区切られた土地に存在しています。  遺跡発見のきっかけも、羊飼いのベドウィンが遺物を拾ったことによる、と言いますので。ユーフラテス沿岸の草地地帯とするといいでしょう。 !!遺跡の規模と構成  遺跡地帯は1km四方ほどで、なだらかな起伏がつらなる台地状に小高い土地。  遺跡の構成は調べがついていませんが、[[ジッグラト]]が崩壊した[[遺丘]]が一際小高く遺っているそうです。  ルーブル美術館には、遺跡の推定復元立体模型が展示されているそうです。小さな写真で立体模型をみると、繁栄期の都市は、いくつかの神殿と王宮とが楕円状の囲壁で囲まれた都市だったようです。  NETで個人の旅行記などをみると、少数例ですが、「見るべき物がなくてがっかりした」的主旨のコメントもみられました。  ギリシアの遺跡や[[パルミラ遺跡]]のように、建物の構造体が廃虚のように遺っているタイプではなく、遺跡現状には、概ねかつての建造物の基台程度が露呈しているタイプの遺跡、と想定してよさそうです。  とは言っても、周辺で農耕や牧畜を営む集団を統率しつつ、交易の利で栄えた都市の遺跡。遺跡地帯も、少なく見積もっても1000年の堆積から成り立っています。  少なくとも3層の文化層が調査されているので、遺跡地帯上層には、発掘で掘り崩された区画に古代建造物の基台が露呈していたり、試掘用の溝(トレンチ)が散在していると想定。  1980年代のやや古い情報になりますが、一部、重要スポットには、鉄骨で組まれた骨組みに屋根だけ樹脂材を用いた雨除けが設けられているそうです。日本の中学校や高校によくあるような「渡り廊下」に似た作りの雨除けで、面積を広くしたような物が建てられているわけです。  ここでは、少なくとも、主要遺跡である繁栄期の「ジム・リム王の宮殿址」の周囲には屋根が設けられている、と想定します。  発掘で露呈した重要な建造物の基台などには、普段はシートがかけられているようです。 !!!遺構  フィクション設定として、概ね楕円形の囲壁に囲まれた王宮や、複数の神殿の基台部と設定。[[遮蔽度]]2〜3程度の建築基台部や基台痕跡が、掘り崩された発掘区画に露呈していると想定。  ジム・リム王の王宮の壁は、2mの厚さだったと言われる。 !!!遺跡の来歴  マリの遺跡がいつ頃から都市化したのか、及び、都市化以前に農耕集落などがあったのか、は、まだ調査途上にあるようです。  立地から考えると何らかの集落が都市に先行してあったのかもしれませんし、集落はなく、長距離交易の交易ポイントだったのかもしれません。どちらの可能性もあります。  マリ遺跡が発見されたのは、1933年のことですが、マリ王国自体の名はシュメールの古代記録で以前から知られていました。ずっと、「所在不明の幻の都市」だったわけです。  マリに関連する最古の記録は、おそらく[[シュメール王朝表]]として整理把握されている古文書群の内で、初期王朝時代の記録として伝えられたものと思われます。  紀元前3[[千年紀]]に、[[シュメール・アッカド地方]]に侵攻したマリ王国の軍勢を[[ラガシュ]]の軍勢が迎え撃ったとの記録です。  シュメール・アッカド地方に覇権を確立し、初期王朝時代を終わらせた[[アッカド王朝]]の[[サルゴン大王]]は、シュメール・アッカド地方の圏外にも何度か遠征をおこなった記録が伝えられています。この遠征で、征服された国の1つにマリ王国の名も記されています。  アッカド王朝滅亡に伴う混乱を収拾した[[ウル第3王朝]]末頃、ウルの臣下(武官?)から自立すると、新興都市[[イシン]]を率いてシュメール=アッカド地方の覇権獲得に挑んだ[[イシュビ・エラ]]がマリの出身者だった、と伝える記録もあります。  イシュビ・エラは、ウル側の記録で「シュメールの種ではない」と悪し様に記されているのです。  [[古アッシリア時代]]、第39代アッシリア王として伝えられている[[シャムシ・アダド1世]]は、[[アムル人]]でアッシリア支配者の地位を簒奪しました。おそらく、彼と彼の息子の代にアッシリア王名表に加えられたと思われる改竄については、現在までのアッシリア研究でかなりのところ解明されています。  シャムシ・アダド1世の父は、マリ王国に隣接したアムル人の小国を王として治めていた、と伝えられています。この王国の実態は、定かにされていません。あるいは、マリ王国に従属的だった、遊牧民集団の長が「王」と称していたのかも知れません。  シャムシ・アダド1世が、アッシリア王位を掌中にした頃、前後してマリ王国ではときの王が家臣に暗殺され、王位継承者がヤムハド(現在の[[アレッポ]]の地にあった古代国家)に亡命する政変が起きました。  マリ王国は、この機に進軍したシャムシ・アダド1世指揮下のアッシリア軍に併合されます。シャムシ・アダドは、弟である、ヤスマハ・アッドゥをマリ王位に就け、マリはアッシリアの属国とされました。  シャムシ・アダド1世の死後、優勢だった古アッシリアを追いぬき、メソポタミア地方に覇権を確立したのが、シュメール・アッカド地方を統一したバビロン第1王朝の[[ハンムラビ]]王です。マリは、ハンムラビ王の軍勢に攻め滅ぼされた、と伝えられています。  バビロン第1王朝の方も、ハンムラビの息子サムスイルナの代に統治力を喪失し、地方政権の1つとして命脈を保ちますちますが、B.C.1595年、突如[[アナトリア]]から長躯南下侵攻してきたヒッタイト軍によって滅ぼされてしまいます。  おそらく、こうした混乱の内に都市国家マリが再興する可能性も失われたことでしょう。  その後、かつてマリが栄えた地域は、B.C.1600年頃、[[ハナ人]]の勢力圏となり、紀元前15世紀には[[ミタンニ]]の勢力圏に含まれます。    1933年、テル・ハリリで、地域のベドゥインの羊飼いが偶然、太陽神[[シャマシュ神]]彫像の頭部を発見。これが、マリ遺跡の発掘につながりました。  フランス隊の考古調査団が1935〜1938年、1951〜1954年に発掘調査をし、B.C.1800年ごろの王宮を探し当てました。隊長は、フランス人考古学者の[[アンドレ・パロ]]。  王宮文書庫などから発掘された多量の粘土板文書(マリ文書)により、マリ王国と古アッシリアの関係、マリ王国と[[エブラ]]との関係などが解明されました。  シリアでは、マリ遺跡の発掘権を現在でもフランス隊に認めており、調査は断続的に続けられている、とのことです。 !!出土遺物  初期の発掘調査では、出土遺物の多くは、フランス隊に持ち去られたが、シリア首都ダマスカスのダマスカス国立考古博物館や、北の商都アレッポの考古博物館に収蔵され、展示されている物も少なくない。  古代ガラス工芸、陶器、彫像などが知られている。  マリ文書と総称される粘土板は、一説に2万点以上の砕片だった、と伝えられている。これらは、ほとんどすべてがフランスに持ち去られたようだ。  現在の発掘では、出土遺物はシリア政府に帰属する、と設定することにする。 :ランギ・マリ王彫像: 「ランギ・マリ マリの王 エンリル神の大神官 彼の像を女神イシュタルの捧ぐ」と碑文を刻まれた石灰岩の彫像。シリアのアレッポ博物館収蔵。 :イシュタプ・イルム彫像: マリ王国後期の国王、イシュタプ・イルムの姿を彫った、閃緑岩の彫像。 :水の女神(?)像: 片腕で壷を小脇に抱えた女神の彫像。額に神格を示す小角が刻まれていることから女神像と知れる。像の頭部は、ジム・リム宮殿中庭の池付近で発見。胴体部分は、中庭に隣接した礼拝堂で発見された。 :: 壷の内部から管が彫り込まれていた。おそらく、壷から水を流出させる仕掛けだったのだろう。あるいは、礼拝堂から池に運び出して執り行なう祭儀があったのかもしれない。 '''【参照イメージ】''' *[[マリの代官エビ・イル座像|http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/collec/ao/ao17551/ao_f.htm]]{{br}}[[ダゴン神殿を護るライオン像|http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/collec/ao/ao19824/ao_f.htm]]{{br}}([[ルーブル博物館日本語サイト|http://www.louvre.or.jp/]]) !!用例  シリアとイラクの国境近辺にある遺跡ですから、21世紀の[[シームレス・ワールド]]での冒険を扱う[[ブルーローズ]]では、是非、扱いたい。  単発セッションなら、何が起ころうと後は野となれ山となれ、とやってやれないことはないのですが。  [[キャンペーン・プレイ]]を想定したシナリオでは、シリア-イラク国境での武力紛争勃発、といった展開に至ることはできたら避けたい。先々のキャンペーン展開が面倒になりすぎるからです。 (GMをする人は、この辺のことについては[[秘匿情報]]も参照してみてください)  小規模な小競り合いが起きた後、[[陰謀組織]]だけでなく、関係各国がこぞって情報を隠蔽してしまった、という処理までするなら、なんとかなるかもしれません。  その辺の見通しを持たないと、マリ遺跡をクライマックスに使うシナリオは、気軽には手を出しにくいです。  遺跡の具体的な様子がわからないので、立地を活かした「'''用途A'''  架空の遺跡図を作図してフィクションとして使用。あるいは遺跡図まで作図しなくても、GMの語りで処理など」路線のシナリオは、結構、料理が難しいのも難点です。  とりあえず、遺跡地帯を導入など、クライマックス以外に使う路線の方が安全牌、とは言えるでしょう。 !!!ソース案  例えば、ディレッタントの間での古美術品オークションに、マリ出土の[[オーパーツ]]が出てしまった、とします。  このオーパーツは、何かきっかけがないとパワーが発動しないとします。  もちろんオークションでは、オーパーツ云々は知られず、単なるマリ出土の遺物として競売にかけられました。  有名NPCが、オークションで遺物を競り落としたとの情報が財団に入ったところで、PCチームに探索及び、調査のミッションがくだされるとします。  オープン・ミッションの時点では、財団も競り落とされた遺物がオーパーツだとの確証は掴んでいません。  しかし、海南物産とセレスティアル・ゲートが、最後まで競り合ったとの情報を、無視することもできず、ミッション発令となります。  遺物を競り落としたNPCはシリアに向かったらしいのですが……。 '''【参考】'''  盗掘品マーケットに関する事情については、例えばこんな記事もあります。 *[[「文化財掠奪の現状を追う」|http://www.diplo.jp/articles05/0501-4.html]]2005年1月([[ル・モンド・ディプロマティーク日本語版|http://www.diplo.jp/index.html]]) !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[遺跡]] !!関連項目 !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Mari, Syria|http://en.wikipedia.org/wiki/Mari%2C_Syria]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}