{{toc}} !メンケペルラー 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先的に歓迎。 :'''英語名''':Menkheperre(メンクェペルラァ) !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  メンケペルラー(メンクェペルラァ)は、紀元前11世紀の後半から紀元前10世紀の初頭にかけて、50年以上の長期間、[[テーベ]]のアメン神殿で第一神官だった人物。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  メンケペルラー(メンクェペルラァ)は、現在の古代エジプト研究で、「アメン大司祭国家」と呼ばれるテーベのアメン神官団で第一神官位に就いた人物の1人。  ミイラは、テーベにある[[デイル・アル・バハリ]]の[[カシェ]](隠し墓所)から発掘された。「ヘムチェルテピエンアメン(アメン神の第一神官)」の役職名を刻んだ[[カルトゥーシュ]]も確認されている。  やはり第一神官になった[[パネジェム1世]]の、息子の1人で、[[ヘリホル]]から数えて、大司祭国家のリーダーとしては、第6代にあたる。誕生名「メンケペルラー」は、「永続するラー神の神霊」といった意味。  B.C.1045年からB.C.992年にかけて、足掛けで54年間第一神官でありつづけた。  しかし、2年間しか第一神官位になかった先代、[[ジェドコンスエファンク]]との間の継承の経緯は、よくわかっていない。  メンケペルラーが第一神官位に就いた年は、[[下エジプト]]の[[タニス王朝|古代エジプト第21王朝]]が、初代[[スメンデス]]の統治の末年だった時期にあたる。その後、メンケペルラーがテーベの第一神官である間に、タニス王朝の統治者は、第2代[[アメンエムニスウ]]、3代[[プスセンネス1世]]と移った。メンケペルラーとプスセンネス1世とは相前後して没している。  メンケペルラーが、第一神官に就いた前後、テーベで謀反が起きたようだ。古代記録によれば、タニス王朝の[[スメンデス]]の統治25年めに、「謀反人たちが西方沙漠のオアシスに追放された」と、ある。通説を踏まえると、「追放」は、B.C.1045年のことで、メンケペルラーの統治初年にあたる。  メンケペルラーは、プスセンネス1世の娘[[イシスエムケブ]]と婚姻した。プスセンネス1世は、メンケペルラーの兄弟なので、イスエムケプは叔父と婚姻したことになる。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  長期間第一神官の地位にあったメンケペルラー(メンクェペルラァ)だが、その事跡は意外なほどわかっていない。  1つには、ミイラが本来の墓所(未発見)から、カシェ(隠し墓所)に移されていたためだ。  [[一説に|一説に〜]]、「おそらく、長兄で、義理の父にあたるタニスのスメンデス1世に対し、従属的だったので、記録が乏しいのだろう」とも言われている。  ともあれ、テーベのアメン大司祭国家とタニス王朝とは、メンケペルラーの代に安定した関係を実現したようだ。  フランスのルーヴル博物館に収蔵されている黒花崗岩の石碑には、「アメン神の神託による」として、西方沙漠に追放された人々が赦免され、テーベへの期間が許された旨、記されている。残念なことに、この碑文の布告年は[[定かに解明されていない|定かでない]]が、長期間に及んだメンケペルラーの代のいずれかの年のことだろう、とは言われている。  あるいは、この赦免と期間許可は、大司祭国家とタニス王朝とのなんらかの政治的合意の結果だったのかもしれない。 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、[[マスタリング・チップス|チップス集]]、[[アイデア・フック]]など  「増補待ち」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[アメン大司祭国家]] *[[古代エジプト第21王朝]] *[[スメンデス1世]] *[[ジェドコンスエファンク]] *[[パネジェム1世]] *[[マサハルタ]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Menkheperre]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}