{{toc}} !ニキータ・フルシチョフ 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 :'''ロシア語表記''':Никита Сергеевич Хрущёв :'''英語表記''':Nikita Sergeyevich Khrushchev !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  ニキータ・フルシチョフは、20世紀の半ば、ソヴィエト連邦最高指導者の地位にあった人物。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  フル・ネームは、ニキータ・セルゲーイェヴィチ・フルシチョフ。  1894年、帝政ロシア末期、クルスク県で炭坑夫の息子として産まれた。幼少期に、現在の[[ドネツク]]に転居して成長。  ロシア革命以前、1917年頃から労働運動に参加、1918年にロシア共産党に入党。  [[スターリン|ヨシフ・スターリン]]の側近に注目され、[[モスクワ]]に転出。1934年ソ連共産党大会(第17回)で中央委員に選出され、翌1935年モスクワ共産党第1書記に。1938年、[[ウクライナ]]共産党第1書記に(前任者はスターリンに粛清されていた)。1939年の党大会で政治局員に昇格。  第2次世界大戦中は、ウクライナ共産党の責任者としてウクライナの産業を東部に疎開させることに尽力。疎開作業の完了後、陸軍中将と同位の政治委員の階級を授与され、南部戦線でナチス=ドイツ軍との交戦を指導。スターリングラード攻防戦では、イェレメンコ大将の政治委員となり、1943年クルスクの戦いでは、バトゥーチン中将の政治委員として前線での軍務に就いた。  スターリンの死(1953年)後、ゲオルギー・マレンコフが、ソ連邦の首相にあたる閣僚会議の議長と、同会議筆頭書記に就任した。しかし、マレンコフはわずか9日で筆頭書記の地位をフルシチョフに譲った。フルシチョフは、当時秘密警察(GPU)の責任者だったラヴレンティ・ベリヤを逮捕した後、党中央委員会第1書記に就任。ついでマレンコフを辞任に追い込んだ。閣僚会議議長の後任となったニコライ・ブルガーニンは、フルシチョフの腹心だった、と言われる。  1956年、共産党大会の秘密報告で、スターリン批判をおこなった。この報告は、西ヨーロッパ、東ヨーロッパの共産党のソ連離れと、中国共産党の反発を招いた。  当時、中国共産党の指導者だった毛沢東は、スターリン批判はソ連1国の問題ではなく、世界の共産党の指導路線の問題である旨を主張。後の中ソ対立の予兆となった。フルシチョフ時代のソ連指導部は、欧米諸国との平和共存路線をすすめ、スターリン時代と比較すると、一時的な「雪どけ」ムードを生んだ。西欧諸国の共産党は独自路線を進み始めたが、ハンガリー動乱への軍事介入など、東欧諸国の自由化要求に対しては厳しい態度で臨んだ。  宇宙開発が進められ、スプートニクやボストークの打ち上げが、相次いで成功したのもフルシチョフ在任中のこと。  1957年、ヴャチェスラフ・モロトフ、ゲオルギー・マレンコフ、ラーザリ・カガノーヴィチらがフルシチョフの解任を要求。中央委員会幹部会の投票でいったん破れたものの、中央委員会総会での投票で逆転勝ちして第1書記の地位にとどまった。解任要求を出した3人は追放され、フルシチョフを支持しなかったブルガーニンも、ほどなく首相を辞任させられた。以降、フルシチョフが閣僚会議議長を兼任。  1960年には[[U-2事件]]が起き、1962年には[[キューバ危機]]が起きた(キューバ危機の後、米ソ両首脳の間にホット・ラインが設けられ慣例化した)。これらの外交に関するフルシチョフの政治判断は、後にソ連指導部内で「[[U.S.A.(合衆国)]]に譲歩をした」との批判を被った。  1960年代初めには、[[ベルリンの壁]]を構築させ、東西ドイツを巡る緊張関係が強められた。  1964年、クリミアで休暇をとっていたフルシチョフとアナスタス・ミコヤンは、「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためにモスクワに呼び戻された。臨時中央委員会総会では、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求。フルシチョフは、最終的に要求を呑み、党中央委員会第1書記と閣僚会議議長の「自発的」辞任に同意した。以降、年金生活に入った。後任はレオニード・ブレジネフ(第1書記)とアレクセイ・コスイギン(閣僚会議議長)がそれぞれ選ばれた。  政界を引退したフルシチョフは、恩給と運転手つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の別荘で暮らした。7年間の年金生活の後、1971年にモスクワの病院で死去。引退後のフルシチョフの周辺は、常にKGBに監視されていた、とも言われる。  フルシチョフは、歴代のソ連要人が埋葬されている赤の広場脇に埋葬されず、モスクワにあるノボデビッチ墓地に埋葬された。家族らが墓地に記念碑を建てることを党中央委員会から許可されたのは数年後のことだった。 ----  フルシチョフは、晩年、回顧録を執筆。テープに録音し、息子のセルゲイ・フルシチョフらがタイプライターで書き起こした。ソ連指導部から回顧録の執筆中止を要求されたが、フルシチョフはこの要求を拒絶した。  1970年、フルシチョフの入院中にKGBが回顧録の原稿とテープを押収。しかし、原稿のコピーはすでにU.S.A.(合衆国)のタイム社に渡っていた。フルシチョフの回顧録は、はじめ、U.S.A.で刊行され、後各国語に訳出された。{{br}}(日本語版書名は『フルシチョフ回想録』(1972年)、他)  その後、セルゲイ・フルシチョフはU.S.A.に移住。合衆国市民権(国籍)を取得した。 !さらに詳しい情報 *「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  「増補待ち」 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、[[マスタリング・チップス|チップス集]]、[[アイデア・フック]]など  「増補待ち」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[ソヴィエト連邦]] *[[ヨシフ・スターリン]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Nikita_Khrushchev]] *[[Nikita_Khrushchevに関するフリー・ファイル集アーガイブ|http://commons.wikimedia.org/wiki/%D0%9D%D0%B8%D0%BA%D0%B8%D1%82%D0%B0_%D0%A1%D0%B5%D1%80%D0%B3%D0%B5%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87_%D0%A5%D1%80%D1%83%D1%89%D1%91%D0%B2]]([[Wikimedia Commons]]) !!補助資料 :『父フルシチョフ解任と死(上)』:セルゲイ・フルシチョフ 原著、ウィリアム・トーブマン 編、福島 正光 訳,草思社,Tokyo,1991.{{br}}ISBN 4-7942-0436-1 *{{isbnImg('4794204361')}} :『父フルシチョフ解任と死(下)』:セルゲイ・フルシチョフ 原著、ウィリアム・トーブマン 編、福島 正光 訳,草思社,Tokyo,1991.{{br}}ISBN 4-7942-0437-X *{{isbnImg('479420437X')}} :『スターリン批判 フルシチョフ秘密報告』(講談社学術文庫):ニキータ フルシチョフ 原著、志水 速雄 訳、解説,講談社,Tokyo,1977.{{br}}ISBN 4-06-158204-6 *{{isbnImg('4061582046')}} :『フルシチョフ封印されていた証言』:ニキータ フルシチョフ 原著、ジェロルド・シェクター、ヴャチェスラフ・ルチコフ 共編、福島 正光 訳 ,草思社,Tokyo,1991.{{br}}ISBN 4-7942-0405-1 *{{isbnImg('4794204051')}} :『フルシチョフ最後の遺言(上)』:ニキータ フルシチョフ 著、佐藤 亮一 訳,河出書房新社,Tokyo,1975.{{br}}ISBN なし *[[bk1の購入案内をみる|http://www.bk1.co.jp/product/00283702/p-sf0023]] :『フルシチョフ最後の遺言(下)』:ニキータ フルシチョフ 著、佐藤 亮一 訳,河出書房新社,Tokyo,1975.{{br}}ISBN なし *[[bk1の購入案内をみる|http://www.bk1.co.jp/product/00283703/p-sf0023]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイデア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}