!歴史的ヌビア地域 れきしてきヌビアちいき (Historical Nubia) 暫定版 !記事内容追加調査中の暫定判です !PCが予め知ってていい情報  「歴史的ヌビア地域」は、[[アフリカ]]北東部の[[ナイル川]]流域で、現[[スーダン|スーダン共和国]]領北部から、[[エジプト|エジプト=アラブ共和国]]領の南縁にかけてを指す歴史的地域名。古代の地域概念に基づくもので、現在も使われる地名で言うと、概ねスーダンの[[ハルトゥーム]]一縁から、エジプトの[[アスワン]]地域のあたりまでにあたる。 (古代エジプトの伝統的な意識では、アスワンが古代エジプト本来の領域の北限とイメージされていた)  イスラム化した[[ヌビア人]]の末裔は、現在、エジプト側では[[アスワン]]地方に、スーダン側では[[ヌビア沙漠]]の南部に居住。アラブ化した後のスーダンでは、「ヌビアとはエジプト領の一地方と言う意識」が主流になっている。現在のスーダンでは、古代ヌビアの痕跡は古代[[遺跡]]や[[ヌビア沙漠]]の地名に見られる程度になっている。  現在のヌビア沙漠は、古代のヌビア地域の内では辺境部の1つにすぎない。また、エジプト領北部のナセル湖湖畔に存在する[[世界遺産|ユネスコ世界遺産]]が「ヌビア遺跡」と呼ばれているなどの事情が重なり、古代ヌビア(歴史的ヌビア)の領域を誤解している人は少なくない。 !追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性目標値10〜12」 ::'''やや詳しい情報''' 歴史的ヌビア地域は、古代エジプト側では、本来のエジプト領域のすぐ南の地域とイメージされた。地域の集団は、上エジプトとの中継交易も担い、エジプト王朝の勢力が盛んになると、エジプトに従属、服属、あるいは征服され、エジプト側の勢いが衰えるとヌビアの自律的な勢力が栄える、という変遷が、古代の間、何度か繰り返された。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性目標値12〜14」 ::'''詳しい情報''' 古代ヌビアの独自勢力の代表は、[[クシュ王国]]、ナパタ朝([[第25王朝|古代エジプト第25王朝]])、[[メロエ王国]]になる。 :: クシュ王国は、[[中王国時代|古代エジプトの中王国時代]]のエジプト王朝がヌビアに侵出した頃すでに成立していた。その後、[[トトメス1世]]の代の[[第18王朝|古代エジプト第18王朝]]がヌビア地域を征服。クシュ王国は滅ぼされた。 :: ナパタ朝は、B.C.900年頃、ヌビア地域を再統一した王朝。当時、エジプト側は各地に地方政権が分立しており、ナパタ朝は[[テーベ]]の南まで勢力を広げた。[[ピイ]](ピエ)の代に下エジプトまでの各地方勢力に宗主権を認めさせ、ヌビア王朝とも呼ばれる[[第25王朝|古代エジプト第25王朝]]を建てた。 :: その後、第25王朝は、エジプトに侵出した[[アッシリア帝国]]と交戦。結局、B.C.667年にヌビアまで撤退すると、エジプトには関与しなくなった。 :: B.C.593年、[[末期王国時代|古代エジプトの末期王国時代]]のエジプト王朝がヌビアに遠征。ヌビア勢は、現在のハルトゥーム近傍にあった[[メロエ]]まで逃れ、メロエ王国を建国。その後、メロエ王国は、紀元後4世紀に[[エチオピア|エチオピア高原]]の[[アクスム王国]]に滅ぼされるまで、およそ1千年ほど続いた。 :: メロエ王国が滅んだ後、ヌビアにはヌビア人の小王国3つが分立。5世紀頃からキリスト教化した。地域にイスラム教徒が移住するのは、7世紀頃から。14世紀頃から、地域のイスラム化が決定的になった。 :: 16世紀初めに、ヌビア北部で建国された黒人イスラム教徒の王国、フンジ王国がアラブ化しながら、[[ナイル川]]上流域に勢力と領土を拡大。アラブ化しなかったヌビア人は、地域で少数派になっていった。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性目標値14以上」 ::'''専門的知識''' 歴史的ヌビア地域では、ヒトの集住痕跡は新石器時代から見られる。もちろん、非定住の活動痕跡は、ナイル川流域を中心に旧石器時代から見られる。 :: 紀元前4[[千年紀]]頃、すでに墓地の埋葬品から古代エジプト(上エジプト?)製の陶器や銅製品が出土。エジプト地域との交易関係があったことが知られる。これらの墓地は、考古学でAグループと呼ばれる農耕民文化に属すもの。その後、古代エジプト王朝が成立すると、Aグループの文化を示す[[遺物]]は出土しなくなる。[[古王国時代|古代エジプトの古王国時代]]にはナイル川第2急湍〔きゅうたん〕近くにまでエジプト人の町が建造されるようになるので、Aグループの集団は、エジプト側に同化吸収された可能性が高い。(奴隷化された、兵士として徴発された、などの意見もある) :: この後、エジプト王朝の勢力が盛んになると、ヌビア地域は従属、あるいは服属し、エジプト側の勢いが衰えると、ヌビアの自律的な勢力が栄える、という長期サイクルが基本パターンとなって、かなりの間続く。 :: ただし、古代ヌビア人はAグループの文化が途絶えた後、[[第1中間期|古代エジプトの第1中間期]]に、新たに地域に定住した集団。考古学上Cグループと呼ばれるこの集団は、遊牧民的な文化を持っていたが、地域に定住化、中継交易にも従事していった。 !GM向け参考情報  歴史的ヌビア地域は、遺跡も多く、古代エジプトとの関連や、コプト教と中世イスラム教との関連、また、エチオピアのアクスム王国との関連など、いろいろ面白い題材を関わらせ易い地域です。  残念なことに、2006年現在の[[スーダン|スーダン共和国]]の状況は、冒険のメイン舞台として扱うなら難易度は高目と思われます。 !!地域区分  歴史的ヌビア地域は、北部の上ヌビアと南部の下ヌビアとに大別することが、古代になされていました。  古代には、もう少し細かな地域区分として以下のようなものがあった。(時代によって異同もある) :ワワト: アブ(現在の[[エレファンティネ島]])から[[ナイル川]]の第3急湍〔きゅうたん〕のあたりまでの東岸。 :クシュ: ナイル川の第3急湍から、第4急湍あたりまでの流域。(ナパタは、クシュ地方の第3急湍下流に位置した) :イレム(メロエ): ナイル川流域の第4急湍より上流。「イレム」が古い地域名で、メロエ王国が建国してからは「メロエ」の地域名が広まった。王都メロエ自体は、現在の[[ハルトゥーム]]より上流の[[白ナイル]]沿岸に位置した。 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[ランド・マーク]] !!関連項目 *[[歴史的ヌビア地域略史]] //資料リンク !活用や検討 !!活用 ---- !!検討 *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は書き換えられても仕方なし、ってことで) ----