{{toc}} !コルドファン地方 {{br}}コルドファンちほう {{br}}(province of Kordufan,province of Kurdufan) {{br}}簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  「コルドファン地方」は、1994年まで[[スーダン|スーダン共和国]]中部の行政州だった地域。「クルドファン地方」とも。  現在は、[[北コルドファン]]、[[西コルドファン]]、[[南クルドファン]]に3分割されている。  現在の3つの州を統合した行政実体はない。しかし、概ねスーダン領中部の[[ナイル水系]][[左岸|右岸、左岸,河川の〜]]を占めている地域の、歴史的結びつきは、なかなかに強い。 '''【参照地図】''' *[[コルドファン地方の略図|http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Map_Sudan_Kurdufan.png]]{{br}}(コルドファン地方の略図,[[Wikimedia Commons]]) !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  コルドファン地方の総面積は、概ね376,145平方kmほど。2000年時点の推計では、360万人ほどが居住していた、とされた。  2000年当時は、スーダン中央政府と、南部勢力との内戦が続いていた。上記の推計にどこまで信頼がおけるかは不明だが、数値を比較すると、スーダン国土の15%ほどの地域に、11%強の人口が居住していたことになる。  地域の中心的な都市は、現在の北コルドファン州都の[[オベイド]]。  地域には、南部を中心に、あまり高度がなく、大きく緩やかな起伏が多い。ことに、地域南東部、現在の南コルドファン州は、ほとんどが[[ヌバ山地]]に占められている。  例年6月頃から9月頃にかけてが雨季で、熱帯性の植物が急速に繁茂する。残りの乾季の間は、沙漠に似た景観を示し、乾燥に強い低潅木の茂みや、しおれたような背の低い草地が散在する。 (アメリカ映画の西部劇に見られる「西部の荒野」の情景を思い浮かべると、遠くはないだろう)  地域が[[アングロ=エジプト]]の支配地地だった時代を通じ、アラビア・ゴムと綿花の栽培が特産品として有名になった。他に、ピーナッツや、キビなどが主要な農作物になっている。  地域の伝統的なエスニック・グループは、ヌバ族、シルック族、ディンカ族だった。アラブ系のバガラや、カバビシュも、伝統的に、広い地域を牧畜用のテリトリーとしてきている。 (バガラは、アラブ系スーダン人の半遊牧部族。カバビシュは、やはりアラブ系スーダン人でラクダを主な地区従にした牧畜部族) ----  コルドファン地方は、1821年にエジプトのムハンマド・アリーが、息子を司令官にした征服軍を侵攻させるまで[[ケイラ朝]]のダルフール王国の支配圏だった。  当時、地域では、白ナイル流域にあったバラの町(Bara)が、エジプトと[[アビシニア]]、及び、他のアフリカの地方との交易中継地として栄えていたが、ムハンマド・アリー朝のエジプトに征服された。  1837年には、ボヘミア生まれのイグナッツ・パルメ(Ignaz Pallme)が、地域を訪れた。、[[中央アフリカ地域]]との直接交易路を開拓することが目的だったと伝えられている。  イグナッツは、地域を訪れたはじめてのヨーロッパ人ではなかったが、コルドファンに脚を踏み入れたヨーロッパ人としては、それまででもっとも長く滞在し、一帯を探索して歩いた。交易路開拓の試みはうまくいかなかったようだが、ヨーロッパに帰郷後、記録したノートを整理して、コルドファン地方から、[[上エジプト]]の間の地理、地域社会、諸民族と彼らの風俗を整理した著作を著した。  1881年、地域に広まった新興宗教的なイスラム教団マフディー団が、対アングロ=エジプト支配の反乱を起した(マフディーの乱)地域から、アングロ=エジプト勢力を駆逐すると、1883年にオベイドを拠点と定め、ケイラ朝の[[ダルフール地方]]も支配下においた。  しかし、1898年にカイロから、[[U.K.(連合王国)]]のウィリアム・ヒックス将軍に率いられた氾濫討伐軍が派遣されると、マフディー国家は短期間で崩壊。地域はアングロ=エジプト政府に再支配された。移行、コルドファン地方は、スーダンの一地方として扱われ、現在に至っている。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  コルドファンは、1919年にアングロ=エジプト当局が、当時のスーダン領に策定した8つの大地域圏行政区(Province)の1つに数えられていた。当初8つの地域圏の領域には曖昧な点も少なくなかったが、[[第2次世界大戦]]がはじまった頃には、領域の整備も進んだようだ。  1974年、スーダン民主共和国政府(当時)は、コルドファン大地域圏を、南コルドファン州と北コルドファン州とに分割。当時は、大地域圏が州の上位の行政区として扱われていた。  1994年、スーダン共和国政府は、全土を現行の26州に再編成。行政区としてのコルドファン大地域圏は、行政実体を失い、コルドファン地方も現行の、北、南、西の3州に再編成された。 !GM向け参考情報 *GM向けの捕捉情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど !!参照情報 ||領域名||面積||面積比率||人口推計||人口推計順去年||人口比率||平均人口密度|| ||コルドファン地方(全域)||376,145平方km||100%||およそ360万人||下記データの総計による目安概数||100%||9人ほど|| ||北コルドファン州||185,302平方km||49%強||およそ140万人||2000年||39%弱||7人ほど|| ||西コルドファン州||111,373平方km||30%弱||およそ110万人||2000年||30%強||9人ほど|| ||南コルドファン州||79,470平方km||20%強||およそ110万人||2000年||30%強||13人ほど|| ||スーダン共和国全域||2,506,000平方km||666%||3109万3千人||2000年||863%||12人ほど|| !!人口分布 '''【参照地図】''' *[[Sudan|http://sedac.ciesin.columbia.edu/gpw/country.jsp?iso=SDN]]([[Gridded Population of the World, version3]]){{br}} 統計に基づいた人口分布地図が公開されています(コンテンツの上部に記されている統計準拠年には注意)。  「増補待ち」 !!主要交通路  「中部スーダン地方」の項を参照のこと。⇒ [[中部スーダン地方]] !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[ランド・マーク]] !!関連項目 *[[スーダン共和国]] *[[スーダン共和国の諸地域]] *[[中部スーダン地方]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Kurdufan]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) *2007-01-19 (金) 16:10:11 鍼原神無 : 「さらに詳しい情報」と「GM向け参考情報」とを増補(のみ)。 {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}