{{toc}} !クルディスタン共和国 {{br}}クルディスタンきょうわこく {{br}}(Republic of Kurdistan) {{br}}暫定版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !記事内容追加調査中の暫定版です !PCが予め知ってていい情報  特に無し。  「クルディスタン共和国」については、関連技能を持たないPCが予め知らないでいても不自然ではないと思われます。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  「クルディスタン共和国」は、[[第2次世界大戦]]後の1946年に、1年に満たない期間、[[現イラン領|イラン=イスラム共和国]]北西部に位置する[[マハーバード市|マハーバード]]を拠点に、独立を宣言したクルド系自称国家の正称。  「自称」国家と呼ばざるを得ないのは、[[ソヴィエト連邦]]の支援を受けて独立を宣言したものの、ソ連が軍を撤退させた後は、あらゆる国からの国家承認を得られず、国際的に孤立したまま、短期間で消滅したため。ソ連軍撤退の背景には、各方面での2次大戦後の戦後処理を巡る、ソ連と[[U.S.A.(合州国)]]との間の、思惑の食い違い、対立、そして駆け引きがあったと、目される。  共和国は1946年1月に独立を宣言。同年6月にソ連軍が地域から撤収。前後して、当時のイランの正統国家だった、パフラヴィー朝(“イラン”への国名改称は、1935年)が軍事侵攻。同年12月には、共和国崩壊。翌1947年、正式にクルディスタン共和国の消滅が宣言され、3月には、共和国大統領他の指導者たちが処刑された。  クルド系独立派勢力が、正式国名として称したのが「クルディスタン共和国」しばしば、非公式な通称として「マハーバード共和国」(あるいは「マハーバードの共和国」)と、呼ばれる。  「クルディスタン共和国(マハーバード共和国)」は、[[第1次世界大戦]]の戦後処理で、クルド系民族の集団に諸国が約束したにも関わらず、実現されなかったクルド人国家設立を求めた試みとしては、[[アララト共和国]]に次ぐ、2度めのものだった。 !さらに詳しい情報 *「難易度が、ある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  1945年8月、にマハーバードで創設されたイラン=クルド民主党(PKDI)の主要メンバーは、9月に、新たな共産主義共和国建国の支援を求め、当時のアゼルバイイジャン=ソヴィエト社会主義共和国を訪れた。  背景には、第2次世界大戦中の1941年にソ連軍が、イラン領北西部に侵攻し、地域を制圧していた、との事情があった。これは、パフラヴィー朝初代のレザー・ハーンが親ナチ的政策を重ねたため、U.K.軍とソ連軍の共同進駐を招いたもので、レザー・ハーンは息子に譲位して国外逃亡せざるを得なくなった。  伝えられるところでは、PKDI指導者たちは、[[バクー]]で、当時のソ連邦が「[[イラニアン・アゼルバイジャン|ペルシアン・アゼルバイジャン]]で、現在の[[西アゼルバイジャン|西アゼルバイジャン州]]のアゼリー人分離主義勢力による、ソヴィエト社会主義国家建国を支援する計画がある」と、教えられ、「PKDIもマハーバードで、アゼリー人勢力のソヴィエト国家建国に、同調すべきだ」と示唆された、と言われる。  ちなみに、マハーバード市は、現在の西アゼルバイジャン州で[[ウルミエ湖]]の南に位置している。  翌、1946年1月22日、PKDIを中心に、マハーバード一帯のクルド系政治勢力は、クルディスタン共和国の建国を宣言。同時に公表された政治マニュフェストでは、以下のような方針も表明されていた。 *クルド系イラン人による、イラン国家内での自治の実現 *公教育、及び、自治におけるクルド系言語の公的使用([[公用語化|公用語]]) *クルディスタン地域の公的問題、及び、社会的問題を管理するため、地域議会を選挙で創設 *地域の官吏を、全員地域出身者のみから選定 *アゼルバイジャンの人びととの、連体と友愛 *貴賎を問わず、適用される単一の法体系の確立  実は、第2次世界大戦末期の1943年、ソ連、[[U.K.(連合王国)]]、[[U.S.A.(合州国)]]の3国の首脳は、[[テヘラン]]で会合。イランの主権と領土保全を共同声明を出していた。3国首脳会談では、進駐軍は、1946年までにペルシア領を撤収することが申し合わされてもいた。  おそらくは、ソ連側には、親ソ連的な政権がイラン領北西部に樹立できれば、傀儡化しいくことも可能、といったような思惑があったのかもしれない。  一方、マハーバードのPKDIの方も、地域住民が、クルド系ばかりではなかったことや、クルド系でも、非クルド系でも、複雑な部族の利害が重視され、一枚岩ではなかったことが、災いした。地域の分離派アゼリー人勢力との連携、政治調整にも苦労していたようだ。  結局、ソ連は、U.K.、U.S.A.などに非難を被り、支援軍を早期に撤収せざるを得なかった。ソ連軍が撤退すると、マハーバードの政権は、一挙に瓦解した、と伝えられている。クルド人も非クルド人も、多数の部族勢力に分裂してしまったようだ。  マハーバードのクルディスタン共和国、及び、西アゼルバイジャンの分離派勢力は、国際的には「イラン国内の反乱」と見なされ、軍による反乱鎮圧も国際的に承認された。  500人ほどのPKDIメンバーは、共和国崩壊に前後して、ソ連に亡命した。彼らが、帰郷したのは、1953年にイランでクーデタが起きた後のことと目されている。 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 !リンク *[[+αのワールド用語]] *[[小辞典]] !!関連項目 *[[クルディスタン]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Republic of Kurdistan - (Mahabad)|http://en.wikipedia.org/wiki/Republic_of_Mahabad]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}