{{toc}} !サルゴン2世 サルゴンにせい (SargonII) !PCが予め知ってていい情報  サルゴン2世は、古代[[アッシリア帝国]]の支配者。紀元前8世紀の第4四半期頃に統治した。 !追加情報 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」、「情報+知性 目標値12〜14」 ::'''やや詳しい情報''' [[アッシリア帝王|古代アッシリアの王位]]としての在位は、B.C.722年〜B.C.705年。普通は、帝国初期の末に、アッシリア帝国に絶頂期をもたらした、とされる。 :: サルゴン2世の生年は、不祥。「古代イスラエル王国を滅ぼした帝王」として知られる。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''さらに詳しい情報''' ユダヤ教聖典の『[[列王記]]』には、イスラエル王国を滅ぼしたのは、先代にあたる[[シャルマネセル5世]]であるかのような記述があり、古くはそのように信じられていた。 :: しかし、現在のイラクから発掘された王碑文では、サルゴン2世がイスラエルから大勢の捕囚を強制連行したことが誇らしげに記されている。滅亡直前のイスラエル王国領だった[[サマリア]]に、諸邦の民を移住させた、と『列王記』に記されているのもサルゴン2世の施策と考えられる。 :: サルゴン2世の先代にあたる[[シャルマネセル5世]]は、アッシリアに叛乱を起こしたイスラエル王国討伐の遠征に出征し、おそらくは、一旦降伏させた後、帰路途上で急死したと思われる(あるいは、遠征先で攻囲の途中で死んだ、とも言われる)。 :: サルゴン2世は、おそらくシャルマネセル5世急死後、アッシリア内部での帝位簒奪戦に勝利した後、イスラエル王国に再遠征。これを滅ぼした、と推測されている。このため、「サルゴン2世は、アッシリアの帝室と関係ない身分から出た帝位簒奪者だ」という説がある。現在は、「先代シャルマネセル5世の異母兄弟で、あるいは腹違いなど傍流の出だったのだろうが、王族には連なっていた」と目されることが多い。 :: サルゴン2世は他に、10年間ほど[[バビロニア]]の支配権を握った[[メロダク・バラダン2世]]を破り、バビロニアに対するアッシリアの支配権を回復した。 :: [[アナトリア]]でも、[[フリュギア王国]]の[[ミダス王]]や[[ウラルトゥ王国]]と度々交戦した。後、ミダス王は、アッシリアと講和。[[キンメリア人]]勢力の侵出に脅かされたためらしい。[[ウラルトゥ王国]]の方は、アッシリア高原東部から、現在のシリア北部の諸都市が、アッシリアに叛乱を起こすよう何かと支援した。 :: サルゴン2世は、この方面の叛乱に最も手を焼いた観がある。結局、ウラルトゥとの関係に打開策を見出せないまま死没した。最後は、[[キンメリア人]]の軍勢と交戦中、戦死したらしい。 ---- :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値14以上」 ::'''専門的知識''' 「サルゴン」のアッシリア名は、「シャルル・キン」。「固き王=確固たる王」を意味し「王は正統」が含意されていた、と言われる。[[センナケリブ]]の父。つまり、[[エサルハッドン]]、[[アッシュル・バニパル]]と継承された王統の祖にあたる。王位簒奪説があり、この説ではサルゴンの王統を「サルゴン王朝」と呼ぶ。 :: ちなみに、[[アッカド語]]系統の言語で「固き王」を意味する「シャルル・キン」から転じたサルゴンだが、同じ王名を使った[[アッカドのサルゴン]](サルゴン大王)とはもちろん無関係。2世も、アッシリアのサルゴン1世の王名を踏まえたもので、「サルゴン2世の王名はアッカドのサルゴンをふまえた」というのは、間違った俗説。 !GM向け参考情報  サルゴン2世や、彼が関った出来事は、「[[オーパーツ]]の背景に古代史ミステリーを絡めたいとき」、「教科書的な歴史の陰に古代の[[シャドウ・ウォーズ]]を想定したいとき」などに使えます。  彼の系譜には、現在の研究者の間に根強い疑義があって、ロマンチックな歴史譚には事欠かない人物です。  研究者の間でも、主に「それまでの王朝を簒奪した」という説と、「いや、傍系だったがそれまでの王朝の系譜には連なっていた」という説との間に議論があります。  サルゴン2世は、2代前の[[ティグラト・ピラセル3世]]が推し進めた帝国の支配域拡大路線を継承しました。  他にも―― *[[古代イスラエル王国]]([[北王国]]、当時領土は[[サマリア]]のみに縮退していた)を陥しイスラエル王国を滅ぼした。 *古代イスラエルの主要な家系を強制移住させた(捕囚政策)。 *サマリヤの地に、他の民族を強制移住させた。 *アッシリアの政治的支配から一時脱した[[バビロニア]]に対する支配圏を再度奪取した。 *アナトリアにあった[[フリュギア王国]]のミダス王([[ミダ王]])と抗争した。  ――、などなど、シナリオ用の話題にはことかかない人物です。 !!事跡  [[ティグラト・ピラセル3世]]の跡を継いだ、シャルマネセル5世は、在位わずか5、6年という短期間(B.C.727年〜B.C.722年)で死没。遠征先の古代イスラエル王国征服後の岐路途上急死した(?)。  シャルルマネセル5世が死没したとき、将軍職にあったサルゴン2世は、当時の王都カルフ(現、ニムルド)にあったが、即位前後の記録はよくわからない。  おそらくは、アッシリア中央で起きた帝位争奪戦に勝ち、実力で帝位に就いたかと推測されている。  経緯は定かに解明されてはいないが、遠征先でのシャルマネセルの急死という突発自体により、王都でかなりの混乱が生じたことは確からしい。 :B.C.722年:サルゴン2世、即位。即位年に軍勢を[[シリア・パレスティナ地域]]に派遣。古代イスラエル王国(北王国)の王都サマリヤを陥落さすと、イスラエル領を支配下に治めた。イスラエルの主要な家系は強制移住させられた(捕囚政策)。 ::同年、[[タウロス山系|タウロス山脈]]に割拠していた、[[新ヒッタイト]]の小国家群にも軍勢を差し向けている。これらの小国家は、[[ウラルトゥ王国]]に援助され、機会があれば反アッシリア的な動きを示していたようだ。 :B.C.721年 治世2年め:アッシリアの支配下にあったバビロニアが、バビロンを中心に離反。この離反の中心人物は、ペルシア湾湾岸にいたカルデア系部族の首長[[メロダク・バラダン2世]]だった。 :B.C.720年 治世3年め:アッシリア軍、シリア・パレスティナの諸都市同盟を破る。被征服民は、アッシリア領各地に強制移住させれられる(捕囚政策)。 ::この頃、それまでの行政首都カルフ(現、ニムルド)に代わる都、[[ドゥール・シャルルキン|ドゥール・シャルルキンの遺跡]](現コルサバード)の建造着手か(?)。 :B.C.716年 治世7年め:サルゴン2世、軍勢を率いて[[アラビア半島]]に遠征。女王サムシや、サバ王イタマルに、金、宝石、香料、馬、ラクダなどの朝貢を強要した。 :B.C.714年 治世9年め:この頃、アッシリア軍、ウラルトゥ山地に侵攻。苦戦。 :B.C.712年 治世11年め:この頃までに、アッシリア帝国は、エジプト王朝に後押しされていたパレスティナ地方の諸都市の同盟軍と交戦を断続。優位にたった。 :B.C.709年 治世14年め:この頃、フリュギア王国(アナトリア中東部)のミダス王、サルゴン2世のアッシリアと講和。以前から、ミダス王はサルゴン2世と小競り合いを繰り返していたが、後背をキンメリア人に侵されたことが講和の理由だったらしい。 ::同年、苦戦の末、バビロニア王国に勝利。メロダク・バラダン2世は姿をくらました。実は、メロダク・バラダンは、エラム人の間に身を潜め、サルゴン2世の死後、息子のセンナケリブに挑んでくるのだが、それは別の話である。バビロニア地方の諸都市は、なお数年、抵抗戦を続ける。 :B.C.708年 治世15年め:この頃、サルゴン2世、一応の完成をみたドゥル・シャルルキンに移動。ドゥール・シャルルキンの王宮には、フリュギア、ディルムン、キプロス島などから祝賀使が到来した、と伝えられる。 :B.C.705年 治世18年め:サルゴン2世、アナトリア方面に遠征し、キンメリア人、[[スキタイ人]]と交戦中戦没。後継は、[[センナケリブ]]。 !!人物像  サルゴン2世の人物像で、最大の話題は、彼の系譜でしょう。  即位に関連した王碑文の内で、自分の父の名を挙げる慣例を守っていないため、現代の研究史では、古くから王位簒奪者とみなされていました。  このため、サルゴン2世を祖とし、センナケリブ、エサルハッドン、アッシュル・バニパルと継承された王統を、特に「サルゴン王朝」と呼ぶこともあります。彼の王名の含意「王は正統」に、簒奪者の横顔を読み取る論者は少なくありません。またカルフの王宮を去ったことも、よく、王位簒奪と関係づけて論じられます。  しかし、サルゴン2世が、[[ティグラト・ピラセル3世]]の息子だった、と記した碑文が発見され、シャルルマネセル5世の傍系の兄弟だったとする説が浮上。現在は、どちらかと言うと、こちらの兄弟説の方が有力説になっているようです。  一方、学者の間の議論とはあまり関係なく、傍系の兄弟ではあっても、サルゴン2世がシャルルマネセル5世を暗殺した可能性はある、といった根拠が定かでないロマンも語られています。 ----  意外なことに、イスラル王国(北王国)を滅ぼしたサルゴン2世については、ユダヤ教聖典(『旧約』)にはあまり言及がありません。  『列王記』には、イスラエル王国を滅ぼしたのは、シャルルマネセル5世であるように記されています。あるいは、単に「アッシリアの王」とも。  イスラエル王国滅亡後、補囚にあわずにすんだイスラエル人の難民が多数、ユダ王国(南王国)に流入。これらの混乱を反映して、聖典記録に混乱が生じた、と考える人は少なくないです。  一方、最後のイスラエル王となった[[ホシュア]]に対するユダ王国側の反感が影響した結果、イスラエル王国はシャルルマネセル5世に滅ぼされた、と伝えられた、というやや穿った説もあります。  というのは、当初ホシュア王は、侵攻してきたシャルルマネセル王に貢ぎ物を送り、領土を割譲。イスラエルがアッシリアの従属国と化すことを受け入れたからです。『列王記』には、その後、エジプト王朝にそそのかされたホシュアがアッシリアに貢ぎ物を送らなくなったため、再度のアッシリア侵攻を招いた、とあります。  要するに、そもそも王が売国をしたので、その報いとして、シャルルマネセルに滅ぼされたは神の意志、という考えがあった、という説です。  ちなみに『イザヤ書』20章には、サルゴンの名が見られます。 !!アイディア・フック :失われた支族: サルゴン2世に滅ぼされたイスラエル王国から捕囚にされたイスラエル人が、後に「喪われた支族」という歴史伝説のルーツになった。 :: ちなみに、捕囚政策というのは、征服国の住民を根こそぎ強制移住させるものではない。後々、反抗の中核になりそうな、上層有力家系を中心に連れ去るものである。 :: 普通の研究者は、単に各地に分散移住させれらたイスラエル人も、他の被征服民族同様、移住先の民族に同化吸収され、イスラエル人としてのアイデンティティを喪った、と考えている。 :: ともあれ、サルゴン2世に強制連行さた古代イスラエル人が何かの[[オーパーツ]]をサルゴンに伝えた、とか、捕囚から逃れたイスラエル人が、アッシリアの手に渡らないように、どこかにオーパーツを隠した、といった料理は考えられる。 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[アッシリア帝国]] *[[新アッシリア時代]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Sargon_II]] *[[「サルゴン2世と高官」(レリーフ)|http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/collec/ao/ao19873/ao_f.htm]]{{br}}[[「サルゴン王(2世)第8次遠征の粘土板」|http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/collec/ao/ao5372/ao_f.htm]]{{br}}[[ルーブル美術館日本語サイト|http://www.louvre.or.jp/]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) *2006-11-09 (木) 08:20:58 鍼原神無 : 関連項目「[[シャルマネセル5世]]」に併せて内容を少し詳しく再整理。同時に情報等級も調整してみました。 {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}