{{toc}} !シャルマネセル5世 シャルマネセル ごせい (Shalmaneser V) 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  シャルマネセル5世は、[[アッシリア帝国]]の支配者だった[[ティグラト・ピラセル3世]]の息子。父の跡を継ぎ、紀元前8世紀前半に、帝国を支配した。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  シャルマネセル5世は、父であるティグラト・ピラセル3世の在世中、フェニキア地方([[現レバノン領|レバノン共和国]]のあたり)の属領総督だった。  ティグラト・ピラセル3世が死没したB.C.727年に、[[アッシリア王位|古代アッシリアの王位]]を継承。「シャルマネセル5世」の名は、ユダヤ教聖典(『旧約』)で伝えられた名。[[アッカド語]]に基づくアッシリア王名は、「シャルマヌ・アシャリド(Shulmanu-asharid)」で、意味は「シャルマヌ神は至高なり」。  シャルマネセル5世の治世は、B.C.722年までの足掛け6年間に過ぎないが、王碑文の類が残っていないため、治世について、ほとんど何もわかっていない。わずかに、当時のイスラエル国王ホシェアが、エジプト王朝と結んでアッシリアに叛旗を翻し、シャルマネセル3世の遠征軍に攻められたことが、ユダヤ教聖典の『[[列王記]]』と、バビロニアの年代記とに記され、伝えられている。  当時、イスラエル王国の領土だった[[サマリア]]は、アッシリアの攻囲に数年間持ちこたえた後、降伏したようだ。シャルマネセル5世は、遠征からの帰路途上、死没したと思われるが[[定かではない|定かでない]]。普通、B.C.722年のこととされている。  あるいは、占領地サマリアで死没した、と言われることもあるが『列王記』には、それを思わせる記述はない。 ----  『列王記』では、下巻の17章に、[[イスラエル王国]]を滅亡させたのが、シャルマネセル5世であるかのように記されている。  一方、アッシリア側の碑文類では、シャルマネセルの次代にあたる[[サルゴン2世]]が、イスラエル王国を滅ぼし、捕囚をアッシリアに強制移住させたことが記されている。  現在、普通、イスラエル王国滅亡は、サルゴン2世の命による戦争の結果、とされている。  『歴代記』の記述の混乱については、「イスラエル王国滅亡の前後に[[ユダ王国]]に逃れた難民たちの告げた混乱した報告が記録され、それが後代『歴代記』編纂時にソースとして用いられたのだろう」と言われることが多い。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  アラム語などで残された断片的な古代記録に「ウルラユ」という名で記された人物がシャルマネセル5世にあたる、と考えられている。「ウルラユ」は「エルルの月に生まれた」と言う意味の名で、シャルマネセル5世の王位継承前の名前だった可能性がある。 !GM向け参考情報 *GM向けの捕捉情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[新アッシリア時代]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Shalmaneser_V]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}