{{toc}} !シャムシ・イル (Shamshi-ilu) 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  特になし。  シャムシ・イルについては、割と歴史に詳しい人でなければ、聞いたこともないという人は多いでしょう。関連技能を持たないPCが予め知らないでいても不思議ではないと思われます。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  シャムシ・イルは、紀元前9世紀末頃から紀元前8世紀前半にかけての[[アッシリア|アッシリア国家]]の武官。[[アダド・ニラリ3世]](在位、B.C.810年〜B.C.783年)の代のいずれかの時期に、アッシリア軍の総指揮官(大将軍)に任じられた。  アダド・ニラリ3世の死後、[[シャルマネセル4世]]、[[アッシュル・ダン3世]]、[[アッシュル・ニラリ5世]]と3代に渡り軍総司令官の地位に座り、後年に至るほど、専横が甚だしくなった、と、伝えられている。  シャムシ・イルが、アッシリア軍の総司令官として振舞っていた時期は、アッシリアの王碑文が少なく、あっても王宮の細かな動きを窺う手がかりのとぼしい時期にあたる。  他方、シャムシ・イルや、アッシリアの諸将による各方面への遠征記録はかなり多く、伝えられる大将軍シャムシ・イルの権勢を想像させる。  さらに、シャムシ・イルが大将軍だった時期を通じて、遠征地を征服した諸将の間に、征服地でアッシリア中央から半ば独立した支配者のような振る舞うことが増えていった。これも、各地の古代記録から推定される。こうしたできごとも、古代の歴史伝承に伝えられる「シャムシ・イルの専横」と符合する。  総じて、アッシリア大将軍としてのシャムシ・イルは四方に活発な軍事遠征を繰り広げ、多くの国を征服したが、それらをアッシリアの国家システムに統合することはしなかった、と言える。かえって、アッシリア国家統治の分裂を進める大きな原因を作ったと言えるだろう。  シャムシ・イルの最後については、[[定かには知られていない|定かでない]]。現在までのところ、[[ティグラト・ピラセル3世]]の代に、シャムシ・イルが存命したことを伝える記録は知られていない。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  最後については、定かでないシャムシ・イルだが、[[一説に|一説に〜]]、現、[[シリア領|シリア=アラブ共和国]]の[[ユーフラテス|ユーフラテス川]]流域に知られる[[テル・アル・アーマル]](Tall al-Ahmar)の[[遺跡]]で発掘された地下墓所に遺る3基の墓標の1つが、シャムシ・イルの墓標かもしれない、とも言われている。  これらの墓標には、紀元前8世紀に、都市を支配していたとされる「アラム人の王、バール・ガヤー(Bar Ga'yah)」について記されている。このバール・ガヤーを、あるいはシャムシ・イルと同一人物ではないか(?)、とする説があるのだ。  テル・アル・アーマルの位置にあった古代都市は、[[シャルマネセル3世]]の代には、アッシリアに征服され、アッシリアによるユーフラテス川流域支配の拠点都市とされていた。 !GM向け参考情報 *GM向けの捕捉情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 !リンク *[[+αのワールド用語]] *[[小辞典]] !!関連項目 *[[新アッシリア時代]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Til_Barsip]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}