{{toc}} !シン・シャル・イシュクン (Sinsharishkun) 簡易版 !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  シン・シャル・イシュクンは、[[アッシリア]]最末期、[[アッシリア帝国]]滅亡期の人物。おそらくは、[[アッシュル・バニパル]]の息子と思われる、紀元前7世紀頃の人物。  同時代の記録はほとんど伝っていない人物だが、あるいは、紀元前3世紀に[[ベロッソス]]が「サラカス(Saracus)」として記した人物である可能性は高い。 !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  シン・シャル・イシュクンの名は、[[ウルクの遺跡]]から発見された石碑に刻まれた、彼の[[バビロニア]]統治7年目と記された碑文に見られる。  この碑文に基づいて解釈されたシン・シャル・イシュクンの人物像には、主要なもので2通りの説がある。  1つは、「シン・シャル・イシュクンは、[[アッシュル・エティル・イラニ]]の兄弟」とする説。  どちらかと言えば、こちらが主流の説で。よく、「アッシュル・バニパルがシン・シャル・イシュクンを後継者に指名したため、兄弟のアッシュル・エティル・イラニは反逆し、アッシュル・バニパルを殺害した」と説かれる。  アッシュル・エティル・イラニの兄弟説では「シン・シャル・イシュクンは、メディア王国と新バビロニアとの連合軍がニネヴェを攻め落とした時に、落城と共に死んだ」とされる。ニネヴェの落城は、B.C.612年のこととされている。  もう1つの説は、「シン・シャル・イシュクンは、アッシュル・エティル・イラニがバビロニアを統治するにあたってのバビロニア王名」とするもの。  この説は、どちらかと言えば、異説に近いが、かと言って根も葉もない説でもない。  しばしば、「アッシュル・エティル・イラニは、アッシュル・バニパルによって後継者に任じられ、バビロニア王に封じられた」と説かれる。  アッシュル・エティル・イラニの同一人物説では、「[[シン・シュム・リシル]]に王位を奪われ死亡した」とされることが多い。B.C.623年頃のことらしい。  なお、シン・シャル・イシュクンは、[[アッシリア帝国]]最後の支配者と目されている[[アッシュル・ウバリト2世]]の兄弟だったかもしれない。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  「増補待ち」 !GM向け参考情報 *GM向けの捕捉情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!関連項目 *[[新アッシリア時代]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Sinsharishkun]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイディア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}