{{toc}} !ザールラント州 {{br}}ザールラントしゅう {{br}}(簡易版) !簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。 :'''フランス語名''':Sarre :'''英語表記''':Saarland !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  「ザールラント州」は、[[ドイツ連邦共和国]]の連邦州の1つ。  ドイツ領西縁の中南部で、[[フランス共和国]]、[[ルクセンブルク大公国]]に隣接している。 ----  州都[[ザールブリュッケン市|ザールブリュッケン]]近くのフェルクリンゲンの街には、[[ユネスコ]]の[[世界遺産|ユネスコ世界遺産]]に登録されている[[フェルクリンゲン製鉄所]]がある。 :'''【参照地図】''': *ザールラント州略地図,[[Wikimedia Commons]]){{br}}[[Image:Germany Laender Saarland|http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/Germany_Laender_Saarland.png]] !やや詳しい情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。  ザールラント州は、[[ドイツ連邦共和国]]で、現在16営まれている連邦州の1つ。  北縁から東縁にかけて[[ラインラント=プファルツ州]]に隣接。西縁で[[ルクセンブルク大公国]]と、極、短距離接し、南縁で[[フランス共和国]]の[[ロレーヌ地域圏]]に隣接している。  地域は、石炭、鉄鉱石を産し、早くから重工業が発展した。ザール炭田の埋蔵石炭量は、ドイツ領で第2位と言われている。  州域面積は、2,569平方km。ドイツ連邦共和国の16州から、都市州の[[ベルリン]]、[[ハンブルク]]を除くと、面積が最小の州。  緩やかな丘陵、あるいは、極、低い山地が連続している地勢。最高点は、標高695m強。州域の1/3ほどは樹林に覆われている。  州名の由来になった[[ザール川|サール川]]が、州域南部から北西方向に州の西部を貫流。この流域には平坦地が断続している。  州都の[[ザールブリュッケン市|ザールブリュッケン]]は、ザール川がフランスとの国境を越えてきた直後の流域に立地。州域南縁部、東西概ね中ほどの東寄りになっている。 ----  現行のザールラント州の領域がひとまとまりの行政圏として編成されたのは、[[第1次世界大戦]]の前後のこと。かつて、地域にはプロシア領やバヴァリア領などが混在していた。  ヴェルサイユ条約(1919年)に基づいて編成されたサール地域は、1920年から15年間、フランスの国際連盟委任統治に委ねられた。1935年にヴェルサイユ条約の期限が切れた後、地域は住民投票でドイツへの帰属を選択。 //In 1933, a considerable number of anti-Nazi Germans fled to the Saar, as it was the only remaining part of Germany that was not under the political control of the Third Reich.As a result, anti-Nazi groups campaigned heavily for the Saarland to remain under French control as long as Adolf Hitler ruled Germany, but only a small number of people favored that condition. //When the original 15-year-term was over, a plebiscite was held in the territory on 13 January 1935: 90.3% of those voting favored joining Germany.  第2次世界大戦の戦後処理でも、ザールラントは、1945年〜1956年の間フランスの占領統治下に置かれた。  当時のフランス政府の思惑としては、ザールラント併合の政策もあったかもしれない。1954年、フランス政府と西ドイツ政府は、ザールラントを独立領に移行させる詳細なプランを公表。しかし、1957年に実施された住民投票で、地域はドイツ側への帰属を選択し現在に至る。 //Attempts to gain control of or permanently internationalize the Ruhr (see International Authority for the Ruhr ) area were abandoned in 1951 with the German agreement to pool its coal and steel resources (see European Coal and Steel Community) in return for full political control of the Ruhr.  2008年現在、ザールラント州は、“郡”に相当する行政区分6つから構成されている。 :'''【参照地図】''': *ザールラント州の“郡”構成([[Wikimedia Commons]]){{br}}[[Image:Saarland map|http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ee/Saarland_map.png]]{{br}}地図中の「3」が、[[ザールブリュッケン市|ザールブリュッケン]]を行政中心地にした“郡”。 ----  1971年以降、ザールラント州は、[[サーラレックス地域]]に加盟。ドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクをまたいで、経済、民間の交流が盛んに営まれている。背景には、2次大戦後のフランス占領時代に、フランス語の影響が強まったとの事情がある、とも言われる。ザールラント州以外の旧西ドイツでは、戦後、中等教育で第2外国語として、普通、英語が教えられたのに対し、戦後のザールラントでは、フランス語が教えられるようになったからだ。 ----  鉄器時代、地域はケルト系部族の[[メディオマトリキ族]]、[[トレウェリ族]]の勢力圏だった。トレウェリ族の方は、ケルト系とゲルマン系が混交した部族だったようだ。州域北部には、ケルト族の城砦遺跡が知られている。  紀元前1世紀、地域はローマ帝国のベルギカ地方の1部に納められた。先住のケルト人たちは、ローマ帝国の各所から移住してきた帝国臣民たちと混交していった。この頃のローマ風の館や荘園、村落の遺跡も州域に複数遺っている。  地域は、ローマ帝国の[[ゲルマニアの境界]]の西方にあったが、3世紀初頭、ゲルマン系諸族の国境線が破られると[[アレマン族]]が支配的に。その後、5世紀頃アレマン族がフランク王国に服属すると、部族公領アレマニアの1部として、フランク領に納められた。フランク王国の分裂後は、東フランク王国に属し、ドイツ王国、神聖ローマ帝国の小さな領邦複数がひしめき合う地域になった。  1792年、革命フランス政府の共和国軍が地域を占領。地域の概ねは「サール県」に編成された。ナポレオン戦争(1803年〜1815年)の戦後処理では、地域はプロシア領ライン地方、ババリア王国ライン地方、オルデンブルク大公領に3分された。  その後、ナポレオン3世の軍勢に侵攻され、1870年にはフランス・プロシア戦争(普仏戦争)の戦場となった。地域の全域がドイツ帝国領になったのは、フランス・プロシア戦争の戦後のこと。 !さらに詳しい情報 *「難易度がある程度高い判定に成功すればわかる情報」とします。  「増補待ち」。 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、マスタリング・チップス、アイディア・フックなど  「増補待ち」。 !!別称類 !!![[主要国の言語|ハウス処理:「主要国の言語」の処理]] *フランス語名=Sarre(サール) *英語表記=Saarland(サールランド) *スペイン語表記=Sarre *アラビア語名の音=(調査中) *ロシア語表記=Саар *中国語表記=〓〓{{br}}(表示できない漢字2文字で記される) !!!その他 *[[ドイツ語]]名=Saarland(ザールラント) !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]] !!関連項目 *[[ドイツ連邦共和国]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Saarland]]{{br}}[[Wikipedia英語版:States_of_Germany]] !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイデア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}