{{toc}} !タハルカ :'''アラビア語名''':(調査中) :'''英語表記''':Taharqa :'''フランス語表記''':Taharqa !PCが予め知ってていい情報 *「判定処理なしに、PCが知ってることにしていい」情報とします。  タハルカは、[[古代エジプト]][[新王国時代|古代エジプトの新王国時代]]末期の[[ファラオ]]。[[アッシリア帝国]]との戦いで[[下エジプト]]の支配権を失った。 '''【参照イメージ】''' *[[タハルカの石棺|http://www.brooklynmuseum.org/exhibitions/2003/egypt-reborn/ancient-egypt/k4/timeline/taharqa_detail_img]]([[Brooklyn Museum|http://www.brooklynmuseum.org/]]の、[[Egypt Reborn|http://www.brooklynmuseum.org/exhibitions/2003/egypt-reborn/]]) !追加情報 *「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。 :'''小事典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値=8〜10」「情報+知性 目標値=10〜12」 ::'''簡単な情報''' (必要に応じて[[ゲーム前ブリーフィング]]や[[ブレイク]]を使いGMから素でプレイヤーに伝えてもいいかもしれない) :: [[ヌビア王朝]]と呼ばれる古代エジプト[[第25王朝|古代エジプトの第25王朝]]のファラオ。紀元前7世紀の前半に在位した。 :: 普通、同王朝の先代ファラオ、[[シャバタカ]]の弟とされる。兄弟の王位継承はヌビア的で、エジプト王朝のスタンダードとは異なっていたが、ヌビア王朝は、概ね伝統的なファラオ観に則ってエジプトを統治。タハルカも、同王朝の他のファラオ同様、各所で多数の宗教建築をおこなわせた。 :: ちなみに、第25王朝の開祖[[ピイ]](ピエ)の息子とする異説も伝わっている。 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値12〜14」 ::'''やや詳しい情報''' タハルカの在位期間は、B.C.690年頃〜B.C.644年。 :: エジプトとパレスティナ地方との境界部で、アッシリアに従属していたアシュケロンと同盟。B.C.673年頃、[[エサルハッドン]]の代のアッシリア軍と会戦し、一旦は退けた。 :: B.C.671年、エサルハッドンの軍勢に侵入され、[[メンフィス|メンフィスの遺跡]](現、ミトラヒナ)までを制圧される。タハルカは、一旦、テーベ(現[[ルクソール]])に退いた。しかし、タハルカは、アッシリアに従属していた[[ティルス]]をエジプト側に寝返らせるなど、テーベから外交策を駆使していった。 :: その後、アッシリアに従属していた下エジプトで反乱が起きると、アッシリアの[[アッシュル・バニパル]]は討伐軍を派遣。B.C.667年にはメンフィスが再占領された。 :: タハルカは王朝の故地、ヌビアに退いたが、王朝は継続。B.C.665年に従兄弟の[[タヌトアメン]](息子との説もあり)を共治王に任じると、翌B.C.664年に没した。B.C.663年に、アッシリア軍によってテーベが陥落している。 :'''小辞典版推奨判定''':「歴史+知性 目標値12〜14」 ::'''詳しい情報''' 第25王朝は、小国に分裂していた新王国時代末期のエジプトに宗主王朝として君臨した。しかし、その支配体制は、新王国時代盛期のような中央集権化した官僚機構には至っていなかった。[[第22王朝]]の系譜を引く各地の有力者たちは、概ね自律を概ね保ちながら王朝の宗主権に服す型になった。 :: [[エサルハッドン]]の代のアッシリアによる征服も、各地の支配者を通じた間接的支配で、エジプトに独自の統治体制を確立したものではなかった。B.C.669年頃の北エジプトでの対アッシリア反乱も、こうした素地の上に起きたものだ。 :: タハルカはこの宗主王朝の第3代だが、ヌビア王朝(ナパタ朝)の王統では、第6代にあたるものと思われる(異説もある)。 !GM向け参考情報 *GM向けの補足情報、[[マスタリング・チップス|チップス集]]、[[アイデア・フック]]など  タハルカは、「アッシリアに負けたファラオ」というイメージが強く、やや地味な印象の人物です。  実際、王朝の故地[[ヌビア|歴史的ヌビア地域]]に戻って没し、後継の[[タヌトアメン]]の代で[[第25王朝|古代エジプト第25王朝]]は幕を閉じていますし。  しかし、第25王朝の宗主権を打ち倒したアッシリアによるエジプト統治も決して盤石とは言えませんでした。その実態は、巷間言われるような古代オリエントの初統一にはほど遠いものです。  ヌビア王朝(ナパタ朝)の方は、B.C.593年頃、[[第26王朝|古代エジプト第26王朝]]の遠征軍に滅ぼされました。しかし、古代エジプトの伝統を踏まえて形成された独特の文化は[[メロエ王国]]に継承され、皮肉なことに、ヌビア王朝やエジプト王朝が終焉した後の紀元後3〜4世紀まで続きました。  現在の[[スーダン共和国]]領北部に遺る遺跡群が、ヌビア王朝の文化が継承されていた証拠になっています。  タハルカをシナリオに絡めるとしたら、現在のエジプトだけでなく、少なくとも現在の[[スーダン|スーダン共和国]]まで視野に入れてあれこれ料理法を工夫してみると、おもしろいシナリオを作れるでしょう。 (2006年現在のスーダン共和国の国情は、PCの行動に制約が付き易いものになっています。ただ「視野に入れる」と言っても、必ずしもPCがスーダンまで出張るとは限りません、スーダンからどこかへ流出した物を追ってもいいのです)  ちなみに、ヌビア王朝は、より詳しくはナパタ朝と呼びますが、これは、王朝の祖族が出身しいたクシェ地方の一地区の名からきたものです。  エチオピア王朝と呼ばれることもありますが、これは、[[ヘレネス]]が、広い意味でのヌビア地方の住民を、エチオピア人と呼んでいたため。現在のエチオピアとは直接の関係はない――はずです。 !!事跡  タハルカは、先代ファラオ、[[シャバタカ]]の在位中、共治王に任ぜられることはなかった。 :'''B.C.701年頃 シャバタカの統治2年目頃''': ヒゼキア王のユダ王国は、シャバカの代のエジプト軍を友軍として、即位4年めの[[センナケリブ]]率いるアッシリシア軍とユダ王国領沿岸部、エルテカの地で会戦し惨敗。このとき、タルハカが後衛軍に従軍していた。 :'''B.C.690年頃 即位年''': シャバタカの政策を継承し、シリア・パレスティナ諸都市に対するエジプト王朝の宗主権を主張。アッシリアと対立が深まる。  [[ファラオ]]位に就いたタハルカは、ナイル川流域各所で、盛んに宗教建築をおこなわせた。多くは、[[第3中間期|古代エジプトの第3中間期]]に廃れた伝統神殿の再建や造築だったようだ。  [[カルナック神殿]]の修復が有名。現在「タハルカの柱」の通称で呼ばれる柱廊跡が遺る。ヌビア地方でも、カワに[[アメンヘテプ3世]]が建立していたアメン神殿を修復増築した。 :'''B.C.685年前後 統治6年目頃の前後''': この頃、センナケリブのアッシリア軍がヒゼキア王のユダ王国を攻囲。この時、アッシリア軍はなぜか撤退しているがその実状は不明。アッシリア側の記録では、戦況は圧倒的に有利であったことと、エジプト王朝からのユダ王国への援軍が「葦の切れ端」のごときものだった、と記されている。 :'''B.C.673年頃 統治18年め?''': アシュケロンと同盟し、アッシリア軍を、エジプト国境部で撃退。 :'''B.C.671年頃 統治20年め?''': アッシリア軍、メンフィスまでを制圧。タハルカは、一旦ヌビアに退いた。 :'''B.C.669年頃 統治22年め?''': シリア・パレスティナ地方でアッシリアに従属していたフェニキア系都市[[ティルス]]が、エジプト側に寝返る。 :: 同年、下エジプトで、アッシリアに従属していた各地の実力者が反乱。この間、タハルカはメンフィスに帰還。 :: 同年、アッシリアのエサルハッドンは、ティルス懲罰の軍を起こすと、これを攻囲して下す。そのまま、軍勢をエジプトに向けたが進軍途上死没。 :'''B.C.667年 統治24年め?''': [[アッシュル・バニパル]]の代のアッシリア軍、エジプトに侵攻し、メンフィスを再占領。タハルカはヌビアに退いた。 :'''B.C.665年 統治26年め?''': タハルカ、従兄弟の[[タヌトアメン]]を共治王に任命。 :'''B.C.664年 統治27年め?''': タハルカ死没。遺体はヌリに埋葬された。タヌトアメンがファラオを後継。 !!人物像  タハルカの人物像は、「アッシリアに負けたファラオ」というイメージが強すぎるようです。実際よりも、ダメな人物像が想像されがちです。  元々、[[第25王朝|古代エジプト第25王朝]]は、エジプト自体に対する統治力が弱く、宗教的に君臨すれども、実態は地域分権を踏まえた間接支配という傾向が強かった王朝です。少なくとも、[[第20王朝]]、[[第21王朝]]に見られたような中央集権化した官僚機構の成立には至っていません。  にもかかわらず、タハルカの兄で先代ファラオだった[[シャバタカ]]は、[[シリア・パレスティナ地方]]の都市国家に対するエジプト王朝の宗主権に固執。盛んに、対アッシリア反乱を支援していました。そのため、第25王朝は、[[アッシリア帝位|古代アッシリアの王位]]を後継した[[エサルハッドン]]に、かなり怨まれていたふしがみられます。  シャバタカの策謀が、エサルハッドンの代にアッシリア軍をエジプトまで導きいれた、と言えるでしょう。  長期的な目で歴史を見れば、遅かれ早かれ、メソポタミア勢はエジプトにまで侵出したでしょうが、言ってしまえば、タハルカは、先代のツケを払わされた型になっています。 ――と、これは、陰謀史観の類を排除した、歴史研究での人物像。  シナリオで、タハルカを扱うときは、「実は、兄の関った古代の[[シャドウ・ウォーズ]]を継承して敗れた人物だった」と想定してもいいですし。あるいは逆に、歴史研究の人物像に寄って「兄が関った古代のシャドウ・ウォーズに、それと知らずに巻き込まれ、後始末をしなくてはならなくなった人物だった」としてもいいでしょう。  また、ナイル・デルタを奪われた後でも、テーベからティルスを寝返らせた外交手腕など、結構な策士とイメージしても面白いでしょう。 !!関連遺物 :'''タハルカの彫像''': 現在、オランダのライデンにある国立考古博物館に、タハルカの彫像の部分(頭部)が収蔵されている。 :'''タハルカの柱''': タハルカは、ヌビア王朝も深い所縁を結んだカルナック神殿の神殿複合体の内、アメン神殿の第1中庭に参道にあたる柱廊を再建した。しかし、この柱列で現在まで遺っているのは、1本だけである。この1本が「タハルカの柱」の通称で呼ばれている。 !!アイディア・フック :'''策士タハルカ路線のアイディア・フック''':  物語的に想像すれば、ティルスの寝返りと同年にナイル・デルタでアッシリア反乱が起きたのもなんだか怪しい(笑)。  もっと言えば、反乱が起きたエジプトへの進軍途上でエサルハッドンが死没したのも、出来すぎ? エサルハッドンは、病弱な人物だったことが知られているので、無理がたたって死んだ、と思うのが普通でしょうけど。「[[ブルーローズ]]」では、何か古代[[シャドウ・ウォーズ]]絡みの陰謀を、フィクション設定することもできるでしょう。 !リンク *[[小辞典]]{{br}}⇔ [[小辞典ワールド編]]{{br}}⇔ [[歴史上の実在人物]] !!資料リンク *[[Wikipedia英語版:Taharqa]] *[[Wikimedia CommonsCategory:Taharqa|http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Taharqa]]{{br}}タアhルカ関連のファイル集アーガイブ。 !活用や検討 !!活用 *このページの記事を踏まえた、[[アイデア・フック]]、使ってみた[[シナリオ]]、セッション・レポ、などなど {{comment}} !!重要な改訂の情報 *内容に追加、変更があった場合のみ、でいいでしょう。{{br}}(誤字脱字の訂正や、文章を整える程度では記録不要) {{comment}} !!検討 *このページの記事内容についての質問、重要な疑問、改訂の要望など *検討の項は記名記入を推奨(無記名記入は、随時書換え対象になりえます) {{comment}}