!あけぼのニュータウン、新しい街とは  月夜埜市に開発され、すでに老い始めた中規模のニュータウン。デザイナーがノスタルジーをこめて送る、ある種のディストピア。実のところ、昨今の様々な文学で主人公が暮らす場所でもある。  かつてドラえもんなども郊外の住宅を舞台にした作品だったが、その世界は次第に過ぎ去り、「岸辺のアルバム」をへて、重松清が描くような身にしみる小さな悲劇たちの舞台となった。個人的な感想としては、「となりのトトロ」は過去を巡る希望的観測な郊外、そして現在の郊外を巡る事情を結集した「千と千尋の神隠し」は、その街を見る限り郊外への絶望がうまく描かれている。まあ、そういう場所だ。  モデルは、今まで僕が見たニュータウンの全て、になってしまうのだが、規模としては八王子みなみ野ニュータウン(東京都八王子市)、雰囲気としては港北ニュータウン(神奈川県横浜市港北区・都筑区)に多くを負っている。もちろんそれらの街を否定するわけではない。綺麗なものも汚いものも街は内包していて、ぶっちゃけ、その両方を作品のライトモチーフとしてもらっている。 !夜埜媛さまからひとこと  ある小説によると、営々と日常生活を維持するその巨大なエネルギーに比べれば、ジェームズ・ボンドの華麗なる冒険などてんで些末なものなんですって。確かにね。少し注意してみていれば、人々が住む場所にはそんな様々なものが見えてしまう。平凡でささやかな営み。そんな激しくて叶う当てのない望みなんて、なかなかない。  ましてや、人の住みよい街をつくろうなんて願いは、あからさまに人の領分を越えたものなのかもしれない。それでも人は、土木と政治とお金の力と、 16世紀頃に発見された“科学”と名づけられたコミュニケーション手段によって、神さまに挑戦した。たとえ戦いが無謀で、真摯に願い、あるいは身を捧げたものほどにその報いを避けえなかったとしても。  新しい街。その場所は偉い学者先生やさまざまな小説家によって、サバービアの烙印を押された緩慢な地獄として描かれてきた。でもまたある人は、そこに祈りを見つけだしたものでもあったわ。それは自らの限界を知ること。そして大切な何かを愛すると言うこと。たとえばある人は日常に埋没する男の暴力へのささやかな勝利として。傷つき寄る辺を無くした女がささやかに涙を流すことを許される場所として。あるいは、たった一人の孤独を救うことが、つまるところ “世界”を救うことと同じであると、ただそれだけのことに気づく場所として。  愛しき日常、と何も知らない人は簡単にいうわ。そこにどれだけの陥穽と、痛みと、喜びが潜んでいるか。人はそれを希望と呼び、まったく同じ人がまた絶望と呼ぶ。知っている人は、言葉を失ってしまうのかしらね。それとも。 !ニュータウンとはなにか  ニュータウンとは何か、というのはいささか複雑な質問となります。まず、その名の通り“新しい街”といえるでしょう。都市部から衛星都市的距離を持つ、すなわち“都鄙の境目に位置する”地方自治体と、公社(都市基盤整備公団など)が作り上げた“都市計画図”も意味しています。都市計画図とは「ここは第一種住専(2階建てまでの個人住居向け土地)」「ここは事業用地」みたく土地を塗り分けるもので、そこから外れた建設計画にストップをかける公的な権力を地方自治体に与えるものです。もちろん、公社による直轄の住宅建設もありますし、大規模なニュータウンになると鉄道路線の新設や延伸をも含んでいます。  ニュータウンが作られる手順を追っていくと、興味深いことがわかります。最初は、まず計画が地方自治体の議会を通過すること。それから地元との折衝。用地の取得。都市計画図の決定に従うカタチでの、公社による住宅・施設建設。そして同様の民間による各開発。面白いのは、公社や自治体の計画や建設が、ニュータウンという大きな街を作り上げるための“呼び水”として位置づけられているということです。そこに投資価値を見出した民間の開発、そしてそこに暮らす人たちこそが、最終的に街がどういうものになるかを決定していきます。  ニュータウンという形式が日本に初めて言葉として現われたのは、大阪の千里ニュータウンでした。マスタープランの発表が1960年(昭和35年)。すでに1962年には入居が始まり、その位置を決定した万国博覧会開催の1970年には各種鉄道・道路インフラを備えた“未来の生活”のモデルとして、ほとんどの部分が完成していたそうです。もともと何もない一帯だったと言うけれど、その工期はあまりにも短いものでした。結局のところ、時代の勢いとその圧力、そして陰に隠れた誰かの犠牲を持って、今では信じられない恐ろしいほどのスピードで完成したのでしょう。事実、ニュータウンの建設に当たって、ニュータウン版成田新法とでも言うべき強制的な土地取得をめぐる法律がこの時期に成立しています。  その後、1967年の多摩ニュータウン計画開始、1969年の千葉ニュータウン計画開始などを始めとして、マスプロダクトとしてのニュータウンは地歩を歩んでいきます。都市部への人口集中、どうしようもないスプロール(無秩序で危険性すらはらむ土地開発)、住宅環境の改善、そして減少する農業規模への“対策”に有効な一種の特効薬として、大きな資金と人材が導入されていきました。  二度のオイルショックのあと、1980年代後半から始まるバブル景気はニュータウンの絶頂期とも言えるものでした。今ではにわかに信じられないことですが、都市部から直通電車で1時間もかかるような場所の高級マンションが、億単位の金で飛ぶように売れていったのです。ニュータウンのセンター地区にはおしゃれなショッピングセンターが建ち並び、抽選の倍率は百倍を優に越え、新しく小綺麗で快適な街、幸せに生きていける場所、として多くの人がニュータウンに住むことに憧れました。  しかし、永遠に登り続けることなどできやしない、ということを人々に思い知らせたバブル崩壊は、ニュータウンにも大きすぎるインパクトを与えました。大規模資本を持つ工場などの事業地域からの撤退、それから繁華街地域を華々しく飾っていたショッピングセンターなどのあいつぐ倒産。職場をなくしたずいぶんな人数が失業し、そのうえ地価は底値を知らぬほどの減少を続けます。著名な都市計画者によって美しく作られた街並みさえ、それらを埋めるには足りないようでした。そして各種施設・インフラの老朽化がとどめを刺し、街路によっては文字通りのゴーストタウンを呈していきます。いっぽうで若年層や外国人を中心とした凶悪犯罪が、郊外をその舞台としはじめたりする一幕もありました。  もっとも、バブル景気崩壊後、ニュータウンの全ての地域がダメになったわけではありませんでした。どちらかといえば、地価やそこに住む人々に経済学で言うところの鋏状格差が生じ、貧富の差が目に見えるカタチで露わになっていった、というほうが現状をよくあらわしています。“中流”という幻想の崩壊。現在に至っては、それがもっともわかりやすく表現されているのがこの“新しい街”なのかもしれません。 !あけぼのニュータウンのあらまし あけぼのニュータウンは、街開きして20年になる公社を基幹団体としたニュータウンです。計画人口は140,000人で、現在はおよそ87,000 人の人々が計画地域に暮らしています。電車の便はいささか悪いですが、かなり便の多いバスが巡回しており、またスーパーマーケットや役所の支所などもそろい、生活する分にはとても便利です。車道とレンガ敷きの歩道の分離もよくできていて、ぱっと見には、いや実際に住むにも快適な美しい街です。都市計画の多くと同じように、そこには夢と情熱が確かにこめられています。 しかし。全国のニュータウンと名の付く街と同じ問題は、この街にも大きな影を落としています。不景気の例に漏れず月夜埜市周辺の企業も撤退や倒産が相次ぎ、一部では貧富の差は拡大しています。 今一旧い街に溶けこむこともできないニュータウンの風景は、とくにあけぼの疑獄事件以来、微妙な疎外感ともにあるようになりました。こんな状況のニュータウンに連続失踪事件がおきたことは、さまざまな憶測と、専門家と称する連中の適当な意見と、まっとうな人に限って重くのしかかる哀しみを、生んだものでした。 今も様々な要素から自由になってはいませんが、生活の舞台に代わりはなく、さして人口が減少することもなく、街は静かに日々を送っています。