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たわごと -デザイナーズノートほか-

ここはデザイナーサイドの人間がいろいろメモするページです

 でも人への悪口は避けましょう。自己嫌悪と、創作に思いの丈をぶつけるのはオウケイですが、ほどほどにね。

ギャルゲー、およびその近親者としてのTRPG、という評価軸における月夜埜綺譚

 やめておけばいいのに、と思うのだけど、最近サブカル・ヲタクメディアの分析の言説をよく読んでいる。

 そのうち一つによると、ギャルゲーのけっこうな数が、「“現実にはあり得ない偽りとしか言えない”幸せな日常」をさまざまな「非日常」から守る、ないしは守ろうとして敗北する、というような図式をとるという。なるほど「ダブルクロス」はそういう作品だし、その人が例に出していた「ガンパレードマーチ」もまた、必死に戦って守ろうとしている学園生活の偽り性はとても強い。

 って、何が言いたいかというと、月夜埜綺譚が一般的な売りを獲得できない一つの背景を、また、見つけたという話し(笑)。

 月夜埜綺譚でヒーローたちが守るのは、別に愛しさや生活が保証されている、お幸せな日常、ではない。それをはっきり明示している。それはもしかするとレネゲイドウィルスによって滅びに向かいゆく世界よりも、よっぽど絶望に満ちているかも知れない。

月夜埜綺譚の欠陥・そして売りを思う

 ちまたで話題の『異界戦記カオスフレア』を買ってきたのだけど、うん、なんていうか初めて出た(僕の勝手で狭い了見における)イメージ通りのFEARゲームだった(笑)。そうそう。世間でいろいろ聴いてたから、あすこのゲームってみんなこういうやつなんだと勝手に誤解していたのだよな。いろいろ納得。

(ネーミングセンスだけは、自分とはもはや関係のない世界の言語のようであるけれど、これはまあしようがない。おそらく自分が変わっているのだろう。うん。)

 たわごとはさておき、カオスフレアのすげーなーと思ったところは、横溢する恥も外聞もなくさらけ出された作者の方々の“好き”とその再現欲求だ。彼らの碩学っぷりももちろん表しているのだけども、それもまた“好き”に通じている。無目的を常とされる知識収集型ヲタクライフの一つの極点を目指しながら、いっぽうで、表題でもある“混沌の炎”が“いまだかつて見つけられたことのない(それがゆえに世界を改変する力を持つ)未曾有の可能性”を意味することは、あらゆる世界へのオマージュと、そのムコウに向かおうとする決意を示しているようで心地いい。

 とまれ、感心したのは“好き”の横溢が生む、共鳴作用だ。ネットを巡回して、その熱い感想を見ながら、それが僕の中にあるヲタクを確実にくすぐるし、様々な人の中にあるヲタクもくすぐっていることを再確認する。そうそう。これが月夜埜綺譚がのどが出るほど欲しくて、でもなかなかに得られないチカラなのだ。月夜埜綺譚のジャンルが、商業出版が最初からあり得ないニッチであることはまあそうなんだが、おそらく差はそんな原理的なものにとどまらない。その点、悔しいが、さすがプロ。

(えー? ちなみに、カオスフレアでやってみたい(再現系)シナリオ? やっぱりサトジュンの『ストレンジドーン』かなあ…。戦争の中の群像劇をテーマにしながら、異世界からの住人との関わりや、それぞれの小さな思い、そして人々が持つ様々な欲望を描ききった、佐藤順一の佳作の一つなんだけど。ただ、カオスフレアって日常描写系のルールが薄いのが問題なんだよな(苦笑)。日常のささやかな奇跡を描く、カオスフレア・デイライツ、みたいなサプリメント出しませんか?)

 もちろん月夜埜綺譚にはまだまだ“好き”でさえ足りない。別にそれが同人的再現欲求に走る必要はないけど、そう思う。月夜埜綺譚に限らず、僕の来年のテーマは、自分の好きとどう向き合いそれを表現して行くにはどうすればいいか、になりそうな予感。それでも月夜埜綺譚は、たとえば僕の“好き”が、プレイしてくれる人の“好き”が武器であることには変わらないのだけど。

月夜埜綺譚・参考文献再考

 月夜埜綺譚は、これを読めばプレイできる、という作品が実質存在しない。同人だから許される、と思ってる、けど、うーんって感じ。でも参考にして欲しい文献はあって、それはでも、その中にある一部分であったりして、まあ伝えるのはなかなかに難しい。  そんなこんなで、参考文献をいろいろ語ってみる。乱入オウケイ。

ブギーポップは笑わない 上遠野浩平・電撃文庫

 ブギーポップのシリーズが、シリーズ総合としてすばらしい作品かというと、びみょーというか、うまく時勢には乗ったがちょっと…というのが本音である。しかしその軽妙で神奈川的をリズミカルに表現した文体は、ライトノベルでも出色なんじゃないかとは思う。

…とかって悪口から始まってしまってなんだが、この作品を読んでいて感動したのは、たとえば文章や台詞に神奈川の方言が頻出するといった、ひとえに土の側の事情による。すっかり妖怪大戦争になった近作は別としても、上遠野浩平の描く神奈川県郊外の街と、そこに生まれ育ったものとしての若者が生きるリアル感は、団塊世代周辺のオトナたちが理解の糸口もつかめない“「兎追いしかの山」ではありえない現代に生きるノスタルジー”を越えた向こうにある。

 歴史のない、あるいは歴史を挽きつぶしてできた造成地。電信柱の脇を抜ける風の音だけが鳴り響く孤独な住宅地。ハレもケもなく、伝統からも切り離され、目に映るはどこまでいってもかわらないロードサイドショップ。誇りもどう抱いていいかわからない郷里に、人と人との希薄なつながりは、いつも金、金。…でもね、たとえば多摩ニュータウンができてもう35年。その場所に生きる僕らの故郷は、誰が悪く言おうと、すでにそういう場所なのだ。

 それにしても、ブギーポップは優しい存在である。それ以上他に行き場の無くなったものを、死という安住へと導く。不可思議なことに、正義が勝つことではなく、苦しみに満ちた生が死へと誘われることにより、この作品は“ライトノベルの境界を越えない安全な位置”にとどまる。そしてブギーポップにも見放された人々こそに、現実への帰還を促すのだ。どこかうわついた、けれど疲れたため息を漏らしながらも少しは目を合わせないわけにはいかない、希望として。

 実のところ、ブギーポップが月夜埜綺譚の大きなライトモチーフであり続けるのは、その帰還であり、死に神に見放された者たちである。もっとも、月夜埜綺譚のテーマ性が“本来TRPGが維持しなければならない安全な位置”にとどまれているのかどうかは、いまいちよくわからない。

ワールドエンドスーパーノヴァ くるり

 くるりファンの中では賛否両論名高い、めちゃくちゃに(月夜埜綺譚的に)ヒロイックな歌である。その容貌はエレクトリカルなダンスミュージックであり、ラップの系譜にも連なるかと見せながら、どこか青臭い、閉塞感のある歌詞で、魅せる。乱暴にまとめれば「どこにも行けないものが、それゆえに、どこにだって行ける」という歌だ。もっとも韻を踏むばかりの歌からその閉塞感の奥底を見いだすことは、難しいというよりも、歌い手自身がそれを望んでないような気もする。

 絶望の果てに 希望を見つけたろう
 同じ望みなら ここで叶えよう
 僕はここにいる こころは消さない

 一部のくるりファンに愛されるこの特徴的なフレーズは、歌のちょうど真ん中に位置する。青い鳥を探すようにループしながら、本当のことがほしい、このままではいけない、僕らはどこにだって行けるんだ、と歌いながら、ダンスミュージックは続いていく。

 それはもしかすると将来の夢などという漠然とした病にとらわれた若者の歌なのかも知れない。けれどならば、将来の夢という病に捕らわれたことのある多くの人々への賛歌ととらえることもできるのではないか。ここにいるという宣言はどこにも行けないと言うことと同義かも知れない。その中にある希望と絶望を手に、世界は終わり、そして始まるのである。

「僕はここにいる こころは消さない」そう言い切れる強い魂の持ち主をこそ、たとえば月夜埜綺譚の世界では、英雄と呼ぶのだ。

月夜埜綺譚の勘所を思う

 陰謀組織とかの記述をやたら充実させつつ思うことは、日常もちっぽけな夢も世界的な陰謀もそこに関わる思いも、同じ場所で起きている事件なんだ、ってことをどう表現できるかなあ、ということなのだよな。

 セカイ系にしてしまうのもよいけど、もっともっと日常より、というか無力の側にあること。そのムコウのヒロイック。

なんとか人に協力、っていうか人を巻き込む計略として…

 wikiを考えているのだけど、自分の好きな分野にだけ異様な集中力を見せる変人の妄想ショーになっているような気もする。(笑)

 さあそこのあなた! 協力だ!

コメント

  • メリットがなければ人は協力しない。このTRPGの開発を手伝った場合、その見返りとして何を提供できるのか?名声か?金か?自己満足観か?結局最終承認が他者である以上、自分のアイディアを提供するメリットは、驚くほど少ない。(デジタル)
  • そんなん自己満足に決まってるでしょ?(笑) 僕は割と友人様の作品に手を出したりアイデア出したりしてるけど、別に自己満足以上の代償を求めたことなんてありませんよ。それが自分が見てもよい作品になるなら、誰が手伝おうと誰の名誉になろうと知ったことじゃない。まあそれが「ふつーじゃねえ」っていうのはよくわかるけど(笑)。ちなみにまあ、上の台詞は確かに配慮は足りないかもしれませんな。月夜埜綺譚の製作に協力してくれた“広義のスタッフ”に対する呼びかけです。まあ“広義のスタッフ”が増える分には面白いけど、それはたしかに“ふつー”期待すべきじゃないよな。……まあ、もちろん金が絡んだら別だけど、そこに問題を広げずに好き勝手やるために同人で作ってるんだしなあ。(はるを)
  • 自己満足だけで他者のTRPGの作成に関わる酔狂者は少ない。そこにはスペシャルサンクスという最後の満足と、他にもその参加者なりの満足感が必要になる。よって、貴方は自己満足でのみ参加する広義のスタッフとだけで作成すべきであり、そしてこのwikiを閲覧する人間のほとんどは、その広義のスタッフとしては関わることはないだろう。つまり、ここで協力を呼びかけてもほとんど意味がない、ということでもある。(デジタル)
  • おっしゃるとおりです。消せと言われても困りますけど。そういうことじゃないですよね? …あ、いちおう、今までだってスタッフ欄に名前は入れてますし、月夜埜綺譚の名誉(なんてものがあるとしたなら)を独占しようなんてはらははなからありません。でもまあ、大事なのは作品であって、作った人間なんてのは、作品に比べればおまけです。“広義のスタッフ”たちは、もちろん僕との友誼に答えてくれた部分はありますが、むしろ、面白い作品になりそうだ、ないしは面白い作品ができあがる過程に一役買えそうだという興味で参加してくださっている部分が大きいです。っていうかこの歳になって製作作業なんかにつきあってくれる人は、そういう意味ではそんなにお優しくもないわけで。中心的なアイデア出しはもちろん、寄せられる様々な意見やアイデアをできうる限り高度にとりまとめ、各人の自己満足を裏切らないように努力する、というのが、まあ僕が月夜埜綺譚という作品において自らに義務づけているところではあります。(はるを)
更新日時:2005/12/25 01:12:39
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参照:[続・月夜埜綺譚 開発ノート]