月夜埜綺譚開発wiki - TsukishiroDanchi 差分
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!月城団地とは
月夜埜市郊外にある昭和30年代の団地。取り壊しが近かったり、始まっていたり、外壁が剥落していたり、コンクリートが痛んでいたり、でもどこか昭和ノスタルジックというふうで、マニアにはファンもいる。そんな場所。住んでいるのは低所得者層と老人が多い。
実のところ、月夜埜市にはもっと他にもこのタイプの団地があるはずなのだが、最も古いところでこれをピックアップしてある。具体的なモデルは、公団多摩平団地(日野市)や館町団地(八王子市)など。多摩ニュータウン永山地区のカリカチュアは、あけぼのニュータウンに設けている。
!夜埜姫さまよりひとこと
案外簡単に人は忘れてしまう。どんな街でも、あるいはどんな小さな家でも、それぞれに関わるたくさんの人がいて、それぞれの生活やら希望やらがあることを。手抜き工事や悪徳業者なんかいて誉められることばかりじゃなくても、いつだってそこには誰かの“夢”があった。
それを“綺麗事”といって馬鹿にする他の誰かもいる。“壊れてしまった過去”あるいは、“その夢が多くのものを苛んだ”とも。一面の事実ではあるそれらは強い力を持って、後出しじゃんけんのように街に関わる人を苛んでいく。けれど心ある学者先生はこんなことも言う。
“感傷をなくした街に、何が残るのだ?”と。
もっとも人はしたたかで、強い。恐ろしい自由や、規範のないこと、あるいは様々な流行や経済に振り回されるなかで、どんな街だってそれなりに生きていける。でも妙な心地よさや安堵の影に、ふいに誰かの“夢”を見ることもあるのだけれど。
!日本における公営団地
1950年代。戦後のどさくさも過ぎ去り、朝鮮戦争による戦時特需と空前の大豊作は、日本全体に“もはや戦後ではない”というブームを振りまいていました。そこから始まる高度成長期はいっぽうで都市部への人口の集中を生み、その辺縁部にアメリカ型生活スタイル、いわゆる“郊外 (suburbia)”、を日本のあちこちに生み出すことになります。
しかし役所の手も時間的余裕も届かないままに、土地の値段と地主をそそのかすことによって続く乱開発は、開発の適不適や都市計画に関わらず工場や住宅が蚕食的に立地することを呼び、無秩序な市街地の拡散、不良市街地の形成、いわゆる“スプロール現象”を発生させ、さまざまなトラブルや災害耐性に乏しい街をあちこちに出現させたものでした。いっぽう国の住宅公庫制度が軌道に乗り始めるなかで、災害耐性に対する具体的な要求の回答としての“区画整理”および“難燃性材料、すなわちRC造(Reinforced Concrete:鉄筋コンクリート造)による集合住宅の建築”が挙げられることになります。この事態に対応するために、1955年に生み出されたのが日本住宅公団、のちの住宅都市整備公団、現在の都市基盤整備公団(以降、都市公団)です。都市公団は千葉県松戸市の常盤平住宅地を皮切りに、全国に中流家庭向けの団地を作り上げていきました。3DKやら、スチールサッシなど、それまでにないコンセプトを多く持った“団地”は、多くの若い人々の心を惹きつけ、入居のための抽選は恐ろしいほどの高倍率になったそうです。
都市公団はその後、さまざまなノウハウを積み重ねていき、より大規模な住宅地を精力的に作りあげていきます。万国博覧会とタイアップすることによって“未来生活”を表現した千里ニュータウンの出現により、以降の多摩ニュータウン、千葉ニュータウンにみられるような超大規模のニュータウンをも手がけていきます。そのブームは、いわゆるバブル経済期に絶頂に達します。
しかし、華々しく登場したそれらの街も長い年月を経てくると様々な問題が浮き彫りになってきました。コンクリートの耐久性が想定水準を下回ったりといった技術的な問題もありますが、結局のところ時代に合わなくなっていったのです。エレベーターや街路整備に乏しい多くの中層住宅群は、終の棲家と選ぶにはあまりにも苛酷な住宅事情になってしまいました。
一方このような状況下で、大正時代に国が手がけた公営集合住宅の嚆矢、同潤会アパートに奇妙とも言える注目が集まり始まります。関東大震災の復興組織の一つである同潤会は、地震によって不足を極めることとなった住環境を急速に整えることを任務として、当時若手で権力はないけど情熱を持った都市や建築の専門家を集めて組織されました。少ない予算、短い工期、それでいて難燃性の快適な住居という矛盾した条件を前に、彼らはそれまでに存在していなかった新しいコンセプトで応えていくことになります。多世代型のライフスタイルに対応し、家族構成の変化にフレキシブルに対応するさまざまな広さを持った部屋が混成する団地構成、そしてていねいに作り上げられた芸術的ともいえるRC造の建築は、一部の熱狂的なファンを生み出したものでした。
同潤会住宅、そしてアパートは、長期的視野を持つ天才的集団が都市計画や団地造成にたずさわった集大成です。しかし残念ながらその後の多くの団地が同じ栄誉に浴することができたわけではありませんでした。コンクリートの造成はまだ職人的技術を必要とし、同じ材料からでも携わる人によってさまざまに強度を変えます。同潤会が手がけた多くの住宅地はコンクリートの寿命“70年”を迎え、取り壊しや移築、あるいは保存の話が進んでいます。さすがに全体は黒ずみ一部危険な個所もあるようですが、時代さえがそれを許せば、まだまだ暮らせそうな強度を保っています。しかし戦後の公営団地の少なくないものは、学者先生が“ニュータウン寿命33年説”そのままに、誰かの夢を詰め込んだまま、すみっこのほうでひっそりと朽ち果て始めていました。そしてその格差は、コンクリートの素材的問題に留まるものではありませんでした。
!月城団地のあらまし
月城団地はブームに乗って作られた、昭和30年代当時最先端の“団地”です。RC造4階建ての3DKを標準とする20棟の集合団地は、駅から徒歩 25分というそれほどいいわけでもない環境にもかかわらず大人気を博しました。団地内に設置された商店群の繁栄も相まって、当時田舎町に過ぎなかった月城町に突如として現われた都会的風景となっていったのです。
そして、月城団地は入居率が60パーセントを割り込んだ、いささか危険な状況にある団地でもあります。低所得者と、根が生えたように住み続ける高齢層。バリアフリーなど考慮されていないその建築は、いつ悲劇的な事件が起きてもおかしくないくらい、黒ずんで見えます。けれども、住んでいるものにとっては大切な住処であり、大上段から構えた“対策”など片腹痛いものでしょう。
現在、月城団地には大規模な区画整理と、団地の再生事業が持ち上がっています。しかし居住者に少なくない負担を強いるその計画に、居住者自身はあまり乗り気ではありません。このままでは遠からず中性化(コンクリートの寿命)による外壁の剥落も始まり、より悲劇的な事態になることは避けられないのですが、まだ事業にゴーサインは出ていません。
それでも日々は続きます。
月夜埜市郊外にある昭和30年代の団地。取り壊しが近かったり、始まっていたり、外壁が剥落していたり、コンクリートが痛んでいたり、でもどこか昭和ノスタルジックというふうで、マニアにはファンもいる。そんな場所。住んでいるのは低所得者層と老人が多い。
実のところ、月夜埜市にはもっと他にもこのタイプの団地があるはずなのだが、最も古いところでこれをピックアップしてある。具体的なモデルは、公団多摩平団地(日野市)や館町団地(八王子市)など。多摩ニュータウン永山地区のカリカチュアは、あけぼのニュータウンに設けている。
!夜埜姫さまよりひとこと
案外簡単に人は忘れてしまう。どんな街でも、あるいはどんな小さな家でも、それぞれに関わるたくさんの人がいて、それぞれの生活やら希望やらがあることを。手抜き工事や悪徳業者なんかいて誉められることばかりじゃなくても、いつだってそこには誰かの“夢”があった。
それを“綺麗事”といって馬鹿にする他の誰かもいる。“壊れてしまった過去”あるいは、“その夢が多くのものを苛んだ”とも。一面の事実ではあるそれらは強い力を持って、後出しじゃんけんのように街に関わる人を苛んでいく。けれど心ある学者先生はこんなことも言う。
“感傷をなくした街に、何が残るのだ?”と。
もっとも人はしたたかで、強い。恐ろしい自由や、規範のないこと、あるいは様々な流行や経済に振り回されるなかで、どんな街だってそれなりに生きていける。でも妙な心地よさや安堵の影に、ふいに誰かの“夢”を見ることもあるのだけれど。
!日本における公営団地
1950年代。戦後のどさくさも過ぎ去り、朝鮮戦争による戦時特需と空前の大豊作は、日本全体に“もはや戦後ではない”というブームを振りまいていました。そこから始まる高度成長期はいっぽうで都市部への人口の集中を生み、その辺縁部にアメリカ型生活スタイル、いわゆる“郊外 (suburbia)”、を日本のあちこちに生み出すことになります。
しかし役所の手も時間的余裕も届かないままに、土地の値段と地主をそそのかすことによって続く乱開発は、開発の適不適や都市計画に関わらず工場や住宅が蚕食的に立地することを呼び、無秩序な市街地の拡散、不良市街地の形成、いわゆる“スプロール現象”を発生させ、さまざまなトラブルや災害耐性に乏しい街をあちこちに出現させたものでした。いっぽう国の住宅公庫制度が軌道に乗り始めるなかで、災害耐性に対する具体的な要求の回答としての“区画整理”および“難燃性材料、すなわちRC造(Reinforced Concrete:鉄筋コンクリート造)による集合住宅の建築”が挙げられることになります。この事態に対応するために、1955年に生み出されたのが日本住宅公団、のちの住宅都市整備公団、現在の都市基盤整備公団(以降、都市公団)です。都市公団は千葉県松戸市の常盤平住宅地を皮切りに、全国に中流家庭向けの団地を作り上げていきました。3DKやら、スチールサッシなど、それまでにないコンセプトを多く持った“団地”は、多くの若い人々の心を惹きつけ、入居のための抽選は恐ろしいほどの高倍率になったそうです。
都市公団はその後、さまざまなノウハウを積み重ねていき、より大規模な住宅地を精力的に作りあげていきます。万国博覧会とタイアップすることによって“未来生活”を表現した千里ニュータウンの出現により、以降の多摩ニュータウン、千葉ニュータウンにみられるような超大規模のニュータウンをも手がけていきます。そのブームは、いわゆるバブル経済期に絶頂に達します。
しかし、華々しく登場したそれらの街も長い年月を経てくると様々な問題が浮き彫りになってきました。コンクリートの耐久性が想定水準を下回ったりといった技術的な問題もありますが、結局のところ時代に合わなくなっていったのです。エレベーターや街路整備に乏しい多くの中層住宅群は、終の棲家と選ぶにはあまりにも苛酷な住宅事情になってしまいました。
一方このような状況下で、大正時代に国が手がけた公営集合住宅の嚆矢、同潤会アパートに奇妙とも言える注目が集まり始まります。関東大震災の復興組織の一つである同潤会は、地震によって不足を極めることとなった住環境を急速に整えることを任務として、当時若手で権力はないけど情熱を持った都市や建築の専門家を集めて組織されました。少ない予算、短い工期、それでいて難燃性の快適な住居という矛盾した条件を前に、彼らはそれまでに存在していなかった新しいコンセプトで応えていくことになります。多世代型のライフスタイルに対応し、家族構成の変化にフレキシブルに対応するさまざまな広さを持った部屋が混成する団地構成、そしてていねいに作り上げられた芸術的ともいえるRC造の建築は、一部の熱狂的なファンを生み出したものでした。
同潤会住宅、そしてアパートは、長期的視野を持つ天才的集団が都市計画や団地造成にたずさわった集大成です。しかし残念ながらその後の多くの団地が同じ栄誉に浴することができたわけではありませんでした。コンクリートの造成はまだ職人的技術を必要とし、同じ材料からでも携わる人によってさまざまに強度を変えます。同潤会が手がけた多くの住宅地はコンクリートの寿命“70年”を迎え、取り壊しや移築、あるいは保存の話が進んでいます。さすがに全体は黒ずみ一部危険な個所もあるようですが、時代さえがそれを許せば、まだまだ暮らせそうな強度を保っています。しかし戦後の公営団地の少なくないものは、学者先生が“ニュータウン寿命33年説”そのままに、誰かの夢を詰め込んだまま、すみっこのほうでひっそりと朽ち果て始めていました。そしてその格差は、コンクリートの素材的問題に留まるものではありませんでした。
!月城団地のあらまし
月城団地はブームに乗って作られた、昭和30年代当時最先端の“団地”です。RC造4階建ての3DKを標準とする20棟の集合団地は、駅から徒歩 25分というそれほどいいわけでもない環境にもかかわらず大人気を博しました。団地内に設置された商店群の繁栄も相まって、当時田舎町に過ぎなかった月城町に突如として現われた都会的風景となっていったのです。
そして、月城団地は入居率が60パーセントを割り込んだ、いささか危険な状況にある団地でもあります。低所得者と、根が生えたように住み続ける高齢層。バリアフリーなど考慮されていないその建築は、いつ悲劇的な事件が起きてもおかしくないくらい、黒ずんで見えます。けれども、住んでいるものにとっては大切な住処であり、大上段から構えた“対策”など片腹痛いものでしょう。
現在、月城団地には大規模な区画整理と、団地の再生事業が持ち上がっています。しかし居住者に少なくない負担を強いるその計画に、居住者自身はあまり乗り気ではありません。このままでは遠からず中性化(コンクリートの寿命)による外壁の剥落も始まり、より悲劇的な事態になることは避けられないのですが、まだ事業にゴーサインは出ていません。
それでも日々は続きます。