カヌート(大王)
追加情報
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性目標値10」
- やや詳しい情報 カヌートは、イングランド征服以前から、父のスウェイン1世?と共に、ヴァイキングを率いてブリテン島?への襲撃を繰り返していた。1014年に、スウェイン1世が死没し、デーン人の王位を継承。ただし、この王位は、兄との共治王だった。
- 1017年、ウェセックス朝のイングランド王アゼルレッド2世の死後、同王の妃エマと婚姻。同年、当時、王選立権を持っていた賢人会議から、正式のイングランド王と認められた。
- 1018年か1019年頃、兄が死没し、デーン人の単独王に。1028年には、ノルウェーにあたる地域も征服し、ノルウェー王も兼ねた。こうして獲得された広い支配圏が、後代の歴史家から「北海帝国」(アングロ=スカンディナヴィア王国とも)と呼ばれる。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性目標値12」
- 詳しい情報 イングランド征服以前から、スウェイン1世?、カヌートらが率いたブリテン島?への襲撃には、当時、イングランド王国に従属していたデーン・ロウ?地域で、キリスト教化していたデーン人たちも呼応する気配を見せていた。
- イングランド王アゼルレッド2世は、スウェイン1世にたびたび、融和金(デーン・ゲルド?)を渡し、外交的にヴァイキングの撤収を求めねばならなかった。
- ちなみに、「1014年のアゼルレッド2世の死没は、カヌートが教唆したデーン人による暗殺だった」とする歴史伝承が知られているが、事実は定かでは無い。
- 小辞典版推奨判定
- 「歴史+知性目標値14」
- 専門的知識 1035年にカヌート王が死没すると、「北海帝国」の支配圏はあっけなく消滅。イングランド王国では、1042年にエドワード(懺悔王)?が擁立され、復興ウェセックス朝が開かれる。
- 現在の歴史研究では、カヌート当時の北欧は、部族支配が王国体制に移行する過渡期だったと目されている。カヌートのデンマーク王位や、ノルウェー王位も、統治体制は未成熟なもので、言ってみれば、部族連合の首長が、自称国王を唱えたような面があった。
シナリオ・メイク用参考情報
カヌート大王は、シナリオ・ネタに絡め易い人物ですし、絡めがいもあります。
北欧系のオーパーツを絡めたり、何か伝説の秘宝を求めて、イングランドを征服した、とするなど、料理法はいろいろあるでしょう。
事跡
カヌート大王の事跡は、とりあえず「PCが予め知ってていい情報」と「追加情報」とで充分と思います。後は、ルールブックの限定情報第38章などを参照していってください。
若干の補足をしておくと次のようなことも知られています。
- 当時のスコットランド勢力も、イングランド王になったカヌートの宗主権を認めてた。
- カヌートは、イングランドの支配地を、ヴァイキングの言葉で植民地を意味した「ダーネラーグ」と呼んでいた。しかし、イングランドを拠点とし、北欧にはあまり戻らなかった。
- カヌートは、王位についた後に受洗、キリスト教に改宗した。カヌートの支援を受けて北欧に渡った修道僧たちは、布教に励んだ。
カヌートより前に、デンマークのハーラル青歯王?が改宗し、北欧はキリスト教化した、との説もある。しかし、これは不確かなようだ。実際は、11世紀後半のスウェイン・エストリドソン王によるデンマーク統一の後、デンマークのキリスト教化が決定的になったようだ。 - カヌートは、ヴァイキングの襲撃で荒廃した修道院、教会の復興に力を注いだ。(これは、イングランドの統治体制を整備するのに、教会を通じた教区掌握が必要だったため、と考えられている)
- 1027年、カヌートは、ローマ教皇に招かれ教皇庁を訪れている。
- いわゆる「北海帝国」を通じで、北欧との交易が活性化。イングランド諸都市の市場は、活況を呈した。カヌートの代に造られた銀貨は、同時期の西欧ではビザンツ硬貨に迫るほどの高品位だった。
- カヌートは、イングランドで法典も整備させた。カヌートの支配を通じて、イングランドの封建制度が進んだ、と言われる。
人物像
カヌート大王の、フィクション上の人物像は、有能な蛮族の王者。これにつきるのではないでしょうか。
(ヒロイック・ファンタジーの「蛮人コナン」のシリーズをご存知の方は、王位に就いたコナンをイメージしてみてはいかがでしょう)
別称類
英語では、普通カヌート(Canute)と読まれます。
デーン語など、北欧系統では“Knud”。クヌートなどと記されます。
北欧系のNPCに「クヌート」と言わせるとそれっぽくなるでしょう。
キーワード:
参照:[歴史上の実在人物] [イングランド王国略史]