女王カンダケ,メロエの〜
- メロエの女王カンダケ メロエの じょおうカンダケ (簡易版)
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特に無し。
「メロエの女王カンダケ」については、関連技能を持たないPCが予め知らないでいても不自然ではないと思われます。
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「メロエの女王カンダケ」は、紀元前4世紀の終盤頃、古代メロエ王国?に君臨した、と伝えられた、半ば以上伝説上のキャラクター。
紀元後2世紀頃〜4世紀はじめ頃にかけての古代ローマ帝国で、一端、集大成されたアレクサンドロス伝奇?の物語群で語られた人物。女王カンダケについての元々の物語が、いつ頃から知られはじめ、どのような経緯で、ローマ帝国に広まったか、については、諸説あって定かではない。
物語によれば、「女王カンダケは、古代マケドニア?のアレクサンドロス3世?が、東征軍を率いてエジプトに入った頃、メロエ王国に女性ファラオのように君臨していた」。
「アレクサンドロスは、メロエ王国の征服を計画したが、それを察した女王は、メロエの兵団が偶然を装ってアレクサンドロスに行き会うよう画策。平和裏に、戦闘用に調教された象を贈り物にするよう図った」。すると、「メロエ軍の精強さを察した、アレクサンドロスは、軍勢を引いて、エジプト(下エジプトか?)、に引き返した」。
古代ローマ時代、「アレクサンドロス伝奇」は、どちらかと言うと、都市庶民の間で楽しまれた物語群で、上層の貴族、政治家、学者などの間では軽んじられていた。しかし、ローマ帝国が滅んだ後のヨーロッパ諸国では、再度断片化して伝えられた物語が、歴史書と入り混じり、一部は史実と信じられた。
物語の女王カンダケは、どちらかと言えば、中世以降のヨーロッパで史実に近い線で信じられた物語だった。ヨーロッパ人の間では、長い間、女王カンダケと言えば「戦闘用の像の軍団を指揮する、アマゾネス・クイーンのような黒人の女性ファラオ」というファンタスティックなイメージで語られていた。
メロエ王国の遺跡が欧米社会に紹介されるようになったのは、19世紀になってからのことだ。
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「アレクサンドロス伝奇」は、古代ローマの内外に伝わった、大王伝説の集大成だ。描写の細部に、当時の俗信や習俗についての、意外なほど確実と思える伝承記録は見られるものの、物語のプロットで語られる出来事は、ほとんどまったく、過去の出来事に関係ないフィクションだ、というのが、現在の研究者たちの公式見解だ。
「女王カンダケのエピソード」についても、あきらかに、大王伝説のインド(インダス川流域)での戦闘のエピソードが反映している。
果たして、アレクサンドロス3世が古代エジプトに進駐したB.C.332年〜B.C.331年、古代のメロエ王国に女王がいたかは定かではない。それでは、「アレクサンドロス伝奇」が一端集大成された、紀元後の数世紀に、メロエ王国に物語のような女王がいたか、というと、大筋としては疑わしい。
一説に、カンダケ(Candace)とは、メロエ王国に先立ったクシュ王国の王后の称号「ケンタケ(Kentake)」が訛りながら伝わったものだ、と言う。つまり「カンダケ」という1人の女王がいたのではなく、何世代にも渡る女性リーダーたちのイメージが、1人のキャラクターに集約されて伝えられた、とみる説だ。
この推測説が正しければ、“女王カンダケ”伝説のルーツ、架空キャラクターのモデルは、アレクサンドロス3世の時代よりも、さらに数世紀遡り得る、ということにもなる。
そこまで想像を逞しくしなくても、アレクサンドロスの時代、あるいは、その後のプトレマイオス朝時代?、エジプトのローマ時代、メロエ王国にいた王后の何人か(あるいは、特定の誰か)が、伝説の女王カンダケのモデルになった、との可能性もゼロではない。
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参照:[+αのワールド用語] [メロエの遺跡]