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キリキアのアルメニア王国

キリキアのアルメニア王国 キリキアのアルメニアおうこく (Armenian Kingdom of Cilicia) 
簡易版

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PCが予め知ってていい情報

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 「キリキアのアルメニア王国」は、11世紀の第3四半世紀から14世紀の第3四半世紀まで、およそ300年間、アナトリア高地南縁で、現トルコ領の地中海北東岸沿岸に位置したキリキア地方?で営まれたアルメニア系の王国。

 古代から続いたアルメニア王国(大アルメニア)と区別するため、しばしば、小アルメニア(王国)と呼ばれる。

 ビザンツ帝国に臣従していた武将や文官たちが支配層の祖となり、臣民にはセルジューク朝に服したチュルク系遊牧集団によるアルメニア高地への侵攻から逃れた、アルメニア人難民の移住者が多かった。

 王国の祖となった公爵家は、かつて、アルメニアやグルジアで王朝を営んだバグラト家の流れを汲む、と伝えられている。

 キリキアのアルメニア王国は、西欧人がシリア・パレスティナ地方で営んだ十字軍諸国家の同盟国となり、一面ではライヴァルとしても振舞った。

 また、東方正教の守護者を自負していた、とも言われる。

【参照イメージ】

やや詳しい情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。

 いわゆる、キリキアのアルメニア王国が、公式に成立したのは、1198年のことで、ルーピニャン公爵家のレオン2世が初代の王となった。

 これは、ビザンツ帝国との外交関係によるもので、キリキア地方では、早ければ、1130年代までに、アルメニア系のルーピニャン公爵家の下に、アルメニア系の地方有力者たちが結集していた。遅くとも、1140年には事実上の地域支配は成立していた。

 当時のルーピニャン公爵トロス2世は、1158年に、ビザンツ帝国に臣従の礼をとったが、これは形式で、この年にキリキアのアルメニア王国が実質的にスタートしたと見ることができる。レオン2世はトロス2世の後継者だった。

 後に王権は、レオン2世の娘ザベルの婚姻を通じ、やはりアルメニア系だった別王朝に移っていった。

 14世紀、キリキアのアルメニア王国は、エジプトのマムルーク朝に侵攻され滅びた。王都シスの陥落は、1375年の春だった。最後の王レオン5世は、亡命し、1393年にパリで客死した。

 レオン5世の従兄弟でキプロス王だったJames I が、レオンの王位継承を主張。当時彼が有していた「キプロス、及び、エルサレムの王」に加え、「キプロス、キリキア、及びエルサレムの王」を称した。

【参照イメージ】

  • The Kingdom of Armenia and other states carved from the Byzantine Empire, as they were in 1265(1265年当時のアルメニア(小)王国と十字軍国家,William R. Shepherd, Historical Atlas, 1911,Wikimedia Commons

さらに詳しい情報

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 キリキア地方は、ビザンティン帝国皇帝ニケファロス2世の代の965年頃に、アラブ人イスラム勢の侵攻を受けた。

 皇帝は、イスラム教徒を地域から押し戻すことに成功すると、シリア地方、アルメニア地方からクリスチャンたちの移住と入植を奨励した。

 1045年に大アルメニアがビサンツ帝国に従属。以降、キリキア地方へのアルメニア人移住者の数は増えた。

 1064年頃から、セルジューク朝に属したチュルク系の集団が、当時のアルメニア(現アルメニア領からアナトリアの東部にかけて)に侵出を開始。キリキア地方には、アルメニア系の新たな移民や難民が押し寄せた。

 アルメニア人たちは、キリキア地方から、地中海沿岸の東方やシリア地方の山地地帯、さらには平地メソポタミアの北西部へと入植地を広げていった。

 1071年、マンツィケルトの戦いで、ビザンツ帝国がセルジューク朝に大敗。この後数年間、ビザンツ領は大きな混乱に陥った。

 キリキア地方では、帝国の統治力は失われ、ビザンツに臣従していた司政官や武将たちは、名目上帝国への忠誠を掲げ続けた者、軍閥として自立を宣言した者などに分かれていった。当時、これらキリキアの有力者たちはみな、アルメニア人に占められていた。

 こうした内から、以前は、ビサンツ皇帝ロマノス4世に将軍として仕えていたフィルアレトゥス(Philaretos )は、地方軍閥として勢力を強めた。

 1078年頃から、フィアルトゥスは、キリキアからエデッサにかける一帯で、各地の有力者たちの同盟を組織し、第1人者として振舞おうとした。しかし、同盟は1085年頃から分裂し、フィアルトゥスは1090年に死んだ。

 こうして、11世紀の末頃、キリキアからエデッサにかけては、主要なアルメニア系の地方政権6つが分立する状態に移行した。

 1097年、第1次西欧十字軍の一部が迷走の末、キリキア地方に到達。キリキアのアルメニア人君主たちと、十字軍のフランク人武将たちは、それぞれに強力な同盟者を見出していった。

 アルメニア勢と十字軍勢力とは、同盟者でありながら、一面ライヴァルでもある、という関係を2世紀ほど続けていくことになる。

 ともあれ、シリア・パレスティナ地方での十字軍国家建国と前後して、アルメニア系の地方政権は、統一国家建国に進んだ。建国の中心となったのは、ルーピニャン公爵家だった。

 12世紀の間にルーピニャン公爵家は、事実上キリキア地方の支配勢力となり、地域の支配権を確定するため、ビザンツ帝国中枢と衝突した。

 1137年、ルーピニャン公レオン1世 はビザンツ皇帝ヨハネス2世に倒され、公爵家の主だった者数名と共に捕縛された。レオン1世は、3年後に獄死した。

 1141年、投獄されていたレオン1世の息子、トロス2世が脱獄。キリキアに戻ると、レオン1世の後継者としてアルメニア勢の対ビザンツ戦を指揮した。

 トロス2世は、1158年に、ビザンツ皇帝マヌエル1世に臣従の礼をとった。しかし、その後もキリキアの統治は継続された。

 現在、普通は、トロス2世のビザンツ臣従は形式的なものであり、実質的な地域支配確立の面では、成功した、と評価されることが多い。

 1198年、ルーピニャン公爵家のレオン2世は、事実上の王朝の継承に成功。公式なキリキアのアルメニア王国(小アルメニア)初代の王となった。

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更新日時:2007/11/29 10:16:51
キーワード:
参照:[歴史上の国家、王朝、政権] [小アルメニア王国]
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