カーティマンデュア
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カーティマンデュアは、古代ローマがグレート・ブリテン島?に侵出した頃、現在の北部イングランド?で有力だったケルト系ブリトン人?の部族国家ブリガンティア?の“女王”として伝えられた人物。
彼女の記録は、タキトゥス?の史書でのみ伝えられている。
タキトゥスなど、古代ローマ人が「王国」と記したブリガンティア?は、今風に言うと、ケルト系部族の部族連合だっただろう、と考えられている。
タキトゥスの記録からは、カーティマンデュアが51年にブリガンティアの“女王”だったことがわかる。タキトゥスによれば、彼女の支配は名族の産まれによったようだ。
前後の文脈から判断すると、クラウディウス帝?の代に、ローマ帝国が組織的にブリテン島に侵出した43年には、既に“女王”位についていたようだ。クラウディウス帝の凱旋門の碑文に「ローマ軍に恭順した11人の王」と記された内の1人だったかもしれない。
タキトゥスは、カーティマンデュアとその夫だったウェヌティアス?は「ローマの支配に忠誠」で「ローマ軍によって護られていた」と記している。
51年、ウェールズ方面で、ローマ軍に敗戦したケルト部族のリーダーカラタカス?がブリガンティア?に逃れてきた。が、カーティマンデュアは、カラタカスを捕らえるとローマ側に引き渡した。
この後、カーティマンデュアは夫と離縁し、鎧持ちだった男を新たな夫にした。離縁されたウェヌティアスの方は、軍勢を率いてカーティマンデュアに反旗を翻したので、あるいは、カラタカス引渡しをきっかけに、対ローマ政策を巡る対立が深刻化したのかもしれない。
反乱が起こされたのは57年のことだった。ウェヌティアスが率いた軍勢は、ブリガンテス族以外の部族とも連合していたが、カーティマンデュアとその軍勢を支援したローマ軍の参戦で敗退した。
69年、ローマ帝国で4皇帝が分立した情勢になると、ブリタンニアに進駐してたローマ軍にも動揺が見られた。この隙を突くように再起したウェヌティアスは、カーティマンデュアが支配していたブリガンティアを再攻撃。この時、ブリタニアのローマ総督府は、救援を求めたカーティマンデュアに僅かな援軍を派遣することしかできなかった。
ブリガンティアの支配はウェヌティアスに移り、ローマに抗戦する体制を整えた。カーティマンデュアは、ローマ総督府目指して逃れたようだが、以降、歴史記録には名が見られなくなる。ブリガンティアは、74年には、新たにブリタンニア総督として赴任していたクィントゥス・ベティリウス・ケリアリス?の軍勢に討伐された。
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