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略年表,ハンガリー盆地の〜

ハンガリー盆地の略年表

注記

  • 略年表の時代区分は、この場限りの大まかなものです。

略年表

石器時代〜金属器時代

新石器時代末の早い時機
 B.C.4500年頃の前後、農耕、牧畜、土器の使用が、南方のバルカン方面から伝播。ハンガリー盆地の各所で定住集落が築かれはじめる。
 この頃、おそらく黒海北西岸ではじまった帯文土器文化が、ドナウ川沿いに広がる。文物の伝播に留まらず、帯文土器人は、先住民集落を避けつつ、ハンガリー盆地のドナウ流域を経由し、拡散していったと思われる。
 ドナウ川流域では、川筋沿いの新石器時代内陸交易の物証も発掘されている。
新石器時代再末期〜金属器時代
 新石器時代末の集落では、伝統的に集団墓が営まれていたが、やがて、陪葬を伴う有力者の豪華な墳墓が出現。やや後れて金属器の使用がはじまる。
 この社会変化は、おそらく東方から侵出した半農半牧の集団によってもたらされた。
 この集団をクルガン人?と呼ぶ仮説が、1960年代に唱えられたが、このカテゴリ自体は、現在の学会は否認されている。
注:当時、半農半牧畜の侵入勢力がいたことは、事実である。その集団をクルガン人と呼ぶ仮説、及びカテゴライズや、集団の性格付けが否定されているだけなので、誤解無きよう。かつてクルガン人と仮称された集団の素性、及び実態を、再整理することは、現状の中欧考古学の主要な研究課題の1つになっている。
紀元前7世紀後半〜8世紀頃
 前期ハルシュタット型のケルト文化が優勢になる。
 その後、ケルト人?勢力の活動は東西に分かれ、どちらかと言うと西方地域で拡大しながら各地に拡散した。
 東方地域のケルト人勢力は、数百年かけつつ、なぜか徐々に勢力を集中させながら南下。バルカン方面を経由してアナトリアへと移動していった。

ローマ時代

B.C.40年代後半
 ローマ帝国の軍が侵攻。地域に居住していたダキア人などが、征服される。はじめ、属州イリュリクムが創設されたが、後に属州パンノニアに改変。
 ちなみに、属州パンノニアの領域は、ドナウ西岸でほぼ現在のイタリア国境近辺まで至る。つまり、現在のハンガリー国境とは一致していない。現ハンガリー領西部は、ほぼパンノニアに含まれていたが、属州領域は、現在、別の国の領土になっているさらに西方にも広がっていた。
ローマ時代のパンノニアは皇帝領であり、ローマ帝国の内紛にたびたび関ったが省く
A.D.272年
 ゴート族?の活動で、属州パンノニアの東方にあった属州ダキアが放棄された。
4世紀末頃
 西ゴートに東ゴートが合流し、ローマ帝国から辺境部への居住を許される型で一旦帝国と講和。この頃から、属州パンノニアの領域が細分化されはじめる。
410年頃
 パンノニア一帯はゴート族に制圧され、かつてのパンノニア地域に東ゴート王国が成立。
420年頃
 この頃までに東ゴート王国はフン族の侵攻により壊滅。フン族はゴート族の後を襲うように、405年頃からハンガリー盆地に侵出。交戦しつつ徐々に滞留、定住化していた。
 東ゴート族の大多数は、ローマ帝国領に移動していったが、幾つかの部族は、フン族に従属しつつ、部族連合の下位に組み込まれていった。

中世

6世紀
 アヴァール族が西進してくると、フン族を破り一帯に定住。
9世紀末
 マジャール人が西進してくると、アヴァール人?を打ち破り一帯に定住。
 マジャール人が制圧した土地は、現在のハンガリー領よりはるかに広かった。スロヴァキア方面やトランシルヴァニア方面、クロアチア方面もマジャール人に制圧された。
 マジャール人によるハンガリー盆地の制圧は、スラブ系諸族の各方面への移住を誘発。マジャール人の方は、西方の東フランク(後のドイツ)を、たびたび脅かすようになっていった。
 一方、ハンガリー盆地には、ローマン・カソリック、ビザンツのオーソドックス(東方正教)双方からの宣教師が渡来。マジャール人の間に、キリスト教が徐々に広まっていった。
10世紀末
 新たに即位したマジャールの君主、イシュトヴァーン1世は、1000年にカトリックに改宗。この年をマジャール王国(ハンガリー王国)建国の年とする歴史は、現在も伝えられている。
13世紀
 モンゴル西征軍の侵攻を受け、マジャール王国は大きな痛手を被った。
 王国領内で幾つかの国家が分立を図ったが、マジャールの王宮は、同君連合の型に持ち込み、勢力を維持。
 以降、東方のタタールから、政治的圧力や文化的影響を被る。

近世

15世紀中葉頃
 この頃から、ハンガリー盆地にオスマン・トルコの勢力が及び、マジャール王国(連合王国)は、受け身の立場に立たされる。
1526年以降
 ハンガリー盆地の中部以南は、オスマン・トルコに占領される。
 残ったハンガリー王国国土も、西部はハプスブルグ帝国?に従属的となり、東部とトランシルバニア地方は太守領(自治領)となった。
 以降、ハンガリー盆地は、トルコ・オーストリア対立の最前線となる。
17世紀末
 オスマン帝国の勢力は退潮していったが、ハンガリー王国領は、正式にハプスブルグ帝国の支配下におかれた。この時、マジャール人の支配下にあった現在のスロヴァキアなども、ハプスブルグ帝国の支配下に編入された。

近、現代

1867年
 オーストリア-ハンガリー王国成立。
1918年
 第1次世界大戦後の敗戦処理に伴い、ハンガリー共和国(マジャール共和国)が、オーストリア-ハンガリー王国から分離独立。同時に、スロヴァキアも分離独立。
1919年
 ハンガリー共和国で、オーストリア-ハンガリー王国の連合艦隊司令長官だったホルティ提督を首班にしたクーデタ。
1920年
 ハンガリー共和国が王国に政体移行。実態は、摂政位についたホルティ提督による専制体制だった、とされる。
第2次大戦中
 ハンガリー王国、枢軸国と同盟。
1944年
 連合国との単独講和を計ったホルティ(元)提督、失脚。
1945年
 ハンガリー王国、ソ連に占領され、臨時政府発足。
1946年
 ハンガリー共和国発足。
1948年
 ハンガリー人民共和国として、社会主義体制に政体移行。
1955年
 ハンガリー人民共和国、国連に加盟。
1956年
 ハンガリー人民共和国で反政府暴動(ハンガリー動乱)が起きたが、ソ連軍の介入で鎮圧される。
1960年代末
 この頃から、ハンガリー人民共和国では、市場経済への移行が進められた。68年からは、国営企業の民営化などが推進された。
1982年
 ハンガリー人民共和国、IMFに加盟。
1980年代末
 この頃から、ハンガリー人民共和国の社会主義体制が揺らぎ出した、と言われる。
1989年
 ハンガリー社会主義労働党は、人民共和国の1党独裁を放棄。多数政党による議会政治に移行。国名を、人民共和国から、現行のハンガリー共和国に改称。
1990年
 ハンガリー共和国で、多党制の選挙実施。

ハンガリー共和国の近況

1999年
 NATO(北大西洋条約機構)に加盟。
2002年
 この年の総選挙で、野党社会党と中道の自由民主同盟が勝利。連合政権の型だが左派政権が復活。
2004年
 EU(欧州連合)に加盟。

リンク

関連項目

ハンガリー盆地

ハンガリー共和国

資料リンク

検討や活用

更新日時:2005/10/31 20:31:56
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