エンリル・ニラリ
- エンリル・ニラリ (Enlil-nirari) 簡易版
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エンリル・ニラリは、父親で先代のアッシリア王だったアッシュル・ウバリト1世?の跡を継いだ。
治世期間については、幾つかの説が唱えられている。主な説は、B.C.1330年〜B.C.1319年とする中年代説と、B.C.1317年〜B.C.1308年とする低年代説だろう。治世は10年前後、と思われる。現在のところ、主流は中年代説?の方になっている。
エンリル・ニラリの代のアッシリアは、現在のアッシリア研究の歴史整理では中アッシリア時代?の初期にあたる。アッシリアは、先代アッシュル・ウバリト1世の代に、ヒッタイトと連携してミタンニを挟撃。長く続いたミタンニ王国による圧迫から解放された。
しばしば、「アッシリアの大国化は、アッシュル・ウバリト1世の代から始まった」とも言われる。この評価は、大筋では正しいが、もちろん、ミタンニが弱体化したからと言って、次の日からアッシリアが大国になったわけではない。
それどころか、アッシリアはしばらくの間、ミタンニ弱体化で乱れた、広域のパワー・バランスの混乱に翻弄されることになる。
エンリル・ニラリの代のアッシリアは、バビロンの第3王朝?(カッシート王朝)からバビロニアを支配していたカッシート王クリガズル2世?と、国境線を巡る戦争を繰り返した。
エンリル・ニラリは、バビロニア領から北部を勝ち取った。しかし、バビロニア側はヒッタイトと同盟し、アッシリアを挟撃する構えを見せはじめる。
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エンリル・ニラリは、アッシュル神の代官(アッシリア王)でありながらリンム職?を兼務した。これは、アッシリア史上はじめてのことと目されている。
この出来事を、「アッシリアの国家体制が中央集権化に向かったことの現われ」とする意見があり、興味深い。実際、リンム職は、中アッシリア時代に長期間をかけて、形骸化していったようだ。
中アッシリア時代の、王権と都市との関係の実態の詳細な再構成は、アッシリア研究の課題の1つとして注目される。
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補足情報
エンリル・ニラリの治世期間に限らず、中アッシリア時代?のアッシリア史の歴史整理には、幾つかの説が唱えられています。アッシリア史の基本資料になるリンム表?が、この時期の物が未発見であるためだそうです。
そのため、基本的には、古代文書に記された天体についての記録と、天文学的なシミュレートとを相互参照して、複数の文書の相対的な前後関係を整理していく方法で、整理がなされています。
現在の天文学的シミュレートは確実ですが、必ずしも単独の年が算出されるわけではありません。天体の配置などの記述を元にシミュレートする場合、むしろ、少数ではあっても複数の候補年が指定されます。このため、中アッシリアや中バビロニアの年代整理には、主に「高年代説」「中年代説」「低年代説」と呼ばれる3つの説が唱えられています。
現在、研究者の間で主流と言えるのは中年代説であるようです。この説では、バビロン第1王朝のハンムラビ王の治世が、B.C.1792年〜B.C.1750年とされています。
有力な少数意見として低年代説を支持する研究者も少なくないようです。高年代説は、現在はあまり唱えられないそうです。
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参照:[アリク・デン・イリ] [歴史上の実在人物] [小辞典ワールド編]