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第1次アングロ・アフガン戦争

第1次アングロ・アフガン戦争 
だい1じ アングロ・アフガンせんそう
(暫定版)

PCが予め知ってていい情報

 特になし。

 「第1次アングロ・アフガン戦争」については、関連技能を持たないPCは、予備知識なしの処理で不自然ではないと思われます。

追加情報

  • 「簡単な判定に成功すればわかる情報」とします。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値8〜10」「軍事+知性 目標値10〜12」「情報+知性 目標値10〜12」
簡単な情報 (シナリオによっては、ゲーム前ブリーフィングでプレイヤーに伝えるGM裁量をしてもいいかもしれない)
 「第1次アングロ・アフガン戦争」は、1838年〜1842年に、当時のアフガニスタン王国?U.K.(連合王国)との間で戦われた戦争。
 1835年にアフガニスタンで興されたバーラクザイ朝?に対して、U.K.の東インド会社が、旧王朝ドゥラーニー朝?の王族、シュジャー・シャー?を支援。1838年に宣戦を布告し、軍隊を侵攻させた。
 カンダハル?周辺のアフガン族?部族の部族長たちは、各個にシュジュー・シャーに恭順。同盟軍は、翌、1839年にカブール?まで侵攻。バーラクザイ朝のドースト・ムハンマド・ハン?バーミヤンに逃れ、シュジュー・シャーは復位した。
 ドースト・ムハンマドは、クァージャール朝?ペルシアに支援を求めようとしたが果たせず、ブハラ・ハン国?に亡命。アフガン族の部族には、復位したシュジュー・シャーの王朝が東インド会社の傀儡であることを嫌い反抗しているものも少なくなかった。アフガニスタンに戻ったドースト・ムハンマドは、こうした部族と連携して戦ったが、1840年、カブールで降伏した。
 1841年11月、カブールで、アフガン部族に扇動された反U.K.蜂起が起こされた。カブールに駐留していたU.K.軍や市民たちは、インド方面に撤収。シャー・ジャシューは、翌、1842年の4月に射殺された。
 東インド会社では、総督の更迭などもあり、1842年9月に“報復軍”がアフガニスタンに派兵されることになった。“報復軍”は、カンダハルに残留していた部隊と合流。バーミヤンに捕らえられていた捕虜を奪還すると撤退。戦争は、事実上終結した。
 1843年、東インド会社は、捕虜にしていたドースト・ムハンマドを解放。ムハンマドは、アフガニスタンに帰還し、復位したが、「アフガニスタンに他国からの侵入があった場合、王国はU.K.の軍事支援を受ける」との条件付の復位だった。アフガニスタン王国は、U.K.の保護国化されたことになるし、外交面でもU.K.主導の影響下に置かれたことになる。
小辞典版推奨判定
「歴史+知性 目標値10〜12」「軍事+知性 目標値12〜14」
 第1次アングロ・アフガン戦争が起きた1838年は、帝政ロシア軍によるヘラート?攻撃も起きた年だった。
 U.K.側のシュジャー・シャー擁立は、ロシアの南下に備えるため、より、親U.K.的な王権をアフガニスタンに据える目的があったようだ。当時の東インド会社の主流派意見では、バーラクザイ朝のドースト・ムハンマドは、アフガン系諸部族の信望が薄く、アフガニスタンが分裂して、ロシアやペルシアに占領されかねない、との危惧ががあったのだ。
 戦争自体は、U.K.側の敗北だったし、ドースト・ムハンマドは復位したのだが、親U.K.の王権をアフガニスタンに建てる、とのU.K.側の政治目標は達成された形になったのが、第1次アングロ・アフガン戦争の顛末だった。

GM向け参考情報

 「増補待ち」。

活用や検討

活用

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検討

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更新日時:2008/09/21 10:17:56
キーワード:
参照:[アングロ・アフガン戦争] [+αのワールド用語]
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