コルマク・マク・クレナーン
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コルマク・マク・クレナーンは、10世紀初頭に死んだ人物で、9世紀後半から活動していた。『コルマクの語彙集』の編纂者と伝えられている。
カシェルの修道院長だったコルマクは、普通は「カシェルの司教」だった、と言われるが、この頃のアイルランドの“司教”には、コルマクも含めて、カソリック教会内で正式な地位だったかどうか、定かでない例も少なくない。
コルマク・マク・クレナーンの誕生年や、聖職者になった経緯、修道院長になった年代などは定かでない。
902年に、マンスターのコーゲド王?に選ばれ、死ぬまで在位していた。
死亡したのは、908年。現在のレンスター地方北部で勢力が盛んだったタラ王傘下の軍勢と、コルマク・マク・クレーナン率いるマンスターの勢力が、現在のレンスター地方のベラック・ムグナで会戦し、戦死した。伝承では、レンスター地方に強奪されていたマンスターの秘宝を奪還しようとしたのが、戦いの発端だったかに伝えられている。
当時のタラ王フラン・シンナ?は、アイルランド王(リー・エーレン)?を称していたので、あるいは、それが戦いの遠因だったかもしれない。
コルマク・マク・クレナーンは、死後、正式に列聖されたわけではないが、マンスターでは11世紀ころまでに聖人視されるようになった。現在のキルデア県南部で、キャッスルデルモトに遺る墓所には、奇跡譚の伝承が伝わっている。
- 【参照イメージ】
- コルマク・マク・クレーナンの墓所に見られるハイ・クロス?(Wikimedia Commons)
コルマク・マク・クレナーンは、8世紀〜9世紀にかけ、マンスター地方で有力だったエオガン氏族?の出身だった。ただ、エオガン氏族でも比較的弱小だったカシェルの支族出身だった。
中世の年代記によれば、コルマクの先代にあたるコーゲド王とも、後任にあたるコーゲド王とも近縁関係にはなかった。ちなみに、コルマク・マク・クレナーンの後任者は、その死後、数年間選出されず、マンスターのコーゲド王は空位だったようだ。
カシェルの支族は当時のエオガン氏族の内で、有力ではなかったが、重要な名門とみなされていたようだ。あるいは、コルマク・マク・クレナーンが修道院長になったカシェルの修道院との関係が重視されていたのかもしれない。
現代人のセンスだと、聖職者が王を兼ねることは疑問かもしれない。が、アイルランドでは、大陸ヨーロッパ以上に、領主の親族が修道院に入ることは多かった。大陸で教皇庁と領主層とが聖職者叙任権を巡って争った駆け引きも、遠隔地であるため及ばなかったのだ。
さらに、キリスト教化以前に遡るアイルランド・ケルトの伝統では、コーゲド王は、支配者、統治者と言うよりは、地域の部族連合間の調停役、裁定役が期待された地位で、後世のヨーロッパの「王」とは、かなり性質が異なる地位だった。
ことに、マンスター地方では、早い時期から大きな荘園を擁した有力修道院がいくつかあり、コルマク・マク・クレナーンの前にも後にも、コーゲド王に選任された司教は何人かいたのだ。
- 【参照地図】
- コルマク・マク・クレナーンの時代(10世紀初頭)のアイルランドの勢力圏分布図(Wikimedia Commons)
10世紀頃のアイルランドの情勢は、概ね、各地の部族連合が、有力な連合を軸にして、王国化を進める時期にあたった。10世紀後半から11世紀にかけて、各地で地方政権を整備した群雄が台頭。互いに争いあう状況に推移していくが、地図はその前夜の情勢といったところ。
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参照:[コルマクの語彙集] [小辞典ワールド編] [歴史上の実在人物]