レユニオン島
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レユニオン島の面積は、2,512平方km。東西幅、およそ63kmほど、南北幅、およそ45kmほど。
地形は山がちで、山峰は険しい。平地は、沿岸部で島を取り巻く幅の狭い土地が主。
気候帯としては、熱帯気候帯に属す。しかし、山地の高度に応じた気温の幅は広い。
例年、5月頃から11月頃にかけてが乾季でやや涼しい。11月頃から4月頃にかけてが多雨で暑い。4月頃〜12月頃はサイクロン(熱帯性暴風雨)が発生する季節で、しばしば、島は大きな被害を被る。
島の最高点は、島域中央部のネイジェス山(Piton de la Neiges)で、海抜3070m。島の東縁には、海抜2631mほどの活火山、フォルネーゼ山(Piton de la Fournaise)が位置。
島にはフォルネーゼ山の他に、3つのカルデラ地形?がある。いずれも険しい地形が特徴。山腹は、深い森林に覆われていて、開拓された農耕地は、島の沿岸平地部に偏っている。1993年の統計では、灌漑された農耕地は、60平方kmにすぎない。
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レユニオン島は、ハワイ島?同様、地殻に穿たれたホット・スポット?の上に位置する島、と考えられている。活火山であるフォルネーゼ山が、ホット・スポットの影響下にあるとされている他、島に位置する複数のカルデラ地形は、ホット・スポットの過去の活動の痕跡だ。
17世紀からの記録を整理すると、フォルネーゼ山の火山活動派は、過去400年弱ほどの間に100回以上記録されている。最も最近の活動は、2006年7月の噴火。
島には、1507年にポルトガル船が寄留。無人島だった島を“発見”した、とされるが、実は、16世紀はじめのヨーロッパの海図には“Dina Margabim”、あるいは“Diva Morgabim”の名で記載がある。この島名は、パーリ語とアラビア語との混成語で「西の島」を意味した。アラビア人の航海商たちは、ヨーロッパ人以前から島の存在を知っていたと思われる。
1507年、ポルトガル船が接岸し、島を「サンタ・アポローニァ島」と命名。1513年、ポルトガルのインド植民地総督ペドロ・デ・マスカレニャスが“公式に”島の発見を宣言。その後、オランダの提督、英国の海賊、ポルトガルのイエズス会宣教師などが相次いで接岸
1638年、インドに向かっていたフランスのサン=アレクシス号がルイ13世の名において島の占有を宣言。1640年、アレクシス号艦長が「公式」に島の領有を公式に宣言し「ブルボン島」と命名。その後、マダガスカル島のフランス当局は、ブルボン島を反乱者の流刑地に使った。
1665年、20人のフランス人が入植。以降、徐々に開拓され入植者もゆっくりと増加。1700年には、人口700人に。フランス革命の後、革命政府はブルボン島の島名を「レユニオン」に改称。1806年には「ボナパルト島」と改称され、1810年にU.K.(連合王国)海軍に占領され「ブルボン島」の名が用いられた。1815年、ウィーン会議でフランスに返還された。「ブルボン島」の名は1848年まで用いられ、同年「レユニオン島」と、度々島名が変わった。
1946年フランスの海外県として認められる。それ以前は、フランスの中央行政府から派遣された総督が統治した純然たる植民地(直轄地)だった。海外地域圏も兼ねるようになったのは、2003年のこと。
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【参照イメージ】
(レユニオン島の衛星イメージ,NASAによる,Wikimedia Commons)
別称類
主要国の言語
- フランス語名=La R?union
- 英語名=Reunion
- スペイン語名=Reuni?n
- アラビア語名の音=Adna Al-Maghribain
- ロシア語表記=Реюньон
- 中国語表記=留尼旺
その他
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