ナバテア王国
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ナバテア人がいつ頃から、どのような経緯で王国を営むようになったかは、定に解明されていない。この件は、ナバテア人のルーツと関わって議論も多い。
王国の領域が沙漠地帯だった上、ナバテア人は活発に交易に従事したので、国土の範囲も明確に見極めがたい。一応、現ヨルダン領の南西部が勢力の中心地だった、とは言える。
王国は、初期からセレウコス朝に圧迫されがちだったが、競合し続けた。独自の交易網を活用した他、外交策も駆使したようだ。紀元前1世紀、滅亡前のセレウコス朝が勢力を弱めると、ナバテア王国の方は、ダマスカスの支配権を奪って勢力圏を広げた。
ただし、数年後にはセレウコス朝が滅び、ローマがダマスカスも含んだ属州シリアを編成。ナバテア王国の支配域は、再度、歴史的シリアの南部に追いやられた。
その後、ローマ帝国に従属的になり、同様にローマに従属したハスモン朝古代ユダヤ王国との交戦でさらに支配地を奪われた。にも関わらず、王国は、かえって交易で栄えた。
香木などを主要交易品目として、初期の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」の下、紅海交易の実権を掌握した。紀元前後頃のしばらくの間のことで、この時期が王国の最盛期にあたるようだ。
A.D.106年、トラヤヌス帝?の代のローマ帝国によって、ペトラが占領された。ナバテア王国は絶え、ローマ帝国は、属州アラビアを編成した。
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ナバテア人は、かなり早い時期から交易に従事していたと思われ、王国時代には、すでにアラム文化をベースにギリシア風の文物をかなり取り入れた独特の社会を営んでいた。
プトレマイオス朝?の記録によれば、初期のナバテア商人は、エジプト当局から山賊もどきの集団のように警戒されていたようだ。あるいは、プトレマイオス朝に仕えたユダヤ商人たちとの競合関係が、影響していたかもしれないが、定かではない。
ともあれ、ナバテア商人たちは、プトレマイオス朝やセレウコス朝?との接触や交易を通じて、ギリシア風の文物を取り入れていったのだろうと思われる。
紀元前2世紀頃のナバテア王国は、セレウコス朝?とは交易面でも競合関係にあり、しばしば古代ユダヤ王国と、対セレウコス朝の同盟関係を結んだ。
B.C.85年、ナバテア王アレタス3世(Aretas III)がダマスカス?の支配者となり、勢力圏を広げたようだ。
ナバテア王国の国制は、中央集権的ではなく、交易業も営む貴族がかなりの自治権を持っていた。地方には王の代官が派遣される形式だった。こうした国制だったので、ダマスカス掌握後の“広域支配”も実態がわかりづらい。むしろ、ダマスカスを支配下に置いた王宮が、ナバテア人の交易網への影響力を強めた、というあたりが、実態だったかもしれない。
ナバテア王国による広域地域支配は、地中海西岸地域に覇権を確立しつつあったローマと当然のように衝突した。
B.C.64年に、ついにセレウコス朝が滅びると、ローマは属州シリアを編成した。ナバテア人の王朝は、ダマスカスの支配権を失い、ローマ軍はペトラにも遠征した。しかし補給困難で苦戦したローマの将軍マルクス・アエミリウス・スカウルス(Marcus Aemilius Scaurus)は、B.C.62年に300タラントの講和金と引き換えにペトラ攻めの軍勢を引いた。
この後、ナバテア王国は、ローマに従属的な友好国として歩んでいく。B.C.32年、ナバテア同様、ローマの属国になっていた古代ユダヤのヘロデ大王が、ナバテアに対する戦争を仕掛け、かなりの領土を奪った。ナバテア側は、オボダス1世(Obodas I,Advat Iとも)の代だった。
その後のナバテアは、もっぱら、紅海沿岸交易の実質的な交易権を掌握した。ペトラが国際交易都市として最も栄えたのはこの時期と思われる。
王国が絶え、ローマの属州アラビアに再編された後、ナバテア人たちは、地域の都市やオアシスに別れて、生活を続けていったが、自分たち独自の国家を再興することはなかった。
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参照:[ナバテア人] [小辞典ワールド編] [歴史上の国家、王朝、政権] [オスロエネ王国]