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ナバテア人

ナバテア人 ナバテアじん (簡易版)

簡易版です。気づいたとこの増補、改訂、優先に大歓迎。

英語名
Nabataeans
アラビア語名の音
Al-Anbaat

PCが予め知ってていい情報

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 「ナバテア人」は、歴史的シリア?の南部地域(ナバテア地方?)を中心に活動したセム系の古代民族。早ければ、紀元前5世紀頃から、地域で活動していたと思われる。

 紀元前4世紀、あるいは紀元前3世紀頃から、紀元後1世紀過ぎまで、地域の有力な民族だった。いつの頃からか、騎馬を取り入れていたことでも勇名を馳せた。

 紀元2世紀以降は、暫時、民族的なまとまりを弱めていった、と思われる。

 普通、アラブ系と言われることが多いが、言語などの文化はアラム的だった。その民族系統には、議論もある

やや詳しい情報

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 ナバテア人について記された歴史記録で、現在知られる最も古いものは、B.C.312年の記録とされている。すでに、この頃、地域の有力遊牧部族として知られていたようだ。

 普通、ナバテア人は、アラブ系の遊牧部族が地域に移入後、先住のエドム人の優位に立ちつつ、文化面から同化されてアラム化?した集団、と言われることが多い。

 例えば、ナバテア王国の拠点都市として有名なペトラ遺跡?は、エドム人が先住者だった土地を、ナバテア人が引き継ぐように利用したものだった。

 しかし、ナバテア人の民族系統には強い疑義もあり議論もある。現在、専門の研究者は、必ずしもアラブ系起源説を採らず、判断保留にすることも多い。

 アラビア半島北部から移住した集団が、地域の先住民と混交しながら、独自の民族性を形成した、と考える研究者も少なくない。


 部族時代のナバテア人社会は、多くの遊牧社会同様、各部族は長老会によって仕切られ、部族間のできごとは長老会の合議で仕切られていたようだ。

 ナバテア地方で有力民族になる過程で、オアシスを中心にした定着農耕に転じた人口も多かった。

 遊牧を営み続けた民は、オアシスや都市を結んだ長距離交易の中継にも従事した。周辺の古代文明の記録では、これらナバテア商人は、時として山賊まがいの振る舞いに出ることもある、として警戒されていた。時代も文化圏も違う事例だが、例えば、ヴァイキングが交易にも従事した事例などを思いおこさせる。

 今で言う国際ルールにあたるものが脆弱だった時代、長距離交易の中継ぎに従事する民族が、異文化間摩擦から、時として戦闘集団に転じる振る舞いに出る事例は、そう珍しいものではない。

 地域で有力な民族として勢力を得た時代、ナバテア人たちは沙漠交易のルートを掌握して、長距離交易の中継から富を得た。この頃、騎馬を取り入れたナバテアの騎馬隊は、保護下の隊商を警護して沙漠地帯を巡った。

 王国を営むようになっても、中央集権化はさほど進まず、独立性の強い商人貴族の自治権が強かった。

 紀元後2世紀にナバテア王国が絶えた後、ナバテア人の間は、どちらかと言えば定住農耕民が主流となり、各地に分散して暮していった。ナバテア系の遊牧民も続いたが、定住集落との文化的共棲に重点が移り、かつてのような貴族的立場に立つことはもはやなかったようだ。

 アラブ・イスラム勢が、シリア地方を征服した時代には、ナバテア人の子孫は「ビザンツ帝国の小作人」として記されるようになっていた。


 古代ナバテア人は、口語にはアラム語を用いていた、と伝えられる。文語には、フェニキア文字を崩した独自のナバテア文字も用いていたが、むしろ、独自硬貨の刻印などには古代シリア語文語(シリアック,Siriac)を用いていた。

 シリアックの方が公用語のように用いられたと言える。数の少ない、ナバテアの外交文書なども、シリアックで記されていたからだ。

 ペトラ遺跡?の寺院などには、碑文、銘文の類が大変に少ない。浮き彫りを使って描かれた絵物語風装飾の数と比べると、碑文、銘文の少なさは顕著と言える。

 周辺の異文化による古代記録には、「ナバテア人は、沙漠ルートや沙漠に点在するオアシスの位置などを秘密にしようとして、文字に記すことをしなかった」としているものもある。伝承では、ナバテア人は口承の物語などをたいへん好んだとも伝えられているので、「重要なことは、むしろ文字に記さなかった」という風習も、あり得ないことではない。

 王国時代のナバテア人は、アラム文化を基盤に、ギリシア風の文物も取り入れた独自の文化で知られる。降って、シリア地方の「ビザンツ帝国の小作人」と呼ばれたナバテア人の子孫たちは帝国公用語であり、正教の典礼後になっていたギリシア語を用いるようになっていった。

さらに詳しい情報

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 一般には、アラブ系とされることが多いナバテア人の出自だが、異説として「ナバテア人は、少なくともその中核集団はメソポタミア地域の南部から地域に移住(再移住)してきた、セム系遊牧民」と、する説もある。

 ナバテア人が公用語的に用いた文語が、シリアック(古代シリア語文語)だったこと、ナバテア文字も、フェニキア文字と類縁性が強いこと、などが論拠とされている。

 アラブ系出自説は、どちらかと言うと、文献に基づいた研究を重視する立場に多い。これについては、アラブ・イスラム勢が地域を征服した時代、各地に分散して、古いタイプのシリア系キリスト教を信仰していたナバテア人(の子孫たち)が、「自分たちもアラブ系だ」と唱えたのではないか、とも言われるが定かではない

 アラブ系出自説では、ペトラの遺跡?やマダイン・サリの遺跡?周辺から発見された数の少ない碑文類に、古代南アラブ文字で記されたものも含まれていることが根拠にされることもある。

 しかし、この論旨は「何故、ナバテア文字とは別種の古代南アラビア文字が、遺跡の周辺からばかり出土するのか?」との新たな疑問を招いてしまう。この件を、すっきり説明する解釈は、まだ提出されていないようだ。紅海交易の中継センターとして栄えたペトラやマダイン・サリから、南アラブ文字の碑文が出土することは、さほど不思議ではない、とする意見もある。

 ともあれ、メソポタミア南部出自説では、カルデア人?同様、メソポタミアの南端を生活圏にしていたセム系の遊牧部族が、カルデア人による新バビロニア?をきっかけにして、複数の部族集団西方に移住した、と推測されることが多い。

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更新日時:2007/09/28 14:52:07
キーワード:
参照:[オスロエネ王国] [アラバ渓谷] [エドム人] [ナバテア人] [ナバテア王国]
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