クルディスタン共和国
- クルディスタン共和国 クルディスタンきょうわこく (Republic of Kurdistan) 暫定版
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「クルディスタン共和国」は、第2次世界大戦?後の1946年に、1年に満たない期間、現イラン領北西部に位置するマハーバード市?を拠点に、独立を宣言したクルド系自称国家の正称。
「自称」国家と呼ばざるを得ないのは、ソヴィエト連邦?の支援を受けて独立を宣言したものの、ソ連が軍を撤退させた後は、あらゆる国からの国家承認を得られず、国際的に孤立したまま、短期間で消滅したため。ソ連軍撤退の背景には、各方面での2次大戦後の戦後処理を巡る、ソ連とU.S.A.(合州国)?との間の、思惑の食い違い、対立、そして駆け引きがあったと、目される。
共和国は1946年1月に独立を宣言。同年6月にソ連軍が地域から撤収。前後して、当時のイランの正統国家だった、パフラヴィー朝(“イラン”への国名改称は、1935年)が軍事侵攻。同年12月には、共和国崩壊。翌1947年、正式にクルディスタン共和国の消滅が宣言され、3月には、共和国大統領他の指導者たちが処刑された。
クルド系独立派勢力が、正式国名として称したのが「クルディスタン共和国」しばしば、非公式な通称として「マハーバード共和国」(あるいは「マハーバードの共和国」)と、呼ばれる。
「クルディスタン共和国(マハーバード共和国)」は、第1次世界大戦?の戦後処理で、クルド系民族の集団に諸国が約束したにも関わらず、実現されなかったクルド人国家設立を求めた試みとしては、アララト共和国?に次ぐ、2度めのものだった。
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1945年8月、にマハーバードで創設されたイラン=クルド民主党(PKDI)の主要メンバーは、9月に、新たな共産主義共和国建国の支援を求め、当時のアゼルバイイジャン=ソヴィエト社会主義共和国を訪れた。
背景には、第2次世界大戦中の1941年にソ連軍が、イラン領北西部に侵攻し、地域を制圧していた、との事情があった。これは、パフラヴィー朝初代のレザー・ハーンが親ナチ的政策を重ねたため、U.K.軍とソ連軍の共同進駐を招いたもので、レザー・ハーンは息子に譲位して国外逃亡せざるを得なくなった。
伝えられるところでは、PKDI指導者たちは、バクー?で、当時のソ連邦が「イラニアン・アゼルバイジャンで、現在の西アゼルバイジャン?のアゼリー人分離主義勢力による、ソヴィエト社会主義国家建国を支援する計画がある」と、教えられ、「PKDIもマハーバードで、アゼリー人勢力のソヴィエト国家建国に、同調すべきだ」と示唆された、と言われる。
ちなみに、マハーバード市は、現在の西アゼルバイジャン州でウルミエ湖の南に位置している。
翌、1946年1月22日、PKDIを中心に、マハーバード一帯のクルド系政治勢力は、クルディスタン共和国の建国を宣言。同時に公表された政治マニュフェストでは、以下のような方針も表明されていた。
- クルド系イラン人による、イラン国家内での自治の実現
- 公教育、及び、自治におけるクルド系言語の公的使用(公用語化)
- クルディスタン地域の公的問題、及び、社会的問題を管理するため、地域議会を選挙で創設
- 地域の官吏を、全員地域出身者のみから選定
- アゼルバイジャンの人びととの、連体と友愛
- 貴賎を問わず、適用される単一の法体系の確立
実は、第2次世界大戦末期の1943年、ソ連、U.K.(連合王国)、U.S.A.(合州国)?の3国の首脳は、テヘラン?で会合。イランの主権と領土保全を共同声明を出していた。3国首脳会談では、進駐軍は、1946年までにペルシア領を撤収することが申し合わされてもいた。
おそらくは、ソ連側には、親ソ連的な政権がイラン領北西部に樹立できれば、傀儡化しいくことも可能、といったような思惑があったのかもしれない。
一方、マハーバードのPKDIの方も、地域住民が、クルド系ばかりではなかったことや、クルド系でも、非クルド系でも、複雑な部族の利害が重視され、一枚岩ではなかったことが、災いした。地域の分離派アゼリー人勢力との連携、政治調整にも苦労していたようだ。
結局、ソ連は、U.K.、U.S.A.などに非難を被り、支援軍を早期に撤収せざるを得なかった。ソ連軍が撤退すると、マハーバードの政権は、一挙に瓦解した、と伝えられている。クルド人も非クルド人も、多数の部族勢力に分裂してしまったようだ。
マハーバードのクルディスタン共和国、及び、西アゼルバイジャンの分離派勢力は、国際的には「イラン国内の反乱」と見なされ、軍による反乱鎮圧も国際的に承認された。
500人ほどのPKDIメンバーは、共和国崩壊に前後して、ソ連に亡命した。彼らが、帰郷したのは、1953年にイランでクーデタが起きた後のことと目されている。
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